35 愛と闘志
「おいおい、なんだよあれ……!」
ようやく迷宮最奥の大部屋に辿り着いたリルたちは、そこである光景を目にして唖然とした。
無数に地面から生える氷の茨。その中心、部屋のど真ん中に鎮座するのは、人型の上半身と幾本もの《根》を持つ下半身をした異形の怪物だ。
まるで氷の彫刻だ、とそれを初めて見たヨルは思った。事実、その怪物の透き通る身体は息を呑むほどに美しい。しかし奴の放つ殺気と悪意が、完全にその美を打ち消してしまっていた。
「……トーヤ君」
ケルベロスは怪物と交戦する少年の名を小さく呼んだ。
球形をした氷の檻に彼は囚われている。だが、彼の顔は不敵に笑っていた。
なぜ笑っていられるのか――その理由に、ケルベロスは瞬時に気づく。少年の神器である黒い長槍が、どういうわけか怪物の背後からその背中に突き刺さっているのだ。
正面にいるトーヤから攻撃を食らうことは有り得ないと、怪物は踏んだのだろう。少なくともケルベロスはそう見ていた。
しかし現実は怪物の予測に反している。おそらくトーヤは槍を自由自在に操れて、敵の意識の外からそれを差し向けたのだろう。
『…………ッ』
《氷の異形》の胸の中央から亀裂が一筋ピキリと走り、ややあってそれは全身に広がっていく。
激しく軋み、今にも砕けてしまいそうな怪物を前に、ケルベロスはトーヤをあの檻から救出する好機を見た。隣のヨルと頷き合い、彼のもとへと飛び出す。
「――【熱脚】!」
だぼだぼのローブを脱ぎ捨てたケルベロスは、短い呪文を唱えて両足に炎の魔力を纏わせた。それを解き放ち、地面の氷を踏んだ側から溶かしていく。
対するヨルは強引に氷を踏み砕きながらトーヤへと近づいた。
二人は目配せし、一秒も違わないタイミングで少年を閉じ込める檻へ蹴りを見舞う。
「「はああッ!!」」
派手な破砕音を上げ、二人の少女により怪物の生み出した氷はぶっ壊れた。
トーヤはその瞬間に高く跳躍し、ヨルとケルベロスの蹴りから逃れる。神化による超人的な脚力が成せる業であった。
「二人とも、ありがとう」
着地したトーヤはヨルたちに頭を下げた。彼の目元に深い疲労の色が滲んでいることがケルベロスは心配だったが、それは表情に出さず笑みを返す。
「どういたしまして。ひとつ、貸しを作ったわね」
「この借りは必ず返すよ。ヨルもだけど……身体、大丈夫?」
蹴り砕かれた氷の破片が飛び散らないわけがない。特に邪魔な衣服を取り払ったケルベロスを気遣って、トーヤは訊いてきた。
「あたしは平気よ。肌が多少切れようと、簡単に治せるもの。――ほら」
「私も、怪我はないわ」
怪物の少女の真っ白い肌に赤く走った傷跡が、みるみるうちに消えていく。
ヨルは目を丸くするトーヤの肩に触れ、鋭い声音で言った。
「あの怪物を見て」
「えっ?」
怪物は全身ひびだらけで、もう崩壊寸前だったはず――と胸中で呟きながらトーヤはそいつを振り仰ぐ。
ケルベロスも彼に倣ったが、そこで彼女は怪物の身体が確かに変化していることに気がついた。
怪物の氷がひび割れつつあるのは変わらない。
変わっているのは、人型をした上半身ではなく――樹の根のように張り巡らされた脚部と、その先に延びる氷の茨だ。
