幸福な夢・後編(アーネスト視点)
(そして今、こんなことになっているわけだ)
アーネストは長椅子に身を横たえたまま、自嘲の笑みを浮かべた。
別に体調不良ではないのだが、なんだかひどく眠くて、長椅子でまどろんでばかりいる。何もかもが億劫で、ぼんやりとしているうちに時が過ぎる。
ときおり母が訪れてはあれこれ言ってきたりするが、まともに取り合う気になれないでいる。面会に来たウィリアムによれば、学院内での自分の立場は悲惨なことになっているらしいが、それすらもはやどうでもいい。
両親からの評価。世間一般からの評価。それらを守るためにあれだけ汲々となっていたというのに、今は全てが虚しく感じられる。
ただ繰り返し脳裏に浮かぶのは赤毛の男に抱かれて運ばれていく彼女の姿。
「トリシァ」
アーネストはもう面と向かって呼べなくなった愛称を小声でつぶやいた。
今にして思えば実に馬鹿馬鹿しい話だが、アーネストはまさにあの瞬間まで、ビアトリスは以前と変わらずに自分を愛しているはずだと、心のどこかで信じていた。
口付けを拒まれて動揺し、婚約解消を申し出られて呆然自失となりながらも、それでも心のどこか深いところで、あのビアトリスが本心から自分を見限るなどあり得ない、今は少しこじれているだけ、自分があまりにも冷たくし過ぎたから、少し拗ねているだけで、こちらがきちんと優しくしてやれば、いつでもまたかつてのような睦まじい関係に戻れるはずだと、頑なにそう信じ続けていたのである。
自分が何を言おうが、何をやろうが、ビアトリスが本気で自分から離れていくなどあり得ない。ビアトリスはアーネストを好きで、本当に好きで、その事実は未来永劫に変わることがないのだと。
(そんな訳がないのにな……)
幼いころはそうではなかった。かつてのアーネストはビアトリスに好かれたいと願い、嫌われることを恐れていた。
しかしビアトリスを邪険に扱い、酷い目に遭わせ、それでもなお自分を慕うビアトリスに酔いしれているうちに、いつの間にやら、当たり前の感覚が麻痺してしまっていたのだろう。
踏みにじられながら愛を乞うていたビアトリスは、ついにアーネストを見限った。
歪で淀んだ関係から、ビアトリスは淑やかに抜け出した。
アーネストはそれに気づかなかった。
熱っぽい眼差しで自分を見上げていた、愛らしい少女はもういない。
何故こんなことになったのだろう。どこで間違えてしまったのだろう。
答えが出ないまま、アーネストは再びとろとろと眠りに落ちた。
夢の中で、アーネストは幼い子供に戻っていた。
王宮のサンルームで、幼いアーネストは幼いビアトリスとテーブルを挟んで向かい合っている。アーネストは無言でビアトリスを見据え、対するビアトリスは泣いていた。泣きながら、頭を下げて謝っていた。
「申し訳ありません! そんなつもりはありませんでした」
そしてアーネストは――
「ごめん、さっきのはただの八つ当たりなんだ。最近すごく嫌なことがあったから、イライラして君に当たってしまっただけなんだ。頼むから顔を上げてくれ」
そしてアーネストは、自分と兄との確執と、先日稽古場であったことを、洗いざらい話して聞かせた。ビアトリスは驚きの表情を浮かべて黙って耳を傾けていたが、途中から真っ赤になって怒りだした。
「なんて酷い人たちなんでしょう。なんて酷いこと言うんでしょう。そんな下品な人たちに支持されるお兄さまなんかより、アーネストさまの方が百倍も王太子に相応しいに決まってます!」
ビアトリスはひとしきり怒りを見せてから、ふと我に返った様子になって、おずおずとアーネストに問いかけた。
「私は最近少し生意気だったでしょうか。アーネストさまに褒めていただけるのがうれしくて、調子に乗っていたかもしれません」
「ううん、僕はトリシァの意見聞くのは好きだよ。さっきのは本当にただの八つ当たりだから、気にしないでこれからもどんどん言って欲しいな」
「ふふ、ありがとうございます。でもやっぱりちょっと控えますね。その嫌な人達に誤解されたくないですし」
「本当に控えなくていいってば。それよりさっき君が言っていた説のことだけど――」
そして二人はたっぷりおしゃべりを楽しんでから、侍女の用意してくれたケーキを食べる。それはとびきり甘くて美味しくて、顔を見合わせて笑ってしまう。
もう二度と醒めたくないくらい、とても幸せな夢だった。





