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29 愛憎

 不自然なまでに静まり返る廊下に、早口でまくし立てるような王女の声だけが響く。


「王女であるわたくしに危害を加えるとなると、命懸けだもの。誰だって捨て身になるでしょう。狂った女が何をするかなど、誰にも想像できない。だから――だから、あなたは身を挺してわたくしを庇ってくれているに過ぎないんだわ」


 言いながらも、誰も口を挟まないことに不安を覚えているのだろう。次第に勢いが消失していく。

 自分がいつの間にか()()()()にされてしまったことに、ブリアナは驚きを禁じ得ないでいた。


「ねえ、そうでしょう?」


 王女が勝気に微笑む。しかし、その中にちらつく不安までは隠しきれていなかった。


「――違うの……?」


 肯定もなければ、否定もない。

 そんな状況に、王女はやっと何かがおかしいと気がついたようだった。常であれば、また妄想が繰り広げられるところであるが、この状況でそんなことを続けられるほど王女の心は強くない。

 強くないからこそ、父親の権力を(かさ)に着て人を従えていたのだ。


「私が女性として愛しているのは妻だけです。……あの時も今も、ずっとそうだった」


 目は口ほどに物を言うとはよく言ったものである。

 ――邪魔者はお前のほうだ。

 そんな言葉が言外(げんがい)に言い含められているのは明らかだった。


 ()()()()からは、愛情や忠誠心どころか呆れも蔑みも感じられない。()()()()()()()()。そんな感覚に、王女はこの時初めて戦慄した。

 王女であるはずの自分を、そのような目で見つめることなど許されるはずがない。そう感じた。


「ふ、ふふ……」


 国王に愛されている自分は、兄たちだって避けて通るような(とうと)い存在なのだ。王女はなんだかおかしくなって、笑い出した。


「ふふふ、あははははは!」


 腹を(よじ)りながら狂ったようにひいひい言う王女を、第二王子が訝しげに見つめる。王子が「とうとうおかしくなってしまった」と小さく零し、しかしすぐに「おかしいのは前からだった」と言い直したのを、ブリアナは聞き逃さなかった。

 冷静なように見えて、やはり第二王子は第二王子である。


「いいわ……いいわ!」


 目尻に浮かんだ涙を指で掬いながら、王女がアシェルに視線を向けた。そこにはもう愛情の一欠片(ひとかけら)も浮かんではいない。


「――あなたなんて、もういらない」


 可愛さ(あま)って憎さ百倍ということだろう。


「わたくしはもうすぐ他国の王に嫁ぐのよ! そうなれば王妃だわ! わたくしはお前たちを決して許しはしない。お父さま以外、全員まとめてこの国ごと沈めてやるわ……!」


 自分を蔑ろにした――と王女自身が思っている――人たちは苦しまなければならないと、本気で思っているのだろう。

 もう誰も何も言わなかった。いや、言えなかったというほうが正しいかもしれない。

 この場にいる誰もが、何を言っても無駄だという感情を共有していた。


「お前が王妃になることはない」


 そこへ、第三者の声が割り入ってくる。

 コツリ、コツリ。

 それだけで(おごそ)かに聞こえる足音が近付いてきた。「兄上……」第二王子がやや安堵した様子で廊下の奥に目を()る。

 釣られるようにそちらに視線を走らせて、ブリアナは息を呑んだ。


「陛下……」


 王太子と共に、多くの護衛騎士たちを従えた国王その人がやって来る。


「お父さま!」


 はあ、と熱い息を漏らした王女が、うれしそうに微笑んだ。――なるほど確かに、可愛らしい。自分の娘だと思えば溺愛したくなる気持ちもわからないでもないなと、ブリアナは認識を新たにした。

 ()()に駆け寄ろうとした王女だったが、当然のごとく護衛騎士に阻まれる。


「なによ、どきなさい!」


 王女は再び凄まじい形相を浮かべた。


「お父さま、ねえ聞いて! この人たち、酷いのよ! わたくしの話をちっとも聞いてくれないの。それどころか、さっきは床に押さえつけたわ。膝を打ちつけたから、痣が出来ているかもしれない。不敬罪どころか、反逆罪だわ。王族を傷付けようとしたんだもの。一族郎党消してしまわないと!」


 瞳を爛々と輝かせて熱弁をふるう王女の様子は、異様としか言えないものだった。眉根を寄せ、険しく自分を見据える国王の表情には気がついていないようだ。


「お前こそ、人の話を聞いているのか?」


 王女の視線を遮るようにして、王太子が前へ進み出る。


「話? なにを――」

「お前が王妃になることはないと、そう言った」


 都合の悪いことから逃げるのはもう許さないとばかりに、王太子はもう一度繰り返した。今度こそしっかり聞こえていただろうが、王女は「はあ?」と薄ら笑いを浮かべるのみ。人を小馬鹿にした笑みだった。