氷の茨は怪物の胴体が崩れるのに反比例するように、不自然な成長を遂げている。硝子のごとき蔓はどんどん太く、長くなっていき、今や茨の森とでも呼ぶべきものを形作っていた。
「すごい、成長速度だ。もう向こうが見えなくなってるよ……」
「感心してる場合ではないわ。私たちはこの茨の森に、閉じ込められてしまったのだから」
怪物の割れた上半身を取り囲む、氷結の触手とそこから生える茨の森。それは複雑に絡み合い、天井を目指して猛烈な勢いで伸び上がっていく。
視界を埋め尽くしていく白い氷のカーテンを、トーヤは全身にのし掛かる疲れと共に見守ることしかできなかった。
アマンダ・リューズたちのいる場所と自分達のいる所とで、部屋は氷の茨に二分される。
「おい、トーヤ、ヨル、ケルッ! お前ら早くこっちに戻ってこい! その化け物、まだ何かあるぞ!!」
白髪の少年は張り裂けんばかりに声を上げた。
彼はヨルたちとは異なり、トーヤから離れたところにいる。天井まで高く伸び、固く結び付いてドーム型に変化した冷たい触手たちを、彼は外側から目にすることができた。
氷の茨は部屋の南側――つまりアマンダたちに近い方から成長を終わらせ、天井に届いている。リルから見てちょうど正面の幅二メートル程度の隙間が、最後の穴であった。
ここを封じられては脱出も困難になるかもしれない、リルはそう危惧する。とは言え脱出が間に合ったとしても、この茨の壁を突破しなくては神殿まで辿り着くことも叶わないのだが……。
「トーヤ、行ける!? 無理そうなら私の手を取って。私が背負って走るから」
「ヨルちゃん、急いで! 完全に壁になるまで時間がないわ!」
駆け出しながらヨルがトーヤを振り返ると、彼の美しい流れるような白髪はもとの黒髪に、装備も革鎧へと戻ってしまっていた。
――彼の体力は既に限界に近い。
察したヨルは足を止め、右手をトーヤへ差し出した。
ケルベロスは壁の側で手をかざし、緑がかった光を茨に当てている。彼女は植物の成長を抑制する土属性の魔法を使用し、無理やりにでも茨の拡大を阻もうとしていた。
だが、これは植物でなく氷なのだ。対象は魔法の効果範囲から明確に外れている。常識に当てはめれば、彼女の魔法が怪物の氷に効くはずもない。
しかし――。
「あたしを甘く見ないでよね! あたしの辞書には、不可能も諦めも、どちらも載っていないんですから!」
ケルベロスは、常識などには縛られない。
一瞬で鋭く尖った犬耳と牙を生やした《怪物の子》は、強気に叫ぶと頭の中でイメージを深めていく。
――あの氷は生き物よ。栄養があればすくすく育つ、正真正銘の植物。
蔓の先まで送られる魔力をせき止め、何としてでも時間を稼ぐ。
今のケルベロスには、氷の茨の茎や蔓の芯を通る魔力の色が見えていた。鮮やかな青をした力が、血潮のようにそこを流れている。エネルギーの通り道である管に障壁を作ってやれば――。
「止まりなさい、怪物の手よ」
ケルベロスは命じる。
その直後、彼女は確かに足元から立ち上がりかけた茨の魔力の流れが緩やかになるのを感じた。
魔法はちゃんと成功した、あとは……!
