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獣の見た夢  作者: MAKI


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敵と味方の間で

 




 アベルはガイアケロンから与えられた百騎とポルト郊外を駆けて戦闘訓練に励む。

 仲間が負傷して落馬したときに素早く拾い上げて、鞍に乗せるという練習もした。

 意識を完全に失っている者を運ぶのは、かなり苦労することだ。


 いよいよ、これから戦場に飛び込むことになる。

 いつ、どんな事が起こるか誰にも分からない。

 下手をすれば敵中に孤立するような絶体絶命の場合も想定しておかなくてはならない。

 ガイアケロンが助けてくれるなどと考えるのは、甘すぎる。

 百騎を付けてくれたのは、これでどんなことがあっても潜り抜けろという意味でもあるとアベルは感じた。


 アベルは彼らと昼夜、共に生活した。

 名前を憶えて一緒に飲み食いをし、野営などをしていると信頼関係は自然と高まっていく。

 彼ら草原氏族の戦士たちは複数の部族からなる混成で、血縁関係であることも珍しくなかった。

 もとからあった結束はガイアケロンという英雄の旗下にあって、鉄のように鍛えられている。

 皇帝国が敗退を続けた理由を垣間見る思いだった。


 もはやアベル、カチェ、ワルトの三人はすっかり受け入れられているが、特に人気があるのはカチェだった。

 カチェの馬術は草原氏族と比べても劣らないし、さらに武芸諸般に通じているとなれば部隊の中で注目されないはずがなかった。

 気が強く、凛々しくて元気に満ち満ちているカチェは草原の者たちと気心が通じやすいようだ。


 アベルはカチェが騎馬戦士と剣術の稽古をしている様子を眺める。

 短期間ながら武帝流で身につけたステップ歩法が上達していた。

 それから状況に応じて摺り足移動に切り替える。

 間合いに入る前から勝負は始まっていて、すでにカチェの有利だった。


 相手の男は、カチェの捉えどころがない移動に幻惑されて下手な姿勢で追随しようとした。

 その瞬間、隙が出来る。

 カチェがそれを見逃すはずもなく、流れるように上段から木刀を打ち下ろす。

 手加減した一撃が肩に入った。

 実戦ならば鎖骨から肺まで斬り下げられて、即死か瀕死だ。

 遊びに来ていたスターシャが感嘆の声を上げた。


「これで五人抜きか。やるな、カチェのやつ……!」


 スターシャはときどきアベルの元に来ては剣の稽古を望んでくる。

 ところが無駄話だけをして帰っていく日もある。

 やはり剣士としてアベルに負けたのが悔しいという理由で鍛錬に来ているものの、単純に息抜きの意味でも訪れているようだ。


 ガイアケロン軍団には特に選抜された部隊がいくつかあって、その中の一隊は遊撃隊と呼称されている。

 スターシャはその遊撃隊の長だった。

 五百人の屈強な戦士からなるスターシャの部隊は必要性応じて騎兵にもなれば槍兵にもなるという、多様な働きが出来るのが特徴らしい。


 もう秋も深まって風は爽やかというより寒くなってきているが、相変わらずスターシャは露出の多い軽装の姿をしている。

 しなやかな太腿が丸見えになる腰巻、割れた腹筋も大胆に晒されていた。

 胸にはビキニ風の鋼鉄で造られた覆い。

 腕は金属の籠手で守っているが、肩とわきは全部出ている。

 筋肉など実に良く発達しているが、やはり女性的な甘いラインを描いていて艶めかしい。

 陽気な色気が発散されている。


 大胆なスターシャの格好は深読みすれば相手の視線を誘導するとか、いかにも分かりやすい隙となり、それがかえって狙いを限定する効果があると言える。

 でも、アベルはそうした意味は実際のところ関係なくて、単に彼女の趣味という気もしている。

 あとはガイアケロンに見せたい……という最大の理由だ。


 スターシャが己の主に心酔しているということは態度の端々から伝わってくる。

 愛する男に美しい肉体を見せたい気持ちは分かるけれど……目のやり場に困るとアベルは思う。

 だいたい、この場にガイアケロンはいないではないか。


 スターシャがアベルの視線に気が付いた。

 優秀な戦士だけあって見逃さない……。


「おっ! なんだ、アベル。あたいの美脚が気になるか」

「いや、あの……」

「怖いわぁ。アベルの目ってギラついていて……凄く普通じゃないことされそう!」

「そういうのいいですから……。命に関わるから」

「カチェが怒るってんだろ?」

「……」


 答えることもできずに黙っているアベルをスターシャが、にやにやと笑って見ていた。

 大人しくさえしていれば凄味のある美人なのに、ちょっと下品。

 アベルが反応に窮していると面白がって、わざと胸を強調させ媚びるようなポーズをしてくる。

 少しばかり品が無いぐらいの女の方が興奮してくるのは何故なのか……。


「ま、あたいもアベルに手を出したら半殺しは確実だからな。お互い命懸けになっちまうな。そういうのも燃えるよな?」

「いや、それは少しも燃えないのですが」


 また試合に勝ったカチェが戻ってくる。

 思う存分、技を試せたからか満足げだったのだが、目敏く怪訝な表情で聞いて来た。


「ん? 二人ともなんか変な雰囲気じゃない?」

「ど、どうかされましたのかな。カチェ様。何も変じゃないのですよ?」


 じろじろとカチェが二人を交互に検分していたが、小首を傾げて黙った。

 いかにも不自然な様子でアベルは訓練に戻る……。

 なんとか誤魔化した。


 -スターシャの奴、からかいやがって。

  まぁ、あいつもあれで重職だからストレス発散なのかもな……。


 アベルは苦々しく思いながらも許すことにする。

 あの色気と魅力的な肢体だけは本物だし……。


 帰り際、スターシャは数日以内にガイアケロン軍団の本陣が出征となることを教えてくれた。

 先発部隊はすでに西へ移動して、最前線に向かっているという。

 本当なら全ての部隊が既に出発している計画であったのだが、シラーズ王子配下の兵士たちを鍛える作業が捗らずに遅れが生じたと言う。

 なんでも金で集めただけの人間たちなので、少しでも割に合わない危険な訓練や疲れる行為を忌避しているというのだった。


「軍隊なんか究極の重労働ですからねぇ。そんなんで大丈夫ですか?」

「あたいらも危惧している。はっきり言って質の低い者は、いないほうがマシってこともあるのさ。特に戦場では動揺して敵前逃亡なんかされたら、やる気のある者まで怖気づくしよ」

