幸福な夢・中編(アーネスト視点)
スティーヴ・スペンサーは騎士団の中でも抜きんでた剣技と豪胆な逸話で知られた存在で、幼い少年が身近なヒーローとして憧れるのにうってつけの人物だった。アーネストも例外ではなく、ならず者五人を一人で叩きのめしたとか、酒樽を一人で飲み干したとか、冗談のような話を人づてに聞いては、胸を躍らせたものである。
スティーヴはアーネストの剣の師匠の後輩で、今でも交流があるらしいのだが、師匠は「あいつは殿下がお会いになるような男じゃありませんよ」と言うばかりで、けして紹介しようとはしなかった。
ところがそのスティーヴが、ある日ふらりとアーネストの剣の稽古場に現れた。突然のヒーローの登場に、アーネストが興奮したのも当然なら、休憩時間に声をかけて、「自分の剣筋についてどう思うか」を尋ねたのもまた、当然のことといえるだろう。
スティーヴはにっと白い歯を見せて、当たり障りのない評価とアドバイスをしたあとで、「そうだ、王太子殿下、私めと剣の手合わせをなさいませんか? 剣の上達には、色んな相手と打ち合ってみるのが一番ですからね」と提案してきた。
「もちろんハンデはお付けします。私が一歩でも動いたら殿下の勝ちといたしましょう。いかがですか?」
「おいスティーヴ、調子に乗るな。アーネスト殿下、こいつが馬鹿なことを申し上げましたが、どうかお気になさらぬように」
「僕は彼と手合わせしてみたいな。いいだろう?」
「しかし、こいつは」
「ほら、王太子殿下もこうおっしゃってるんだし、手合わせくらいいいじゃないですか。もちろん怪我をさせるような真似はいたしませんよ。私の腕は御存じでしょう?」
剣を習っている者なら誰だって、有名な達人が手合わせしてくれるといえば、心躍るものではなかろうか。アーネストは師匠の反対を押し切って、彼の提案に飛びついた。
そして予想通りにというべきか、スティーヴは鼻歌でも歌うようにアーネストを軽くあしらって、あっさりと剣を跳ね飛ばした。
「いかがですか、もう一勝負いたしますか?」
アーネストは即座に再戦に応じ、再び剣を跳ね飛ばされた。繰り返し。繰り返し。それでもアーネストのうちにあるのは高揚感と、相手の強さに対する純粋な賞賛の念だけだった。なんといっても自分は所詮子供であり、相手は大人で達人なのだ。ハンデ付きでも負けて当然という気楽さが、彼の矜持を守っていた――相手があの、忌まわしい名を口にするまでは。
「やっぱり全然違いますねぇ。まるで相手にもなりません。クリフォード殿下とは大違いです」
スティーヴはいかにもおかしそうに笑いながら言った。
「あの方が王太子殿下のお年頃には、同じ条件で三回に一回は私が負けたものですけどね」
第一王子。クリフォード。
それは長らく忘れていた、いや忘れたいと願っていた、記憶の中の怪物だった。
師匠が今まで紹介しなかったのも道理である。スティーヴは「あっち側」の人間なのだ。アーネストは何も気づかぬままに、自ら罠に飛び込んでしまった。
スティーヴは辺境伯家とは政治的つながりはないはずだが、剣に生きる男として、クリフォードの才能に純粋に惚れ込んでいるのだろう。
「では、もう一勝負いたしますか」
「いや、僕はもう」
「そうおっしゃらずに、さあ剣をお取りなさい。仮にも王太子殿下ともあろうお方が、そう簡単にあきらめてはいけませんよ」
仮にも王太子殿下、と言ったときの口調に言い知れぬ悪意を感じたのは、おそらく気のせいではないだろう。そしてアーネストはふらふらと操られるように剣を取り、再び叩きのめされた。スティーヴは繰り返しアーネストを挑発し、繰り返しアーネストを叩きのめした。
スティーヴに弄ばれているうちに、いつの間にか二人の周囲を見物人が取り巻いていた。スティーヴと同じ騎士装束の者もいれば、そうでない者もいる。
「いかにも凡庸だな。悪くはないが凡庸だ。クリフォード殿下の天才ぶりとは比ぶべくもない」
「惜しいことだな。こちらが王太子殿下とは。資質はクリフォード殿下の方がはるかに優れておられるのにな」
「争いの種を残すべきではないと、自ら死者となることを選ぶなんて、実にご立派なお心掛けじゃないか。それに比べて弟君ときたら」
「仕方ないさ。筆頭公爵家たるウォルトンがついたのでは、陛下としてもアーネスト殿下を選ばざるを得なかったんだろう」
「女の力にすがって王太子になるなんて情けない話だ。一体どんな国王になることやら」
「おそらく一生ビアトリス嬢に頭が上がらないだろうよ」
彼らは何を言っているのだろう。自分とビアトリスはそんな関係じゃない。ビアトリスはそんな子じゃない。何も知らないくせに勝手なことを言うな。いい加減なことを言うな。
――それにしても、クリフォードを支持する男たちが、なぜクリフォードを毛嫌いする母と同じことを言うのだろう。
(あまり付け上がらせちゃだめよ。ちゃんと手綱を取らないとね?)