「さあ、行って! あたしの魔法でも、あまり長くは持たないわ!」
彼女が呼び掛けるのとほぼ同時に、ヨルはトーヤの手を引いて走り出していた。
自らの分身である怪物の子と視線を交わし合ったヨルは、内心で「なかなかやるじゃない」と柄にもなくケルベロスを誉める。
茨の森に細く開いた隙間を駆け抜け、二人はリルの側まで一直線に向かった。
そしてケルベロスもヨルに続こうとした、その時。地面に膝を突いたトーヤが彼女を振り仰ぎ、掠れた声で訴えてきた。
「あの怪物の胴体の近くに、一人の女の人が倒れているはずだ……! 彼女を、助けてやってほしい。頼む……ケルベロス!」
彼の言葉に従い、残骸の山となった胴体の辺りに目を走らせると、両足を食いちぎられたエルフの女が虚ろな視線をこちらに向けたところだった。
服装からして魔導士の女は、恐らくアマンダの陣営に属しているのだろう。
トーヤは敵である女を助けろというのか、とケルベロスは怪訝に思ったが――彼はそういう人なのだとすぐに考え直した。
怪物の子であるケルベロスまでもを彼は救おうとした。それくらい、彼にとっては当然のことなのだ。
「……っ」
だが、ケルベロスがあのエルフを救助しようと動いたら、この魔法は途切れてしまう。そうなれば彼女は氷のドームに閉じ込められ、どうなるかはわからない。
トーヤから目を逸らしたかった。あの瞳を見ていれば、自分はいてもたってもいられずにエルフの女を助けようとすると、確信していた。
しかしケルベロスにはそんなこと、できっこなかった。
彼の黒い目に宿る光の強さと、真剣さを感じてしまっては、もう自分だけを愛するなど不可能だった。
「はぁ……バカね、あたし。ここまでするのは、きっとあたしが彼のことを――」
その先は口に出さず、ケルベロスは倒れる女のもとまで駆け戻る。
魔法が解け、せき止められていた魔力が解き放たれた茨が、めきめきと音を立ててこれまで以上の勢いで伸びていく。
それを背後に聞きながら、怪物の少女は「こんなのも悪くない」と小さく笑った。
他人なんて興味のなかった自分が、トーヤの願いに答えるために身をなげうつ。
他の誰かを愛するということを、ケルベロスはこのとき知った。
***
「ハァ、ハァ……っ! エル、そろそろ準備しとけよ!」
息切れ寸前の己を鞭打って、ジェードはパーティーの先頭を突っ走っていた。
彼の鋭敏な嗅覚は、この先に多くの人間がいることを察知している。
――あと百メートルもない。この曲がり道を抜けたところに、アマンダ・リューズの部隊は固まっている。
突入してすぐ戦えるよう、ジェードは魔導士の少女に指示を飛ばした。トーヤのいない今、リーダー役を務める彼にエルは頷く。
「りょ、了解!」
ふだん身体を鍛えていないエルも、この時ばかりは自分の脚で全力疾走していた。長々と会話する余裕もなく、彼女はそれだけ答えると心の中で呪文を唱えるイメージをする。
無詠唱での魔法の発動は本来、短い呪文が限度だ。魔導士の精神力のみを用いて形作るには、長文詠唱が消費する魔力は大きすぎる。
しかしエルは悪魔アスモデウスの呪文に対抗するべく、複雑な《魔力式》を持つ高位魔法の無詠唱発動に挑戦した。
――【森羅万象を愛するかの日の英雄よ、どうか我らに護りの光輝を。人を、国を、世界を包んだ愛の印よ、今、この腕に再度現れよ。深淵より出でし暗黒を祓い、心の炎を抱かせよ】
心の力で魔力を制御することに失敗すれば、体内でそれが暴発し、最悪の場合死に至ってしまう。
その結果が恐ろしくないといえば、嘘になる。けれど――トーヤは、エルと離れても懸命に戦っているのだ。それにジェードも、シアンたちも、各々のやるべきことを成そうと燃えている。
ならばエルも、ここで命を使い果たす覚悟でいるべきだ。いや、絶対にそうあらなくてはならないのだ。
「エル、あんたのことは必ず守り抜くわ。だから、あんたの最高の魔法で、あたしたちを支えてね」
「この先は死地じゃ。何が起こるか正直見当もつかぬが……躊躇うなよ、エル。お主は魔法に全てを注ぎ込め。私たちが危険に晒されても、詠唱を止めてはならん」
微笑むユーミと、厳しい戦士の顔になるリオ。