「……」

「行軍が始まったら休む暇なんかないから、今のうちに用事を済ませておくといいぜ。じゃあな」


 アベルは忠告に従い、ポルトの城で薬師として働いているシャーレと別れの挨拶を済ませておいた。

 何かあれば故郷テナナに戻れば安全だろうと、ほとんど命じるように伝える。

 戦禍に巻き込まれることなどあってはならない普通の娘なのだ。

 シャーレはエメラルドのような瞳に悲しみの色を浮かばせて言う。


「あたしも付いて行きたいよ。看護婦も必要とされているよね。今からでも遅くない」

「それは許さない。旅の間は僕が何があっても守ってやれたけれど戦場ではそれができない」


 アベルの鋭いほどの口調にシャーレは黙るしか出来なかった。

 帝都に居た時には一緒に買い物をしたり食事をしたりと、それは幸福な日々だった。

 やはりテナナの幼馴染は随分、遠くに行ってしまったのだと思い知る。


「あたしはアベルが帰ってくるって信じているからね。一度はもう死んでしまったと諦めたけれど、でもアベルは帰ってきた……。もう二度と諦めない」

「そんな風に思い詰めたらダメだ。僕なんかいなくても充分、シャーレは幸せになれる。戦争とは無関係に生きてくれ。今だって巻き込んで悪いと思っている」

「……そんなことないよ。ハーディア様やガイアケロン様と接する機会になった。お二人とも高貴な方です。素晴らしいお人達なのだと知ることができた……」


 離れ難かったものの、アベルは振り切るようにして別れた。

 これでシャーレが生まれ故郷に帰れば、彼女に関しては義務を果たしたような気がする。

 忙しなく治安も悪い帝都ではなく、田舎のテナナで穏やかに暮らすのが似合っているとも思う。

 きっと数年以内にいい旦那も見つかる。

 腕の良い薬師などは引く手あまたに決まっていた……。


 次に小間物屋に偽装している連絡要員を訪ねた。

 店先で何気ない風を装い、小声で会話する。


「返事は?」

「まだ来ていない」

「僕は数日以内にポルトを離れることになるだろう。この手紙が最後の通信になるかもしれない。頼むぞ」


 アベルはガイアケロンから離れないために軍陣に参じることになった経緯を既に送ってある。

 バース公爵には、ガイアケロンの苦しい立場、王子といえども自由に行動できない状況を伝えた。

 それでも秘密同盟への意志を繋ぎとめてあるので、どうか何があっても交渉を継続してほしいと強く訴えていた。

 バース公爵とテオ皇子がどう判断するのかは、それでも分からない。

 だが、自分に出来ることへ全力を尽くすのみだった。





 ~~~~~~~





 翌朝、アベルに意外な人物が訪れる。

 白馬に乗ったハーディアが、それも単騎でやってきた。

 王女の姿に気が付いた草原氏族の戦士たちが頭を下げている。


 赤みを帯びた金髪が朝日に輝き、秀麗な眉目を一段と美しく彩っていた。

 すでにハーディアは普段着の着用を止めて、昼夜を問わず艶消し白鋼の鎧で武装をしている。

 腰の左側には両刃剣を履いているのが見えた。

 他に刀剣類の装備は見当たらないが、実際のところハーディアは恐るべき二刀使いでもある。

 ダガーは太腿を防御している草摺りの裏に隠しているはずだった。


「アベル、カチェ、それにワルトという獣人も来てください」

「ハーディア様。御付の者などは?」

「人を交えたくないので。時間はそれほどないから急いでください」


 ハーディアは肝心の用件を告げずに、付いてくるよう促した。

 部隊の野営地を離れ、収穫を終えた麦畑を横切る。

 落ち穂を狙った野鳥が数百羽も地面を啄んでいた。

 飛来する鳥を捕えるためにカスミ網が張ってある。

 あれは上手く獲物が絡まっていれば農家の副収入になる。


 やがて人気のない葡萄園の片隅に移動する。

 木々には収穫目前の、赤黒くなるほど熟した実が鈴生りになっていた。

