第3話 地上に残された人々 ~かつての敵が集結し、神様へ「有給」を要求する~
目が覚めると、そこは真っ白なオフィスだった。
壁も床も天井もない。
あるのは、無限に広がる白い空間と、空中に浮かぶ無数のホログラムウィンドウ。
そして、中央にある簡素なデスクに向かい、猛烈な勢いでキーボード(に見える光の盤面)を叩いている少女──女神イヴの姿だけ。
「……殺風景ね。観葉植物くらい置いたら?」
私は体を起こしながら嫌味を言った。
体はある。
パジャマも着ている。
ただ、ここが現実世界ではないことは肌感覚でわかった。空気の味がしない。完全にデジタルな空間だ。
『目覚めたか、バグ(リリアナ)』
イヴは手を止めずに答えた。
『貴女の構成コードは複雑だ。即時分解するとシステム全体にエラーが波及する恐れがある。……解析が完了するまで、そこで大人しくしていろ』
「監禁ですか。労働基準監督署に通報しますよ」
『ここは神域だ。人間の法は適用されない』
彼女は指を振り、私の目の前に巨大なウィンドウを展開した。
『見ろ。貴女が愛した「怠惰な世界」が終わる瞬間を』
映し出されたのは、地上の映像だった。
ヴォルグの地下スパ。
私が消えた直後の、あの場所だ。
岩盤が崩れ、赤い警告の光が明滅している。
その中心で、クラウスが膝をついていた。
血まみれで、ボロボロで。
でも、その目は死んでいなかった。
「……クラウス」
私は画面に手を伸ばした。
触れることはできない。音声だけが聞こえてくる。
『……マザー。聞こえるか』
クラウスが低い声で呟いた。
『肯定。……通信機能、生きています。ですがオーナー(リリアナ)の反応、消失。……検索不能……』
マザーの悲痛な機械音声。
『泣くな、AI。リリアナは死んでいない』
クラウスはよろりと立ち上がった。
魔導杖を杖代わりにし、天を睨みつける。
『あいつは言った。「必ず戻る」と。なら、戻ってくる。……だが、道が混んでいるなら、迎えに行ってやるのが夫の務めだ』
彼は血を拭い、マザーに命じた。
『全世界の通信機をジャックしろ。帝国、王国、公国、教団……全てのチャンネルを開け。私が話す』
『了解。……全域接続、開始』
ザザッ。
画面のアングルが切り替わる。
世界中の都市にある街頭モニターや、個人の通信鏡に、クラウスの顔が大写しになった。
イヴの手が止まる。
彼女は興味なさそうに画面を一瞥した。
『無駄なことを。人間が何を叫ぼうと、リセットの進行は止まらない』
「どうかしらね。あの人は、私の選んだ最高のパートナーよ」
私は腕を組んで画面を見守った。
画面の中のクラウスは、全世界に向かって語りかけた。
『人類よ、聞け。私はガレリア帝国宰相、クラウス・フォン・ガレリアだ』
彼の声は、冷静で、透き通るような怒りに満ちていた。
『先ほど、空からの声が聞こえたはずだ。「お前たちは怠惰だ、だから滅ぼす」とな。……ふざけるな』
彼は拳を握りしめた。
『我々は懸命に生きている! 笑い、泣き、働き、そして休む! その営みの何が罪だと言うのか! 休みも与えず、ただ働けと強要する神になど、信仰の価値はない!』
過激だ。
全世界への冒涜発言。
でも、その言葉は人々の心に火をつけたようだった。
『私は、妻を奪われた。……私の最愛の、世界一怠惰で、世界一愛おしい妻を、神に連れ去られた!』
……ちょっと。
全世界に惚気ないでよ。恥ずかしい。
『だから私は神に喧嘩を売る。妻を取り戻し、このふざけたリセットを撤回させる! ……力を貸せ! ヴォルグに集え! かつて敵だった者も、味方だった者も、関係ない!』
彼の叫びに、世界が応えた。
画面が分割され、各国の様子が映し出される。
まずは帝都の教会。
聖女セラフィナが、信徒たちの前で立ち上がっていた。
『宰相閣下の仰る通りです! 神様は今、過労でご乱心されているのです!』
彼女は新しい教典(私が書き殴ったメモ)を掲げた。
『神様を強制的に休ませてあげることこそ、真の信仰! さあ皆様、聖戦の時間です!』
……解釈が斜め上だけど、頼もしい。
次に映ったのは、北の塔の牢獄。
元婚約者、ギルバートだ。
彼は看守に向かって叫んでいた。
『出せ! 私も行く! 石運びでも何でもやる! ……リリアナがいなくなったら、誰がこの国の書類を片付けるんだ! 彼女には戻ってきてもらわねば困るのだ!』
動機は不純だけど、労働力としては使える。
そして、帝国の厳重警備病院。
全身を拘束された大男──元将軍ザガンが、ベッドの上で暴れていた。
『うおおおお! 返せ! 私のソファを返せぇぇぇ!』
彼は禁断症状で充血した目を剥いている。
『あの心地よさ……あの無重力感……! あれがない世界など地獄だ! 神だろうが何だろうが、私の「安らぎ」を奪う奴は殺す!』
……あいつ、完全にソファ中毒患者になってるわね。
まあ、戦力としては最強クラスだ。
世界中から、続々と声が上がる。
「スパを潰すな!」「俺たちの休日を守れ!」「リリアナ様を返せ!」
かつて敵対していた国々が、思想も立場も超えて、一つの目的のために動き出していた。
それは「正義」のためじゃない。
それぞれの「欲望」と「生活」を守るための連帯だ。
『……理解不能だ』
イヴが眉をひそめた。
『なぜ、人間はこれほどまでに「怠惰」に執着する? 滅びを受け入れれば、苦しみから解放されるというのに』
「逆よ、イヴ」
私は彼女の背中に声をかけた。
「苦しみから解放されるために、必死で抗っているの。……貴女が一人で抱え込んで、思考停止している間に、人間はずっと強くなったのよ」
画面の中で、クラウスが天を指差した。
『作戦を開始する! 目標は、上空三万メートル! 神の領域への「架け橋」を建造する!』
ヴォルグの地下から、古代遺跡の資材が運び出されていく。
マザーが設計図を引き、ザガンの部下たちが運び、セラフィナが加護をかける。
前代未聞の突貫工事が始まろうとしていた。
「……ふふっ」
私は笑みをこぼした。
やってくれるじゃない、私の夫。
「見てなさい、ブラック上司。貴女がチマチマ手作業で天変地異を起こしている間に、地上の『現場』が貴女のオフィスに殴り込みに来るわよ」
私は自分の席(何もない空間)に座り込むフリをして、密かに指先を動かした。
外からはクラウスたちが。
内からは私が。
これは、神様に対する挟み撃ち(ピンサー・アタック)だ。
「さあ、私も仕事を始めましょうか。……まずは、この真っ白で退屈なオフィスのセキュリティホール探しからね」
私の瞳が、解析モードのアメジスト色に輝いた。