詠唱に心血を注ぎ、もう首を縦に振る動作も忘れたエルは二人の声に目で応えた。
少年少女は突き進む。
ある者は拳に雷を、またある者はその脚に烈火の炎を。小人族の青年は口に吹矢の矢筒をくわえ、巨人の女性は魔剣の大剣を肩に担ぐ。
妖精の風を全身に纏い、戦士たちは駆けて行く。
異様に長く感じた100メートルをようやく抜けた彼女らがまず見たのは、微動だにせず突っ立っている人間の集団だった。
「敵か!? いや……何か、様子が変だ」
その者たちの前で足を止め、ジェードは呟いた。
縦幅と横幅、共に200メートルはありそうな大広間の南端に、恐らくアマンダの部隊と見られる人々は群れている。
だが怪物と戦っている訳でもなく、何も行動を起こしていないようだった。迷宮の最奥部とあれば、普通はそこを守る怪物と交戦するはず――違和感に苛まれながら、ジェードは部隊の面々の合間を縫ってこの先にあるものを見ようとした。
「おい、ぼけっとしてるだけならそこをどけッ! アマンダは……トーヤはどこだ!?」
「ジェード殿、先走りすぎてはなりません! 私たちから離れないよう!」
「っ、そうだけど! 俺は、なんだか嫌な予感がしてたまらないんだよ……」
焦るジェードの袖をアリスが後ろから引っ張って、彼を一旦立ち止まらせた。
背伸びして人垣の向こうを確認しようとするジェードに、黒いローブを着た部隊の若い魔導士の男が振り返って言う。
「お前たち、もしかして、神器使いのトーヤの仲間か? なら、あの女をどうにかしてくれよ……!」
若者の顔に張り付いていたのは恐怖一色だった。
ジェードは彼の表情から最悪の事態が既に起こりかけているのを察し、若者の言葉を最後まで聞かずに前へ出る。
一様に戦慄のあまり動けなくなっているらしい部隊の者たちの間を掻き分けて、エルたちも後に続いた。
「――あれが色欲の悪魔、なのか……!」
艶やかに波打つ、豊かな黒い髪。胸と肩のみを覆った純白の上衣に、ごく短い同色のスカート。瑞々しい褐色の肌を惜しげもなく晒した、赤い眼の鋭い顔立ちの美女こそが――色欲の悪魔と契約を結んだ《悪器使い》、アマンダ・リューズだった。
化粧も装飾品もほとんどない彼女だが、それがかえって当人の《美》をより引き立てている。一切飾らずとも輝きを放つ、本物の美しさがそこにはあった。
そして彼女の前に頭を垂れた女の姿も、ジェードたちは見た。
その光景は一言でいうと奇妙だった。
顔の目から下を黒の包帯で隠した女の格好はもちろんだが、アマンダに跪いて涙を流す様子は明らかにおかしい。
この人はいったい誰なんだ、とジェードたちは訝しんだ。
「姉様……よかった、心配したのよ。今までどこで何してたの? あたしにばかり面倒ごと押し付けて消えちゃうなんて、まったく酷い話よ」
台詞に反して女の声音は温かく、彼女が「姉様」と呼んだ誰かに深い愛情を抱いていることは、はっきりと分かる。
分かるからこそ、ジェードの拳は怒りに震えていた。
獣人の少年は歯を食い縛りながら、掠れ声を小さく漏らす。
「なあ、アマンダに姉なんていなかったよな? じゃあ、あの人が言ってる姉様って……」
「ああ、アマンダが悪器の力で見せている幻だよ。今あの女の人は、アマンダのことを自分の姉だと思い込まされてる」
今にもアマンダへ飛びかかっていきたい衝動を堪えるジェードに答えたのは、エルだった。
彼女は現在、発動直前の大魔法の魔力を《発射待機》の状態にしているはずだが、それを感じさせない落ち着いた返事である。
と、そこで。
包帯の女を見下ろして薄い笑みを浮かべていたアマンダが、エルたちの方に首を向けた。
「あら、君たちいたの? うふふ、見てよこれ……私の魔法にひれ伏した、哀れな反逆者はこうなるの。あなたたちも、後で同じようにしてあげる」
赤い瞳にどす黒い感情を滲ませて、アマンダはそう言葉を吐き出す。
自らの力を誇示する魔女に対し、エルは強靭な精神力で抵抗の意思を示した。
少年から受け継いだ闘志で叫び、アマンダへ杖を向ける。
「私たちは、あなたになんか負けない! アスモデウスの魔術と私の《精霊の魔法》――どちらが強いか、ここで証明してやるッ!」




