1 熱
「三十八度三分」
体温計を見据え、カイラシュは必要以上に厳粛に言った。
「間違いなく熱があります。サヴィトリ様がなんと言おうと、今日はここで安静にしていていただきます」
「大丈夫だ。だって今日は……」
赤い顔をしたサヴィトリは慌ててベッドから上体を起こす。
が、勢いがありすぎたせいか、熱のせいか、めまいを起こした。
ぐるり、と世界がまわる。
「サヴィトリ様!」
カイラシュが背を支える。おかげで頭を打たずにすんだが、気持ち悪さがこみあげてきた。
慣れない異国での生活や、先日の襲撃騒動などが、思った以上に疲労やストレスになっていたのかもしれない。
サヴィトリは自分の額に手を当てる。カイラシュに言われるまでもなくわかっていたが、熱い。というか顔全体が熱い。
「ああ、まことにおいたわしいことです。ここは一つ、わたくしが一肌脱いで添い寝をし、サヴィトリ様の熱をこの身体へと移しましょう!」
いそいそと服を脱ぎ始めるカイラシュ。
普段なら「三途の川の水質を調べてこいカイラシュ!」とでも言って鳩尾に膝蹴りでも叩きこむところだが、今は一人で立ちあがれるかも危うい。
「ちょっと何やってるんですか!」
カイラシュを羽交い絞めにして止めたのはジェイだった。
「ねぇ、サヴィトリ。ちょっと見ない間にこの人脳内の発酵が相当進んじゃってるんだけどどういうこと?」
(ジェイ、助けてくれたのは嬉しいが命知らずだな)
サヴィトリはこそっと合掌する。ジェイは数秒後に八つ裂きにされるだろう。
「愚民ごときがこのわたくしを阻もうなど笑止! 即刻血祭りにあげ、我が野望の礎としてくれる! ふっ、光栄に思うがいい!」
(もうなんだろうこの人。日によってキャラに波があって面倒だからツッコミも入れたくない)
高らかに悪役三段笑いをしているカイラシュを見て、サヴィトリは余計に熱があがる思いがした。
「あのー、俺サヴィトリの見舞いに来ただけなんですけど」
「貴様っ! 高貴なるサヴィトリ様の御名を呼び捨てにするとは何事ですかっ!!」
「俺、さっきも呼び捨てでしたけど」
「なんと一度ならず二度までも!? わたくしだって、わざと呼び捨てにして『このクズがっ! 無礼であろう!!』と散々に罵られたいのにっ……!!」
(誰か助けて……!!)
熱に加えて頭痛までしてきたサヴィトリは、今までの人生の中でもっとも強く神様に祈った。
(それにしても、全然当たらないな)
さっきからずっと、カイラシュはわけのわからないことを叫びつつ、ジェイを葬り去ろうと攻撃をしかけている。
だが、ジェイはそれをすべて巧みにかわしていた。どの攻撃も偶然かわせたようにも見えるが、あまりに幸運が続きすぎるのは違和感がある。
(近衛兵になるくらいだし、意外と強いのか)
「パワーは段違いだけど、スピードはサヴィトリのほうが上だよ。あと、どれも結構大振りかな」
サヴィトリの心中を読んだかのように、ジェイが言った。やはり一撃一撃を認識し、かわしているようだ。
「それに俺、カイラシュさんの弱点、知ってますよ」
ジェイはへらへら~とした笑顔を浮かべた。台詞のせいか、笑顔がうさんくさく見える。
「弱点? 愚民ごときにわたくしの弱点など想像がつくわけがありません。しかし、これ以上わたくしの究極絶対天上天下唯一無二ご主人様であるサヴィトリ様に隠し立てしておくわけにもまいりません。サヴィトリ様! ぜひわたくしの弱点をお聞きください! わたくしの弱点は右耳上部と左ちk」
「最後まで言わせるか変態!!」
サヴィトリは力を振りしぼり、近くにあった花瓶を投げつけた。
顔面にクリーンヒットしたカイラシュはうっとりとした顔で沈黙する。
「……ちょっと見ない間に、大変なことがあったみたいだね」
「ありがとうジェイ。ジェイが来てくれたおかげで、今日が私の命日にならずにすみそうだ」
