16 懺悔
『半年前の僕』はしばらく立ち止まって父さんが消えた辺りをぼんやりと眺めていたが、唐突に歩き出した。
父さんがいなくなった直後の出来事はよく覚えていなかったので、僕は他人を見ているような新鮮な気持ちで『半年前の僕』を追う。
先刻まで静寂に包まれていた街に冷たい風が吹き始める。
雲間から青白い月が出てきて、僕らを優しく照らした。
「父さん……」
僕は呟く。さっき父さんが消えた時の光景が頭から離れない。
鮮明に僕の目に写った彼の最後の表情は、何を意味するものなのだろうか。
哀しみか? 淋しさか? それとも希望か。
僕にはわかるはずもない。
父さんの事は考えてもしょうがないってわかっているのに、どうしても考えるのを止めることは出来なかった。
* * *
突如世界が歪み、場面がエールブルーの街から自宅に変わっていた。
窓の方を見ると光が差して来ている。時間は朝になっていた。
母さんが泣き腫らした目で僕を見ている。
僕も、泣いていた。
どうして父さんが死んだと、母さんに嘘を言わないといけないんだ? 母さんがこんなに悲しんでいるのに。
ルリアはまだ眠っている。だが、彼女も目を覚ましたら悲しみに泣き崩れるのだろう。
僕は唇を噛み、歯を食い縛った。
「母さん……ごめん」
「トーヤは謝ることないのよ。お前は悪くないんだから」
違うんだ、母さん。父さんは生きている。今はどこかに姿を隠しているだけなんだ。
『母さんにも、ルリアにも言ってはいけない』
なんでよ、父さん。どうして母さんたちには言っちゃいけないの?
僕たちは家族なんだよ? 家族に嘘をつき続けるなんて、僕にはできない……。
『この事を知っているのはお前だけ』
でも父さんが姿を消したのには理由がある。僕がその事を母さんとルリアに言ってはいけない理由も、わかってる。
父さんが言う、【組織】に狙われないためにも、父さんが死んだ事にした方が良いのだと言うことも、わかってる。
だから、決して誰にも言ってはいけないんだ。
僕がこの秘密を墓場まで持っていく。父さんはそれを望んでいる。
だから、だから……。これで、いいんだ。
* * *
また場面が変わった。
ベッドに横になり、痩せこけて老婆のような容貌になった母さんの傍に、僕は寄り添っていた。隣にはルリアもいる。
母さんは一年前頃から病気にかかっていた。
街の医術師の治療もあり治りかけていたところを、僕が『父さんが死んだ』と言ったせいで病状が急激に悪化し、医術師にも見放された。
「母さん、生きて……」
ルリアが涙を流して母さんの耳元で囁く。
僕は黙って母さんの横顔を見つめていた。
母さんは僕たち兄妹の手を弱々しい力で握り、震える声で言った。
「二人とも、母さんがいなくなったら、力を合わせて、精一杯生きるんだよ……」
ルリアが声を上げて泣き出す。
僕は彼女の背中に手を回し、さすってやった。
「……母さん、ごめんなさい」
ぐっと涙を堪え、言った。
もし母さんが死んだら、それは僕のせいだ。
僕が父さんは死んだと言ったから、ショックで母さんの病気は悪くなったんだ……。
「母さん、お願いだから……お願いだから、まだ、死なないで……」
僕は本当の事を伝えなかった事を心底後悔しながら、叶わない願いを口にした。
母さんが血を吐く。その血が、僕の顔にかかる。
母さんは最期に僕の手を枝のように細くなった指で優しく包み、言った。
「私は、悔しい。お前たちを置いてあの世に行かなきゃならないことも、父さんの命を救えなかったことも……私は、トーマの命を奪った奴らが許せない。トーヤ、お前はその場にいたんだろう? そいつらの顔も、見たんだろう? 私が死んだら……仇を討って欲しい。父さんを殺した奴らを、お前の手で……」