 あとは収穫して干して食べるか、葡萄酒にするか……。

 ワルトは周囲を警戒するために一行から少し離れた。

 臭いに敏感な獣人を騙して待ち伏せするのは非常に難しいはずだし、ハーディアはあらかじめ目的地を決めていない素振りなので先回りもできないと思われた。

 やがてハーディアは白馬を止めて下馬したのでアベルたちもそれに従った。

 王女は何故かカチェに語りかける。


「カチェ。実は貴方のことを調べました。すぐに分かったことなのですが、ハイワンド家の長女だったのですね」

「……そうです。ハーディア様。偽名を名乗ったところでいずれ露見しますし、隠すつもりもありませんでした」

「貴方に教えておかなくてはならないことがあります。きっと関心があるはず」

「……」

「かつて、ベルル・ハイワンドという方がハイワンド騎士団の長でした。つまり貴方の父親……」

「はい」


 カチェは行方不明の父親について、あえて考えないようにしてきた。

 軍人が戦場で行方不明となれば、それはどうしたことであるか自明の理というものだった。

 祖父バースもあえて話題にはしなかったが……態度から息子の死を事実として受け入れていた。


「中央平原の戦いにおいて、伯爵家の連合騎馬隊が我々の本陣近くまで攻め込んできたことがありました。辛くも撃退したあと、我々は逃げる者は追わずに皇帝親衛軍との戦闘に集中しました。やがて、野戦の勝敗は決してポルトの攻防戦へと移行していきましたが……」


 アベルは苦しい撤退戦と籠城戦を思い出す。

 当時、まだ総執軍官だったコンラート皇子は自分だけ素早く逃走して、ハイワンドに対してはポルトの死守を命じたのだった。

 そして、一兵の援軍すら派遣しなかった。

 時間稼ぎの名にも値しない用兵だった。

 アベルはその時のことを思い出すと、怒りが湧き上がってくる。

 血筋だけで指導者に選ばれ、部下の気持ちなど考えもしない男……。

 早く死ねばいいと、本当にそう思う。

 ハーディアは話しを続けた。


「我々がポルトを包囲していたところ、占領地域でハイワンドの騎士を捕虜にしました。名をフォレス・ウッドという男です」


 アベルは聞き覚えのある名前に驚く。

 ゴブリン退治の際に同行した騎士だ。

 それから連絡要員として働いている彼とは、たびたび顔を合わせていた。

 戦闘は下手だったが、謹厳実直な男だった。


「ウッドは頑固な人で捕虜になった後の態度は良かったのですが尋問には黙秘を続けました。しかし、ハイワンドの全てを占領したのち一年ほど経ったころ統治に力を貸してほしいと頼むと、ついに負けを認めました。以後、下級官吏として働いてもらっているのですが、彼はベルル殿の最後を知っていました。服従したときに全てを正直に話してくれたのです」


 アベルとカチェは絶句する。

 ただ、ハーディアの言葉を待つ。

 ハーディアの真剣な眼差しがカチェに注がれていた。


「皇帝親衛軍と伯爵家の連合部隊が敗走していくなか、リキメル王子配下の傭兵たちは奔走を始めました。高位の人物を捕えれば、莫大な身代金を獲得できますから……。結果、フォレス・ウッドとベルル殿、数名の騎士たちは味方とは逆方向に逃げざるを得なかったそうです。しかし、傭兵隊に追いつかれ戦いになり、ベルル殿は見事な腕前で二十人ばかりを討ち取り、残敵は遁走したそうです。しかし、ベルル殿も撃退のさなか深手を負ってしまった。残ったのはフォレス・ウッドのみ。ベルル殿は逃走を続けることも出来ず虜囚になれば今後の戦いに多大な迷惑となると考え、自決の道を選んだそうです。首は土中に埋め、装備は藪に捨て、遺体は裸のまま山野に放置したとのこと。私たちは事の真偽を確かめるためにフォレス・ウッドと共に見分役を派遣しました。遺骸は獣に食い荒らされてほとんど残っておらず、首も発見できませんでしたが……冑だけは回収できました」


 カチェはうな垂れて沈黙していた。

