5-4 用意周到
クベラの夜気は想像以上に冷たかった。気温自体はそれほど変わらないのだろうが、皮膚に突き刺さってくるような感じがする。
サヴィトリは無意識のうちに両手を細かくこすり合わせ、はーっと息を吹きかけた。バルコニーの欄干から身を乗り出し、近くの木までの距離を目測する。
飛び移れない距離ではない。だが、その際に枝葉を折ったりなどしてかなりの音がしてしまうだろう。
正攻法――ロープの代用品を作ってそれでおりるには、このバルコニーは高い位置にあった。それに、今からカーテンをはずすのにも時間がかかる。
(どうしよう)
サヴィトリは顎に手を当てる。
だが、後先考えずに飛び移ってみる、という選択肢以外浮かばない。今までだって、やぶれかぶれでもどうにかなった。きっと今度も、なるようにしかならないだろう。
サヴィトリは意を決すると、欄干の上に立った。近くにある最も太い枝を探す。
見つけた瞬間、サヴィトリの足は躊躇なく欄干を蹴った。
飛ぶ。
手足をもがくようにしてできるだけ距離をかせぐが、指の先が枝に触れただけだった。つかむところまではいかず、第一関節を曲げたところで滑った。葉や小枝を手当たり次第につかむが、サヴィトリの体重を支えてはくれない。肌の露出した部分をうっとうしくかすっていく。
サヴィトリはたまらず舌打ちをし、ヴィクラムに返しそびれていたハンカチを取り出した。両手で握り、それを瞬時に凍りつかせる。少しでも落下速度を落とそうと、即席の氷の刃を何かに突き立て――られなかった。木の幹も建物の外壁にも届かない。
全身の血が一気に冷える。
パニックになりかけたサヴィトリに、次に襲いかかったのは衝撃だった。
足の股から胸部にかけて、何か打ちつけられたような痛みが走る。男でなくてよかったと心底思う。運がいいのか悪いのか、サヴィトリの身体を支えるのに十分な太さの枝の上に落ちた。
ただしそれに気付いたのは、身体がその枝からずり落ちそうになった時だった。
サヴィトリは懸命に枝にしがみつく。だがほんの少しだけ遅く、手足だけでしがみつく宙ぶらりんの格好になってしまった。
サヴィトリはそっと首を動かして地面との距離を確かめる。月明かりしか頼るものがないせいで詳細が把握できない。
「サヴィトリってさ、想像を裏切らないよね」
押し殺したような笑い声が聞こえ、地面にオレンジ色の丸い明かりが灯る。
その光によって照らしだされたのは、見慣れたへらへらとしまりのない顔だった。
「単純でどうもすみませんでした」
サヴィトリはむっとしてみせたが、笑みがこみあげてくるのを抑えきれなかった。
「ちゃんと受け止めるから、おいで」
ジェイはいつになく真面目な表情を見せ、両手を広げた。
サヴィトリは抵抗なく、枝を離した。落下しているにもかかわらず、なぜかふわりと身体が浮くような感覚に襲われる。
それから何秒か――一秒だったのかもしれないし、もしかしたら三十秒以上だったのかもしれない――して、背中のあたりと膝の裏に支えてくれる力を感じた。
いつの間にかつむってしまっていた目を開けると、今までないほど近くにジェイの顔があった。
「どう? ちょっと俺に惚れちゃったりしない?」
「助けていただきどうもありがとうございました」
サヴィトリは慇懃にお礼を言うと、早くおろせと言わんばかりに足をばたつかせた。
「ドキッ! この胸の高鳴りはもしかして……!? ぐらいの反応をして俺に期待を持たせてくれてもいいと思うなー」
ジェイは不満そうに頬を膨らませる。
「急な顔の火照りや動悸は更年期障害の症状だろう。私はまだそんな歳ではない」
「ねえ、どうして恋のトキメキじゃなくてそっちを連想しちゃったのかな?」
「なるほど把握した。すきすきだいすきあいしてる」
サヴィトリは無表情かつ平坦な調子で言った。
「もう、いいです……」
ジェイは諦めたようにサヴィトリをおろす。わざとらしく目元を手で押さえ、ふるふると頭を振った。
「それで、ジェイはこんな夜中にこんな所で何をしているんだ? 夜這いか?」
「おっと、サヴィトリ。さらっと誤解を招くようなことは言っちゃダメ」
「じゃあ夜逃げ? 夜遊び?」
「お願いだからもっとシンプルに考えて」
「うーん?」
サヴィトリは首をひねる。これ以上、夜がつく行動が出てこない。
「あーあー……絶対サヴィトリが夜中抜け出すと思って、研究塔に行くために地図とか馬とか色々こっそり用意したのになー」
ジェイは両方の人差し指をこすり合わせ、じっとりとした目をサヴィトリにむける。
「……本当に?」
「いや、期待持たせちゃった俺にもちょっとは責任あるかなぁと――」
サヴィトリは顔をくしゃくしゃにしてジェイを抱きしめた。
突然のことにジェイの身体がぐらつく。
「はいっ!?」
「ありがとう。色んな人に迷惑かけてばっかりで、特にジェイには苦労させている。でも、それでもまだ、優しくしてくれてありがとう」
「……ついでにちゅーでもしてもらえると、俺もっと頑張れるんだけど」
一瞬の静寂の後、サヴィトリは笑顔でジェイにフロントチョークをかけた。