その後の言葉は聞くことは出来なかった。
母さんは、死んだ。
僕が、殺したようなものだ。
* * *
僕は母さんが死んだ後の出来事を【神殿】に見せられた。
妹──ルリアは母さんが死んで僕たち二人きりになってから、部屋に閉じ籠るようになり誰とも口をきかなくなった。
彼女のために出来る事は、やってきたつもりだった。
でも、ルリアは心を病み、僕の言葉さえも聞き入れてくれなくなった。
あるときからルリアは僕に暴力を振るうようになった。その度に彼女は、『お前のせいだ』と叫んだ。
僕は、されるがままに彼女に殴られ続けた。
激しい後悔の念に苛まれた。
僕が本当の事を伝えなかったせいで、母さんが死に、ルリアもこんな状態になってしまった。
辛かった。死ぬことも考えた。でも出来なかった。
母さんは最後に僕らに『生きろ』と言った。死ぬことは、母さんの願いを裏切ることになる。
これ以上、家族を裏切ることだけはしたくなかった。
もう取り返しはつかないかもしれない。だけど、もう堪えられなかった。
懺悔の末に、僕はルリアに真実を話すことを決意した。
ルリアは、自殺した。
部屋で首を吊って、死んでいた。
「あと少し、あと少し待っていてくれたら……」
こんなことには、ならなかったかもしれない。
* * *
ルリアが好きだった精霊樹の下に、僕は彼女の遺体を埋めた。
「ごめんなさい……」
白く美しい花を手向け、彼女の前で謝った。
いくら後悔してもしきれない。涙がとめどなく溢れ出してくる。
「おじいちゃん、ありがとう。ここなら、ルリアもきっと安らかに眠れる……」
しばらくルリアの前で涙を流していた僕は、その後、妹の墓をここに作ることを許してくれたおじいちゃん──精霊樹ユグド──に礼を言った。
「ルリアは、最近よくワシの所に来ていたよ。彼女は……寂しかったと呟いておったな」
穏やかな低い声音でおじいちゃんは呟いた。
「トーヤ、お前が何を思うかはワシにはわからん。じゃが、お前が何か深刻な問題を抱えていることくらいはわかる」
僕は黙っていた。もう、何も考えたくなかった。
「ワシはお前が幼い頃からお前の事をずっと見てきた。じゃから、お前の事は、お前の両親の次に良くわかっているつもりじゃ。……話してくれないかね、トーヤ。他言はしない。それは約束しよう」
おじいちゃんは僕の隠していた事を全て見抜いていたのかもしれない。
僕は堰を切ったように、ユグドに真実を全て語った。
胸に秘めていたものを吐き出すと、少し気持ちが楽になった。同時に、奇妙な虚脱感も感じた。
「そんなことがあったのか……トーヤ、辛かったろう?」
「辛かったよ。……僕は、何であんなに頑なに嘘をつき続けたんだろう。母さんたちに話せていれば、こんな事にはならなかったのに。僕は、とんでもない『悪』だ」
僕は無意識の内に、父さんに貰った【ジャックナイフ】を手首に当てていた。
「やめるのじゃ。トーヤ、お前が母と妹に真実を偽り続けたのも、お前の父が、お前に真実を隠すよう頼んだからなんじゃろ?
お前は、父親の『正義』を貫いたのじゃよ。結果はどうであれ、お前は一つの正義を貫いた。それは、誰でも出来る事ではない。
だから、後悔はもうよせ。いくら後悔しても、死んだ者にその言葉は届かない。死者は、帰っては来ない」
* * *
全てが終わり、僕は黒い渦の中にいた。
エルがどこか遠くで叫んでいる。
『姉さん』と言っているように聞こえた。彼女も僕と同じように過去を見せられ、懺悔しているのだろう。
ふと、僕の頭の中に声が聞こえてきた。老人のしわがれた声だ。
『我が名はオーディン。かつてこの世を支配した、【神】の一柱だ』