 アベルは伯父ベルルを思い出す。

 顔立ちはウォルターに似たところがあるものの、生まれついての貴族らしく尊大で冷ややかな気配を多分に漂わせていた。

 敵意に近いものを向けられたが、死に番をやってのけた後は態度を変えた。

 その直後、別れたきりだ。

 戦死していなければ、案外、認められていたのかもしれない。

 貴族のプライドを守るため死を選んだというのは、いかにもやりそうな行動という気がする。


「このことをお話ししたのは、アベルに偽物ではない誠意があるからです。真相を知っていながら伝えなければ信頼に関わると考えました。アベル。本国のお家に伝えるといい。希望するのなら遺品となった冑も渡します」

「分かりました。ですが遺品の方は結構です」


 ハーディアはカチェへ穏やかに語りかけた。


「カチェよ。見え透いた謝罪などしません。戦場のことゆえ、是非も無きことと考えています。王道国に恨みがあるのなら、アベルと別れて立ち去るといいでしょう」


 カチェの心中は複雑だった。

 物心がついてから両親との思い出は僅かである。

 母親が姿を消し、父親もほとんど外出ばかり。たまに城にいても会話らしい会話などした覚えがない。

 スタルフォンの授業に飽きて剣術の訓練をしていれば、女戦士にでもなるつもりかと叱りつけられたものだった。

 そう、よくよく考えてみても父親に認められたことなど皆無と言っていい。

 ついに自分を理解してもらえないまま……二度とは会えなくなってしまった。

 死別の悲しみとも違う、飲み込めない石のような感情。


「カチェ。貴方はアベルがどうしてここに来たのか理由は知っていますね。気持ちに揺らぎがあるようでは、こちらも不安になります」

「いえ。ハーディア様。わたくし、アベルの使命について詳しくは知らされていません」


 ハーディアは少し意外そうな顔をした。


「そうでしたか」

「父は武人として生き、自分で自分の最後を決めたのですから、わたくしが恨む筋ではないでしょう。また、意図したことではなかったかもしれませんが、結果としては囮となって騎士団の者どもを助けたのだと、そう美化することもできます。……いずれにしても、わたくしはアベルと生死を共にすると決めております。くわえて、おそらく祖父バース公爵様の命によるところと想像しているのでハイワンド家の人間として……力を尽くすのみです」


 ハーディアはカチェに自分との類似を見出した。

 アベルと生死を共にするという言葉……。

 美しい眼差しは、真っ直ぐな気持ちだけで彩られている。

 嘘とは思えなかった。

 自分の信じる者と行動し、武運拙く最後の時が訪れたとしても迷わず運命を共にする……。

 兄と自らの姿に重なるのだった。

 伝えておくべきだと感じた。


「アベルの使命とは……歴史の闇から生まれて闇に消えていく、陰謀を伝える密使」

「陰謀……」

「王道国の王家は激しい後継者争いをしているうえに、非道なディド・ズマの傭兵団を利用して戦争を優位に進めている。私と兄ガイアケロンの良心にそぐわない事態です。そこへアベルが密命を持ってやってきました」

「……」

「秘密を知る者は少なくあるべきですが、貴方には知る資格がある。陰謀とは、ガイアケロン王子とテオ皇子の秘密同盟です。互いが次期の最高権力者になるため密かに協力する」

「……まさか……敵と手を結ぶ?」

「誰も彼もが敵です。殺されないために……工夫するものです。弱い者なら尚更のこと」


 カチェは祖父を思い出す。

 生粋の貴族で、ありとあらゆる困難を引き受けるのは選ばれた階級出自からして当然の義務だと考えている人物。

 それにしても息子を戦死に追いやった王道国の王子と裏で手を結ぼうなどとは、あまりにも冷徹かつ強靭な意志だった。


 やがてカチェは腹が立ってきた。

 アベルはこんなにも危険な役目を命じられていたのに自分を置いて行こうとしたばかりか、律儀に秘密を守り通した。

