4-6 ランクァ市街の変態
サヴィトリには、ニルニラが何を言っているのかわからない。だが理解よりも先に、身体がニルニラの言葉の意味を知った。
突如、身体のあらゆる部分が重さを増した。正確には、だいぶ前からだんだんと重くなっていっていたが、雨によって服や髪が水分を含んだだけだと思っていた。
それが思い違いだったと知ったのは、重さに耐えきれなくなった身体がくずおれてからだった。
どうにか立ちあがろうと腕を動かそうにも、その腕自体が重くて持ちあがらない。髪すらも、一本一本が金属でできているかのようにずしりと頭を圧迫する。
「だから、傘を差さないと濡れてしまうと言ったのでございます」
ニルニラは、地面に無様に這いつくばるサヴィトリを見下ろす。
「この術は、行使するには制限が多いのでございます。屋外でなければならないとか、雲一つない晴天でなければならないとか――ちゃんと聞いているのでございますか?」
「……そんなことを聞かせて、どうする。私の負けは確定、なのだろう?」
「はい。あとはぐっさり心臓を一突きすればすぐに終わりでございます。このまま放っておいても落ちるのでございますが」
「こんのニラ女がああああああああああっ!! わたくしの愛しきサヴィトリ様をどこに連れて行きやがりましたかあああああああっ!!!!」
どこからともなく、地獄の咆哮が聞こえてきた。救援であることは間違いないが、サヴィトリは素直に喜べない。
ニルニラの顔が一瞬にして青ざめる。
「ひっ……ば、化け物なのでございます!!」
みしり、と宙の何もないはずの所にひびが入った。
「この奥かあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
カイラシュの怒号はもはやホラーでしかない。
「きゃああああっ!! あれだけには殺されたくないのでございます殺されたくないのでございます!!」
カイラシュにおびえるニルニラがなんだか可哀そうになってきた。
何かが壊れる決定的な音が響き、一瞬にして白黒の世界が瓦解した。
大量のガラスを割ったような音と共に、世界が色を取り戻す。
白黒の風景に目が慣れていたサヴィトリは、微かな痛みに目を細める。
「な、なんとかしてほしいのでございます!」
数分前までの余裕はどこへやら、ニルニラはしっかりとサヴィトリの腰にしがみつく。
(よっぽどカイが怖いのか? ……いや、まぁ、相当怖いけど)
サヴィトリの姿を目視すると、カイラシュは今までの殺気を一瞬で完全消去し、満面の笑みを浮かべた。
「あぁんっ、サヴィトリ様! わたくしの最愛深愛切愛溺愛とにかく大好きサヴィトリ様! ご無事で何よりでございます!! たとえ一瞬離れただけでも、千の秋を経たような寂しさに身がちぎれるようでした! さ、早くそのサヴィトリ様の花のかんばせをわたくしめにしっかとお見せください!!」
(どんどん重症化してきてるような……)
「とりあえず無事、のようだな」
ヴィクラムが遠慮がちに姿を見せた。
「なんていうか、色々助けて」
「すまん。こればかりは無理だ」
ヴィクラムは首に手を当て、薄情にも背をむけた。
「さあサヴィトリ様!!」
サヴィトリの腰にしがみついて震えているニルニラを容赦なく弾き飛ばし、カイラシュは強すぎる力でサヴィトリを抱きしめた。
「お怪我はありませんかサヴィトリ様?」
これといった怪我はないが、現在進行形で骨がみしみし悲鳴をあげている。
「わたくしがついていながら恐ろしい思いをさせてしまい申し訳ありません」
正直、カイラシュが一番恐ろしい。
「ここはサヴィトリ様を一人にさせてしまった罰として、わたくしがサヴィトリ様の御身をもらい受けるのが筋というものでしょうが、いかに傷が付こうともサヴィトリ様はこの世に比肩しうるものがないほど高貴なお方。わたくしごときが賜ってよい道理がございません。
よってわたくしの矮小な頭で考えましたところ、わたくしが奴隷としてサヴィトリ様に一生を捧げるのが最良かと存じます。さぁ、サヴィトリ様。どうぞ遠慮なくわたくしを牛馬のように、いえ、それ以下のものとして存分に罵り虐げてください! サヴィトリ様にならば、性奴として扱われても構いません! 現世で最高の快楽のために誠心誠意ご奉仕いたします!!」
「この世とあの世を十往復して来いカイラシュ!!」
※※※しばらくお待ち下さい※※※
「うふうふうふふふうふふふふふふふふうふふふふふ……わたくしにも、まだ見ぬサンクチュアリへの扉がありました」
サヴィトリはまた新たな魔物を召喚してしまった。
(……もう色々嫌だ)
「あの女が逃げてしまったが、どうする、追うか?」
カイラシュが落ち着いたであろう頃を見計らい、ヴィクラムが尋ねた。
「いえ、捨て置いて構いません。とりあえず、そこに転がっている方々にお話を伺いましょう。あまり期待はできませんが」
今まで身悶えていたカイラシュがすっと立ちあがった。悟りの境地に達した賢者のように無心で聡明な顔をして。
「後の始末はわたくしが請け負います。こういったことは得手とする者がやるべきでしょう。本来ならば貴様なんぞに頼みたくはありませんが、この際仕方ありません」
カイラシュはサヴィトリの背中を軽く押し、ヴィクラムの方へと行かせる。
「アースラの傍流の令嬢にはこれ以上の警護は付けられません。ヴィクラム殿、どうぞサヴィトリ様のお命をお守りください」
深く、カイラシュは頭をさげた。
「わかった」
短く力強く、ヴィクラムは答える。
「――ただし、サヴィトリ様に不必要に触れやがったら査問なしに宮刑に処す。お情けで宦官としての地位は保証して差しあげますので、薄汚れた下半身をせいぜい綺麗に洗ってお待ちになりやがってくださいね」
(えげつない……)
サヴィトリは軽く口元を押さえた。ヴィクラムを相手にする時のカイラシュは、著しく周囲に対する配慮が欠ける。
「二人ともそんなに気を遣わなくても。あの様子じゃ、ニラはもう来ないだろうし」
サヴィトリは努めて明るい口調で言った。日常茶飯事とまではいかないが、理不尽に命を狙われたことは今までに何度もある。
「駄目です」
「駄目だ」
珍しくカイラシュとヴィクラムの意見が一致した。見事に声がはもる。
サヴィトリは口をつぐまざるを得ない。
「ひとまず羅刹の宿舎に連れて行く。あそこなら派閥の影響を受けず警備もしやすい」
「総隊長を筆頭に戦闘狂のアホの集まりですしね。特例で許可しましょう」
「アホ、か。否定はしない」
(しなくていいのか?)
サヴィトリは思わず心の中でつっこみを入れる。今まで関わったクベラの人間は、みんな何かがおかしい。
「行くぞ、サヴィトリ」
ヴィクラムはサヴィトリをうながし、先を歩く。
数歩進んだところで、不意に何かを思い出したようにヴィクラムは立ち止まった。サヴィトリの方を振り返り、ためらいがちに手を差し出す。
(私はそんなに危なっかしく見えるのか)
悩みながら、サヴィトリはヴィクラムの手を取った。
幼い頃はクリシュナやナーレンダとよく手をつないで歩いたが、十代前半あたりから滅多に他人と手をつなぐことがなくなった。
ヴィクラムの手は大きくて皮膚が厚く、意外に温かい。どことなくクリシュナの手に似ていた。
手を取った時に背後からただならぬ気配を感じたが、サヴィトリはあえて振りむかず、知らないふりをつきとおした。




