4-3 犬と主人と傍観者
「うふふふふふふふふうふふふふふふふふふふうふふふふふふふふふふうふうふうふふふ」
事あるごとに、カイラシュは頬を押さえて怪しく思い出し笑いをした。
(どうしよう、本当に変態だった)
サヴィトリは冷や汗をかかずにいられない。
風呂に入れられたり着替えさせられたり首筋に指を這わされたり、女性だと思っていたから暴力による抵抗はしなかった。それなのに、実際にはれっきとした男であるという。自分には何発かカイラシュを殴る権利があるはずだ――と気がすむまで殴ったら、なぜかこんなことになってしまった。途中でから悲鳴が喘ぎに変わっていることにもっと早く気付くべきだった。
「うふうふふ、サヴィトリ様のおかげで新しい世界の扉が見えました」
サヴィトリはとんでもない魔物を呼び起こしてしまったらしい。
サヴィトリは右隣を極力見ないようにし、左ななめ前を歩くヴィクラムの服を引っ張って助けを求める。せっかくの外出だというのにこのままでは楽しめない。
「だから俺は気を付けろと言った」
「私はどう気を付ければよかったって言うんだ! ヴィクラムと立ち合ってた時だって加虐的な感じはあったけど、まさかドМだなんて誰が思うか!」
「わたくしをのけ者にしないでくださいサヴィトリ様」
語尾にハートマークでもついていそうな甘ったるい声で囁き、カイラシュはサヴィトリの背中にしなだれかかった。
ぞわぞわっと、背筋を虫が這いまわったような感覚をサヴィトリは覚える。
「やめないか気持ち悪い!」
「あぁ、もっと激しく罵ってください!」
まともな会話が成立しないカイラシュにサヴィトリは激しい苛立ちを感じるが、かろうじて拳を振りあげることは抑えた。罵倒と暴力はカイラシュにとってご褒美だ。
不毛なことを繰り返しているうちに、三人は商業区の中央広場へと辿り着いた。
広場の中央には、トゥーリの関所にあったのと同じデザインの噴水が設置されている。関所を通ったのはたった数日前のことなのに、サヴィトリにはひどく昔のことのように感じられた。
「商業区の他に、居住区、軍管区、特別区――あとは歓楽街などもありますが、見て楽しい場所ではありません。社会の勉強として行くなら別かもしれませんが」
だいぶ熱が冷めてまともになってきたカイラシュが説明する。
あたりを見まわしてみると、様々な店舗の他に数多くの露店が立っていた。歩きながら食べられるような軽食やお菓子を売っていたり、子供むけのくじ引き、射的や輪投げなどのゲームまである。
「毎日こんなお祭りみたいな感じなのか?」
「今日はたまたまですよ。大体二ヵ月に一度ほどのペースでこのような市が立つのです。三代目のタイクーンが祭り好きで、当時はそのタイクーンが自ら陣頭指揮をとって毎月なんらかの祭りを催していたそうですよ。この市は、その名残のようなものですね」
「ふーん」
サヴィトリはカイラシュの話におざなりな相槌を打つ。解説を聞くより早く見てまわりたい。
何年かぶりの祭りにサヴィトリは心が沸きたっていた。猫以上の身軽さで人の間をぬって歩く。
トゥーリでもこういった露店の立つ祭りが定期的にあり、ナーレによく連れて行ってもらっていた。
サヴィトリは目についた店を片っ端から覗いていく。串焼き、綿菓子、果物、風船、綿のはみ出たクマのぬいぐるみ――店を出るたびにサヴィトリの持ち物が増える。
「ちょっと待て」
串に刺さった焼きイカをかじりながら、サヴィトリが次に入る店の目星をつけていると、襟首を誰かにつかまれた。喉がぐっとしまり、一瞬息が詰まる。
「支払いが追いつかない」
つかんだのはヴィクラムだった。首に手を当てながら不機嫌そうに言う。