 どこまでも一緒にあろうという、この気持ちをもっと汲みとってほしい……。

 アベルに語りかけると、どうしても非難の口調になってしまう。


「アベル。何の任務なのかと、ずっと思っていました。でも、内容を話せないようでしたから、あえて聞かないままにしていましたが……ディド・ズマの部隊に襲撃を仕掛けたのもこれで理由が分かりました。あれは貴方への小手調べだったのですね。どの程度の行動力なのかを確かめる」

「すみません……。バース公爵様から、絶対に誰にも言うなと命令されていたので」

「どうりで必死になって動いているわけです」


 特にガイアケロンと稽古をしたあたりから、はっきりとアベルの雰囲気は変わっていた。

 妙に必死で、まるで駆り立てられるような様子なのである。

 アベルの態度は未だ腑に落ち切らないものの、ハーディア王女が秘密を明かしてくれたことにより、かなり納得ができてきた。


「ハーディア様。父の最後、教えていただきありがとうございます。何も分からないままであるよりも心が楽になりました。それに、アベルの密命についてまで説明していただいたこと感謝します」

「秘密を知った以上は、覚悟していただきます。もっとも、既にすっかり心は決まっていたと見受けましたが」


 ハーディアは際立って美しい分、厳しい顔をしていると驚くほど冷たい印象になるが今に限ってはどこまでも柔和に微笑んだ。

 アベルは裏表を感じない琥珀色の瞳に、奇妙な信頼関係の深まりを感ずる。


 少し眦の上がった、いかにも天稟の鋭さを思わせる少女にハーディアは内心、感謝していた。

 時間が経っていた事とはいえ、よく肉親の死を乗り越えてくれたと……。

 この陰謀は敵味方の枠組みを超えた、禁断の試み。

 時には味方を騙し、あるいは見殺しにする必要すらあるだろう。

 大陰謀とはそうしたものだ。

 心を堅く決めた者が仲間にいるのは頼もしい。


 アベルはカチェの横顔を見る。

 そこには早くも悩みや悲しみの色がない。

 これは父ベルルと疎遠だったというのも一因だろうが、それよりは人を怨む性根を持ち合わせていないカチェの性格だと感じた。


 -本当は人のことを憎んだりしない方がいい……。

  怨めば怨むほど……魂は昏くなっていく。


 アベルはそう思い、カチェの清々しさに憧憬と似たものを抱いた。

 カチェがアベルの視線に気づく。

 なぜか顔を赤くさせる。


「な、なによ」

「いや……。頼もしいなと思って」


 カチェは嬉しいような、少し残念なような気分になる。

 依然としてアベルの気持ちは女性に対するそれではなく信頼だった

 できれば恋心が通じ、互いに愛する仲になればそれが最高だ。

 しかし、この危急の最中にあってアベルに必要なのはどんな困難も共に乗り越えられる強い人間である。

 甘いばかりで、時には怠くなるような女は絶対に求められていない。


 おそらく……理想はイースのようなものなのだろう。

 しかし、己がイースになることは不可能だ。

 それならば、死力を振り絞ってアベルの行動に身を捧げなくてはならない。

 もし、恋を打ち明けるとしたら、それは務めから解放される平和が訪れた時か、あるいは確実な死が迫った場合だ。

 告白してしまえば恋心に決着はつくだろうが、形は定まってしまう。

 一つ決まってしまってから、この姿は嫌だと徒を捏ねても取り返しのつかないことになってしまうかもしれない……。


 野獣じみた巨漢の男にも恐れを抱かないカチェだったが、秘した想いの行く末には震える思いだった。


「アベルは良い相棒を持ちましたね……」


 すでに白馬に跨ったハーディアが馬上から嬉しそうに笑っていた。

 用事は済んだので葡萄園から離れ、王女とは軍営の手前で別れる。

 多忙な執務の最中に抜け出してきたらしく、颯爽と早駆けさせて戻っていった。