「もう、嫌ね、お兄さまったら。国王に嫁ぐのだから、王妃じゃない。いったいどうしちゃったの?」


 王女にとって、自分の理解が及ばないものはすべて()()()()()が引き起こすことなのだろう。自分が正しいのだから、相手が間違っている。

 そうして、()()()()()()()()()のことを嗤うのだ。


「何度言ったらわかる? お前が王妃になる日など来ない」


 それでも鼻で嗤った王女だったが、そのとおりだ、と国王が頷いたのを見て、さっと顔色を変えた。


「……どういうこと?」

「そのままの意味だが?」

「わたくしは国王に嫁ぐのよ。王妃じゃなかったらなんなのよ」

公妾(こうしょう)だな」

「……こう、しょう?」


 まるで初めて耳にした単語であるかのように、王女がぎこちなく繰り返す。もっとも、この国に公妾(こうしょう)という制度はないので、本当に知らなかったのかもしれないが。


「お前はつまり、王の公的な愛人という立場になる」

「愛人……?」

「妃ですらないのだから、今ほどの権力を振りかざすのは不可能だろう。ハレムには他にも多くの女性がいると聞いているし、彼の国の国王陛下はもう起き上がれもしない状態だという。とはいえ、公に認められた愛人だ。日陰者になるよりずっといいだろう」


 そんなわけはないのだが、王太子はあえて言い切った。当然、大事に育てられてきた王女に納得できるはずもない。


「そんな――なぜ、わたくしがこんな目に……」


 呆然と呟き、虚ろな瞳をブリアナに向ける。


「お前のせい……? お前がいるから、わたくしがこんな目に……」


 結局、王女は最後まで、自分に非があるとは考えもしないようだった。もうそれが一層憐れにすら思えてきて、ブリアナは異母妹(いもうと)に言ったように「可哀想な子」と口の中で呟いた。


「お前さえいなかったら、わたくしは……」

「自分がしたことの責任を自分で取る。それだけの話だ」


 そう言ったのは、事の成り行きを黙って見ていた国王だった。


「お前がこのように育ってしまった原因のひとつは、間違いなく私だろう。甘やかしすぎた。勉学を(おろそ)かにしているのは察していたが、お前は女だし、いずれどこかに嫁ぎ、穏やかに暮らしていければよいと思っていた」


 それは裏を返せば王族として期待していなかったということでもあるが、当時の国王にはその自覚もなかったのだろう。そして王女は、国王が王子である兄たちより自分を優先してくれているのだと確信し、誰よりも崇高な存在であると思い込んだ。


「多少の騒ぎを起こしたところで、大目に見てきたのは、それが()()()()()()()の問題だったからだ。――人の身を危険に晒していいなどと、そんなことを私が教えたことはあるか」


 国王は疲れ切ったように息を吐き出した。


「ないだろう。私はこれでも、民草あっての国王だと思っている。貴族も同様だ。いつから……なぜ、気に食わない者を罰するなどという私刑が通ると思うようになってしまったのだ」


 通らなかったからこそ、暴力沙汰を起こした時には許されなかったのである。しかし、王女はそれが理解できなかった。

 悪いことなどひとつもしていないのに部屋に閉じ込められている――。

 そんな認識で、正しいことをしていると信じたままブリアナに媚薬を盛った。


「お父さま……」


 震える声で王女が懇願するように言う。


「お父さまは、わたくしのことを愛していないの……? だから――だから、こんなに酷いことを……」

「見苦しい」


 これ以上、王女を自由に発言させても無意味だと考えたのだろう。


「連れて行け」


 無慈悲に一刀両断した王太子が、護衛騎士たちに命を下す。「はっ」と短く息を吐き出すように返事をした男たちは、抵抗する王女をなんなく引き()って行った。


「待って……お父さま! ねえ、こんなのおかしいわ! わたくしはアシェルと幸せになるのよ! そのために、そのために……!」


 絶望を孕んだ声が小さくなっていく。


「……まあ、もはや行くところがあるかは私にもわからないがな」


 あまりに暴れるので、最後には担がれるようにして遠ざかっていった異母妹(いもうと)から視線を外し、王太子は冷めた表情を浮かべたのだった。





 改めてブリアナに謝罪の言葉を告げた国王が、護衛騎士たちを引き連れて去って行く。

 ――偉大なる国王陛下。

 誰にとっても畏怖すべき存在であるはずのその背中が、やけに小さく見えた。

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