4-1 いつもではない朝
ごはん。ご飯を作らないと。師匠の朝ご飯。
切ったベーコンと卵を焼いて、半分に切ったベーグルに乗せる。飲み物はホットミルク。卵はちゃんと火を通して完熟にしないと、それだけで師匠は一日不機嫌になる。
サヴィトリはベッドから出ようとするが、ふわふわとしたかけ布が身体にまとわりついてきて離れない。マットレスもぐにぐにと柔らかく、手をつくだけで沈みこんでしまう。まるで溺れてしまっているようだった。
自分が朝に弱いということは、誰よりもサヴィトリ自身がよくわかっている。起きてから最低でも数分間は意味のない寝返りを繰り返さなければベッドから抜け出せない。
だが今日はいつもと違った。寝返りを打つどころか、身じろぎをするだけで予想外の方向に身体が流れる。
(まさか、今日は珍しく師匠が早起きで、私がなかなか起きないから悪戯でもしたとか?)
以前、夕食のスープが少しぬるかったというだけで、その日の翌朝、サヴィトリは部屋の中に雪を降らされたことがある。クリシュナなら、こういった悪戯をやりかねない。
「……こんの、馬鹿師匠――」
「おはようございます、サヴィトリ様」
サヴィトリが怒鳴り声をあげたのとほぼ同時に、部屋の扉が開いた。クリシュナではない優しい声がかけられる。
サヴィトリの頭の中に無数の疑問符が浮かぶ。朝、優しく起こしてくれるような人などサヴィトリは知らない。
状況が理解できずサヴィトリが首をひねると、その方向に身体が転がった。半回転もしないうちに、ふっと身体を支えていたものが消失する。
落ちる、と思った時にはすでに、かけ布と共に身体が床に打ちつけられていた。いい加減に目を覚ませ、という天からの鉄槌だったのかもしれない。
「だ、大丈夫ですかサヴィトリ様!」
誰かがサヴィトリの元に駆け寄ってくる。
綺麗な女の人だ。カイラシュと名乗った、タイクーン補佐官。
心配そうに顔を覗きこんでいる人物の名前を思い出したのをきっかけに、サヴィトリの意識が加速度的に明瞭になっていく。
ここは、クリシュナと二人で暮らしていたハリの森の小屋ではない。クベラの王城、補佐官の私室。
(ご飯、作らなくてもいいんだ)
現状を理解した途端、あくびが出た。慌てて口元に手を当てるが間に合わない。
視界が滲んだ。あくびのせいにしては潤みすぎている。
サヴィトリは顔を隠すようにして、両手で前髪を梳かした。何度も何度も繰り返す。
「どこか痛みますか、サヴィトリ様?」
カイラシュは床に両膝を付き、そっとサヴィトリの頭を撫でた。
サヴィトリは首を左右に振り、身体を起こした。サヴィトリの身体にまとわりついていたかけ布がはらりと肌から滑り落ちる。
カイラシュはぎょっとした表情をし、光の速さでサヴィトリの身体に布を巻きつけた。
「一つお尋ねしますが、昨晩誰かをこの部屋に連れこんだりなどしていませんよね?」
爪が食いこむのではないかというくらいしっかりとサヴィトリの両肩をつかみ、カイラシュは整った眉をきりきりと吊りあげる。
「してない」
肩の痛さに気を取られつつ、サヴィトリは短く答えた。
そういえば、久々に家にいる時と同じように服を着ずに寝たから、クリシュナと暮らしていた時のことを思い出したのかもしれない。
カイラシュは矢継ぎ早に質問していく。
「では、服はどうしたのですか?」
「脱いだ」
「そんなのは見ればわかります。どうして服を脱いで眠っていたのですか?」
「いつも寝る時はこう」
「道中もそのように休みになられていたのですか?」
「ジェイに怒られてからは服を着て寝た」
「ちなみに、もし就寝時に災害になどあった場合はどうするのですか?」
「急いで逃げる」
「……そのままの格好で?」
「もしかしたらシャワーを浴びている最中に災害にあう人だっているだろう」
「そうですか。ならば」
カイラシュの唇が意地悪く吊りあがったように見えた。
サヴィトリは不穏な空気を察し反射的に身を引くが、恐ろしく強い力で引き戻される。抵抗する間もなく、サヴィトリはカイラシュの腕の中に収められた。
「こういった事態になるとは、想像できませんか?」
カイラシュはねっとりとした声で囁く。答えをうながすように、長い指がサヴィトリの首筋を遅々と這った。
(これはまさか、いわゆるオネエサマ……!?)
寒気と得体の知れない何かによって、サヴィトリは背筋のあたりがぞくっとするのを感じた。
思い返してみれば、カイラシュはやけに男に対して当たりが強かった。ジェイしかり、ヴィクラムしかり。タイクーンにすら手厳しかった。
それに比べてサヴィトリに対しては恐ろしく甘く優しい。うっかり一度流し目に当てられてしまった。
(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう)
サヴィトリは軽いパニックに陥ってしまう。男相手なら鼻っ柱に拳を叩きこんで終了だが、さすがに女性にそんなことをするわけにはいかない。
「冗談ですよ、サヴィトリ様」
みるみるうちに青ざめていくサヴィトリの顔を見て、カイラシュはたまらずふき出した。安心させるようにサヴィトリの背をぽんぽんと叩く。
本当に? とサヴィトリはすがるような視線をむける。
カイラシュは微笑でもって答えた。
「でも本当に気を付けてくださいね。明日も理性で御すことができるかどうか保証はできませんから」
「うーん……服を着たままだとなんか窮屈で寝つきが悪いんだけどなぁ」
サヴィトリは困ったように眉根を寄せる。カイラシュの言葉の後半部分はあえて聞かなかったことにした。
「……でしたら、わたくしから申しあげることはもう何もありません」
カイラシュは頬に手を当て、深く長いため息をついた。
「――あ、すみません。そういえば私、ずっとカイさんにため口でしたよね」
今更かもしれないと思ったが、サヴィトリはカイラシュに頭をさげた。敬語を使う習慣があまりないせいか、いつの間にかため口で接してしまっていた。
「いいえ。話しやすいようにしてくださって構いませんよ。ああ、あと、名前も『カイ』と呼び捨ててください。それでため口の件は帳消しにする、というのはいかがですか?」
「……うん。じゃあそうする、カイ」
サヴィトリは少し考えてから笑顔でうなずいた。カイラシュもつられて微笑みを見せる。
「サヴィトリ様さえよろしければ、本日は朝食を取った後、城下を案内させていただきます。ただ、急ぎの書類が二、三あるため、ほんの少しお待たせしてしまうかもしれません。それと、服はクローゼットの中に一通り用意してあります。どうぞお好きなものをお召しください」
では、また後ほど。
サヴィトリに対してしっかりと頭をさげると、カイラシュは部屋から退出した。