もしかして、そちらの方が正しいのだろうか?
スティーヴは存分にアーネストを叩きのめしてから、おためごかしに二、三のアドバイスを投げ与え、仲間と共に悠々とその場を立ち去った。
剣の師匠は気まずそうに、この件を私から陛下に報告しましょうかとアーネストに提案し、アーネストはそれを断った。
報告することなど何もない。スティーヴはアーネストの承諾の元に手合わせを行っただけであり、なにひとつ問題など起こしていない。アーネストをあの怪物と比べて挑発し、嘲ったことが罪というなら、アーネストがそれを誰よりも知られたくない相手は己の父であり、母であった。
おそらくスティーヴ本人も、そのことをよく理解した上で、ああした行動に出たのだろう。
その日はちょうど王妃教育の日に当たり、アーネストはいつもの通りビアトリスとお茶会を行った。ビアトリスは口数の少ないアーネストを当初心配していたが、アーネストが昨夜本を読みふけったので寝不足なのだと釈明すると、納得していたようだった。
そうして、それから。アーネストはビアトリスのことを愛らしいと思いつつも、その無邪気さを以前ほど素直に愛でることはできなくなっていった。
「アーネストさま、私は河川敷の整備を先にした方がいいと思いますの」
「アーネストさま、私は農村ではこちらのやり方の方が合っているように思えますわ」
ビアトリスが何か生意気なことを言うたびに、アーネストの意見に反論するたびに、言いようのない苛立ちが、疑心暗鬼が、胸の奥でうごめいているのを感じてしまう。
(おそらく一生ビアトリス嬢に頭が上がらないだろうよ)
(あまり付け上がらせちゃだめよ。ちゃんと手綱を取らないとね?)
男の声が、母の声が、耳元で繰り返し囁きかける。アーネストはそれらに反論するように、必死で己に言い聞かせた。自分とビアトリスはそんな関係じゃないビアトリスはそんな子じゃないビアトリスはとてもいい子なんだビアトリスは何も悪くないビアトリスは――
「……君は自分が偉いと思っているのか?」
抑え込んできた感情は、ある日ついに、堰を切ってあふれ出した。いらだちをあらわにした低い声に、ビアトリスの菫色の目は驚愕に見開かれ、みるみる涙が溜まっていった。
(やってしまった……)
やってしまった。彼女を傷つけた。彼女に嫌われる。どうしよう。どうしたらいい?
アーネストが焦って混乱しているうちに、ビアトリスの方が行動を起こした。
「申し訳ありません! そんなつもりはありませんでした」
ビアトリスはアーネストに対し、頭を下げて謝罪した。涙声で、何度も何度も。
泣きながら謝るビアトリスを見ているうちに、アーネストは今までのいらだちが、嘘のように消え失せていくのを感じていた。あるべきものがあるべき場所に収まったような、なんともいえない爽快感。
それと同時に、ビアトリスに対する愛おしさが心の内から湧き上がってくる。
ああ、自分の婚約者はなんていじらしくて愛らしいのだろう。
謝る姿を存分に堪能してから「もういいよ」と声をかけると、ビアトリスはおそるおそる顔を上げ、アーネストの笑顔に心から安堵した様子で、泣き笑いのような表情を浮かべた。
アーネストの顔色をうかがうその姿は、母やあの男たちが描き出すおぞましさとはまるで無縁のものだった。
アーネストは手を伸ばしてビアトリスの髪をそっと撫でた。
滑らかなプラチナブロンドが指の間に心地いい。
可愛い可愛いビアトリス。
アーネストの大切な婚約者。
大丈夫。自分とビアトリスは絶対に彼らの言うような関係にはならない。
ビアトリスをそんな傲慢な女にはけしてさせない。
自分がちゃんと手綱を握るから。
そのためには何をすればいいのか、考えなくても分かるような気がしていた。