サヴィトリは心の底から感謝する。
頭のおかしなカイラシュに看病されていたのでは、悪化して血管が切れることはあれど、快方にむかうことなど絶対にない。
「大袈裟だなぁ」
と言いつつジェイは嬉しそうな表情を浮かべる。
「熱があるって聞いたから、とりあえず水とすりおろしたリンゴ持って来たよ。脱水症状起こしたら大変だからね。咳とか頭痛とか、他に気になる症状はある? お腹の調子は悪くない? 何か食べれそう? お腹の調子が悪い時は、腸に血流が集中してるから吐き気を引き起こしやすいかも。そういう時はあったかいレモンティーとかがいいんだって。あと、何か必要な物があったら遠慮なく言ってね」
甲斐甲斐しすぎる母親のように、サヴィトリの額に冷たいタオルを乗せたり、汗をふいたりしながらジェイは尋ねた。
「ありがとう。私はみんなに、ジェイに、迷惑しかかけていないな」
サヴィトリは視界が滲むのを感じた。
自分が他人のために何かできると思うほどおこがましくはないが、自分自身のことすら満足にできず、周囲の負担になっている。
守られるだけの子供ではないと、森で暮らしていた時は自負していたが、やはり自分は守られるだけの子供だった。
「何言ってんのサヴィトリ? 熱でよりいっそう頭おかしくなっちゃった? しおらしいのは可愛いけどさ、サヴィトリらしくないよ」
ジェイの手がサヴィトリの頬に触れる。
ジェイの手はひやりと冷たく、心地良い。熱を吸いあげていってくれるようだった。
「よりいっそう、は余計だ」
「はいはいごめん。俺はいつも一言多いんだよね。それより水飲んだほうがいいんじゃない? 唇がさがさだよ」
ジェイの指がサヴィトリの唇に触れ――はしなかった。
「それ以上やったら、あの世でわび続けていただきますよ?」
握り潰すような強さで、カイラシュがジェイの手首を握っていた。
「あはは。俺、家族に見守られて畳の上で大往生するのが夢なんだよね」
ジェイは両手をあげ、降参のポーズをとる。
「またね、サヴィトリ」
猫以上の身軽さでカイラシュから逃れると、ジェイはさっさと出て行ってしまった。
「……油断ならない男です」
閉じられた扉を見ながら、カイラシュはため息をついた。
「では、わたくしも失礼いたします。人がいたのではゆっくりおやすみになれないでしょう。ですが、本日はできる限り執務室の方に控えておりますので、何かありましたら早急にお申しつけください」
先ほどのいかれっぷりが嘘のように、カイラシュは粛々とした態度で頭をさげた。音を立てないようにそっと出て行く。
(みんな優しいな)
急に静かになり、サヴィトリは寂しさを覚えた。
唇に触れてみると、ジェイの指摘どおりかさついていたので、サヴィトリは水を飲んだ。今日初めて口にするので、むせ返らないようにゆっくりと。
(どうすれば、恩を返せるだろうか)
カイラシュに恩を返す方法は、おそらくもっともシンプルだ。
自分がタイクーンになる。それが彼の望みだろう。
だが、それは決してできないことだ。心情的な理由が大半を占めるが、資質的にも、上に立つのにむいていないと思う。十年たっても二十年たっても、きっとそれは変わらない。
ジェイやヴィクラムには、何をすればいいのか見当もつかない。要望を聞いても、「何もしなくていい」か「おとなしくしていろ」と言われる気がする。
(どうしよう、ナーレ)
サヴィトリは手をかざすようにして指輪を見た。
(私は、森でおとなしくしていればよかった? ナーレだって、突然私が来たら迷惑かもしれない。私のことも、約束のことも全部、忘れているかもしれない。私はみんなに迷惑をかけるためにあの森から出てきたの?)
問いかけても何も答えは返ってきはしない。
サヴィトリは額に手を当て、目蓋を閉じた。