サヴィトリは自分が覗いた露店の方を見てみる。カイラシュが頭をさげていくばくかの金を店主に渡していた。
「ごめん、カイ!」
サヴィトリは慌ててカイラシュの方に駆け寄り、勢いよく頭をさげる。お金のことなどまったく気にせず、子供の時と同じ感覚で見てまわってしまっていた。
「いいえ、楽しそうなサヴィトリ様のお顔が見れるならこれくらい安いものです」
カイラシュは柔和に微笑む。先ほどまでのあのいかれた変態っぷりを目にしていても、本当は女性なのではないかという錯覚を覚える。
サヴィトリは支払ってもらった分を返そうと財布を開くが、中にはトゥーリの通貨しか入っていない。そーっと露店を窺うと、店主と客は見知らぬ貨幣でやり取りをしていた。
「……出世払いでいいかな?」
「罵り虐げてくださるならもっと払います」
「絶対返す!」
やはりカイラシュの脳味噌は発酵が進んでいるようだ、とサヴィトリは断ずる。天は二物を与えずと言うが、与えたものと与えられなかったものの落差がひどい。
「こういった催しが好きなのか?」
サヴィトリの手から羊肉の串焼きを抜き取り、ヴィクラムは尋ねた。
「貴様は金を払いやがってください! しかもサヴィトリ様のお手に触れた物なので最低でも定価の十倍は――」
「うるさい」
カイラシュがぎゃあぎゃあわめくので、サヴィトリはつい実力行使で黙らせてしまった。想像することを脳が拒否するほど後が恐ろしいので、ヴィクラムの腕を引っ張ってその場から離れる。
「ずいぶんと好かれているな」
ヴィクラムは笑いをこらえるように口元に手を押し当てた。
「全然嬉しくない」
サヴィトリは口角を吊りあげるだけの笑みを見せる。
「だが珍しいことだ。あの男は人に滅多に懐かない」
ヴィクラムは少しだけうしろを振り返った。
「そう?」
出会って一日二日でうざったいほど懐かれてしまったサヴィトリはにわかに信じがたい。
「表面的には皆に人当たりはいい。俺は嫌われているほうだが」
「二人は昔からの知り合い?」
「互いにそれなりの家の子息で歳も近く、顔を合わせる機会は多かった。親しくなる要素はまったくなかったが」
「叩きのめせば簡単に仲良くなれたんじゃないか?」
「それだけはお断りだ」
サヴィトリの提案に、ヴィクラムの目元が少しやわらぐ。ほんの少しの変化だったがぐっと近寄りがたさが薄れた。
鋭さを孕んだ風貌と感情の起伏の少ない言動のせいで、いけ好かないという印象が強くあったが、ちゃんと話してみるとそれほど嫌な感じがしない。
「話を戻すが、こういった催しが好きなのか? ずいぶんはしゃいでいたようだが」
と尋ね、ヴィクラムは串焼きにかぶりついた。
「小さい頃は一人で森から出ちゃいけないって言われてて、街に行けるのはナーレに買い物に連れてってもらうか、お祭りの時くらいだったから」
クマのぬいぐるみの腕に結んでいた風船の紐がしゅるりとほどけた。青い風船は風に乗って舞いあがり、あっという間に空に吸いこまれていく。
「ヴィクラムには話したっけ? ナーレっていうのはお兄ちゃんみたいなお母さんみたいな人で、本当はクベラに来たのもその人を探すため。跡を継ぎに来たわけじゃない」
本当の本当はただの家出だ。もちろん言わない。
「どんな理由で来たにせよ、俺のすることに変わりはない。ただ、守るだけだ」
ヴィクラムは視線を落とし、腰に帯びた刀に目をやった。
やはり、自分の命をおびやかす何かがあるらしい、とサヴィトリは感じる。本人の意思にかかわらず、いなかったはずのタイクーンの娘の出現は一部にとって目障りだろう。
「だったらさ、いの一番にあの変態補佐官から守ってほしいんだけど」
「それこそもう一度自分で叩きのめせばどうだ?」
ヴィクラムの皮肉に、サヴィトリは微笑みだけで返した。




