2 まぼろし
「本当に君って、馬鹿だよね」
懐かしく、聞き覚えのある声。
サヴィトリは重い目蓋を気力でこじ開ける。発熱による幻聴でも幻覚でも、なんでもよかった。
「ナーレ?」
ベッドのそばにいたのは、いつか夢で見たのと変わらないナーレンダだった。意地の悪い微笑みを浮かべている。
「昔はよく熱出してたよねえ。氷術の扱いに失敗してさ。ったく、何度看病させられたことか」
そう。
こんな嫌味っぽい物言いがナーレンダのデフォルトだった。
これは一体なんなのだろうか?
夢、幻覚、現実?
「本当にナーレなの? でも、全然変わってない」
「そりゃあ、僕に対する情報が別れた時で止まってるからさ。人の十年後の姿なんて、うまく想像できるわけがない。同様に、僕も君に対する情報がない。だから今の君は、僕にとっては見知らぬ女の子だよ」
「? 何言ってるのかわかんない」
「しょうがないよ。だって君馬鹿だから。それに今は熱も出てる。無理はしないほうがいい」
ナーレンダはなだめるようにサヴィトリの髪を撫でた。
「そもそも、君はどうしてこんな所にいるのさ? あのクリシュナが許すはずがない。もしかして無理矢理振り切ってきたの? だとしたら救いようのない馬鹿だね」
「さっきから馬鹿馬鹿うるさい」
「それ以外に形容の仕方がないんだから諦めなさい。で、家出少女の目的は?」
「ナーレは質問が多すぎる」
「やっぱり馬鹿だね。この程度、さらっと答えて当然だろう」
ついにイライラに耐え切れなくなったサヴィトリは、枕をナーレンダに投げつけた。
「自分に都合が悪くなるとすぐ暴力に訴えるんだから。本当に嫌だねこの子は」
しっかり顔面に枕を食らったナーレンダは顔を引きつらせる。
「ナーレだって、なんでここにいるの!? これは夢、幻覚、現実、それとも偽者!? ひとのこと馬鹿にしたんだからこれくらいさらっと答えてよ!」
「やだね」
傲慢に言い切ると、ナーレンダは仕返しとばかりに枕でサヴィトリの顔を押し潰した。
「体調がよくなったらすぐにでもクリシュナの所へお帰り、サヴィトリ。それが僕の望みだよ」
「っ、嫌だ! 帰らない! ナーレの望みなんか知らない!」
サヴィトリは枕を押しのけ、反射的にそう叫んでいた。
「……言うと思ったよ。君は何かにつけて反発する子だから」
ナーレンダは懐かしいものでも見るように微笑み、サヴィトリの肩を押さえつけた。唇をサヴィトリの目蓋に寄せる。
おやすみのおまじないだ。
サヴィトリがだだをこねて寝ない時、夜更かしをしてる時、風邪をひいて不安な時、ナーレンダは目蓋に唇を落とす。すると、突き落とされたように意識が遠のいていく。
ナーレだっていつもそうじゃないか。一方的で、なんにも説明してくれない。ひとの気も知らないで。
最後に言ったことがナーレンダの耳に届いたかどうか、サヴィトリにはわからない。
* * * * *
ゆっくり目蓋を持ちあげた時、サヴィトリの目に入ってきたのはオレンジ色の光だった。
カイラシュとジェイがお見舞いに来たのが十時頃だから、夜の睡眠と同じくらい寝むりこけていたことになる。
寝ている間に熱も引いたらしく、ふわふわと浮かされたような感じもない。
(右手あったかい?)
右手が何かに包まれているように温かかった。サヴィトリは顔を右手の方にむける。
そこには誰の姿もなく、ただ不思議なぬくもりだけがあった。
(いるわけ、ないよね)
サヴィトリはぎゅっと両手を握りしめる。幻想だとわかっていても、手に残る温かさを少しでも長く感じていたかった。
(今でもあんな感じの性格なのかな。それとも少しは丸くなったかな。確か三十近いはずだし)
夢とはいえ、久しぶりにナーレと言い合い――一方的に罵倒されただけのような気もするが――ができて楽しかった。
だが、
『体調がよくなったらすぐにでもクリシュナの所へお帰り、サヴィトリ。それが僕の望みだよ』
意識を落とされる間際の言葉がよみがえる。
やはり、ナーレに会いに行くことは彼にとって迷惑なことなのだろうか?
(……ああ、うじうじ悩むなんてらしくない! とにかく今は、早く体調を整えないと)
サヴィトリはやけくそ気味に頭から布団をかぶり、きつく目を閉じた。