 ~~~~~





 幔幕で周りを囲まれた軍陣内。

 ガイアケロン、ハーディア、シラーズという三人の王族たちに加えて軍目付けヒエラルクが話し合いをしていた。

 シラーズの顔色は蒼ざめていた。

 ガイアケロンとハーディアの弟にあたる青年は内心、憤怒に燃えていたのだった。

 美男といえるシラーズが怒りの気配を湛えていると、そこには尋常でない鬼気を感じさせる。

 打ち捨てられたような扱いを受けていても、生まれながらイズファヤートの血が息づいているとガイアケロンは改めて悟る。

 もっとも、あの狂った暴君の血が流れているのは己とて同じことなのであるが……。


「兄上、姉上、申し訳ない……! 奴らがあれほど劣っているとは思わなかった。ラカ・シェファが強者揃いだと自慢したものだから信じていたのですが。私が愚かでした。まさか勝ち戦に乗じて楽に過ごし、適当に略奪ができればよいなどと考えている者たちだとは……思っても見ませんでした」

「どんな組織でも優秀な者は全体のうち二割程度だ。残りの質をどれだけ上げられるかなのだがな。それにしても悪い癖のついた者ばかり雇ったものだ」


 ハーディアが呆れたように言う。


「一万人の内、親衛隊にできそうな者は千人。とりあえず言われたことだけができる者は五千人……。残りは危険な戦闘はしたくないと言っているそうですね。もっと楽な仕事だと聞かされていたとか……給金が少なすぎるとか、そうした主張をしていると」

「早くも半減か」


 別に珍しくもない話しであった。

 ガイアケロンとハーディアが傭兵を使わないのは略奪を生きがいにしているような非道の者が多いということもあるが、金目当てで戦う者の戦意の低さ、いざとなれば雇い主を裏切る信頼のなさが原因でもある。

 ただ、金をばらまいて集めた兵士など、このようなものであろうという感想ばかりがあった。

 ガイアケロンはシラーズに忠告する。


「弓兵や投石兵の役割りも危険であることには違いない。長弓でもないかぎり、こちらの矢は届いても向こうの矢は届かないなどということは有り得ん。だいたい弓は訓練に時間が掛かる。やる気のない者を鍛えたところで無意味だ。あとは荷役にするという手もあるが、癖の悪いものだと糧秣を横流しする恐れがある。後方部隊と言えども勇気のない者が軍団に加わると思わぬ害を受けかねん」

「兄上。害とは何でありますか」

「敵が後方や側面から奇襲を仕掛けてきたとき……たとえ戦闘員でなくとも軍団に忠誠心があると簡単に潰走したりはしない。しかし、嫌々働いている者たちだと揺動攻撃で容易に混乱する。そうなれば只事では済まない……。さっさと送り返すのだな。食糧費だけでも相当な金額であろう」

「兄上。待ってください。戦いもせずに四千人も損なうのは名誉に関わります。督戦隊を組織するつもりです」


 督戦隊というのは戦意の低い部隊の後方につけて、もし逃げ出す者があれば処罰する部隊のことだ。

 戦場での処罰というのは、即殺害となるのが普通だった。


「シラーズよ。督戦隊を使っても攻撃は上手くいくまい」

「明日にでも特に態度の悪い者を数十人ほど処刑するつもりです。本当に下劣な者らで……命令を聞かなければ解雇すると脅しても、それなら山賊になるしかないなどと逆にこちらを脅してくるような者たちなのです。全く下賤としか言いようがなく……どうしてあんな者らを引き連れてきたのか!」


 シラーズは恥辱の極みと感じているらしく、固く握りしめた拳は痙攣のごとく震えていた。

 青い瞳に殺気が宿る。

 兄妹は冷酷な怒りに燃えているシラーズを見やっていたが、やがてハーディアが口を開いた。


「安全に勝てる場合にしか戦わず、ここぞという場面で命令は聞かないばかりか、勝利してから虐殺を楽しむような者……。そうした輩は身内扱いする必要はありません。本来はそもそも雇わないものですけれど、もうここまで連れてきてしまったのなら仕方のなきこと」

「姉上。責任は私にあります。ただ全員処分するにしても数が多過ぎて……」

「我々で殺す手間も惜しいですし、現実的に数千人も処刑するなど多大の労力を必要する無益なことです。士気にも関わります。皇帝国の手によって粉砕させるのが上策でしょう。捨て駒にするのですね。そうは言っても捨て駒にすらならないこともあり得ますが」


 それまで黙っていたヒエラルクが薄く笑いながら言う。


「私が督戦隊として動きましょうぞ。なに、シラーズ様。別に大したことではございませぬ。我ら、そうしたことには慣れております。覚悟の足りないものに立派な働きをさせるのも軍目付けのお役目と申すものにて」


 ハーディアは冷たい口調で続けた。


「せっかくですから偽装後退を仕掛ける芝居の一つとして利用しましょう。切り捨てる予定の者たちを集め、彼らの前でシラーズ王子と我らが仲違いしたように見せるのです。戦ったのち、皇帝国の捕虜となった者は王族同士の関係が悪いと皇帝国に吹聴する。皇帝国側は情勢不利と見て我らが後退したと……そのように感じるかもしれません」


 悪だくみが上手いことだと、ヒエラルクが感心したように言った。

 シラーズも冷徹な戦術を説明されて目を見張り沈黙している。

 内心、戦姫と呼ばれる本当のわけを知った思いだった。

 ただ慈悲深いだけで軍団の長として活躍などできるはずがなかった。


「あ、姉上。分かりました。このシラーズ。戦陣に加えてもらっただけでも感謝すべき立場にて。全て仰せのままに……」

「ここまでしても皇帝国が追撃を仕掛けてくるか……五分五分でしょうか。敵方のリモン公爵は我らに奪われた領地を奪い返させねば名誉に関わるので乗ってくる可能性はありますが」

「なんにせよ、戦いとは良きものですなぁ。早くもこのヒエラルク、血が沸き立ってきましたぞ。はははは……」


 剣聖の目は本当に興奮で血走っていた。

 心から闘争を楽しむ殺戮者の、針のように尖り、それでいて湿った感情が迸っている……。

 ガイアケロンとハーディアは軍議を決して、旗下の軍団に西進を命じた。


 アベルは全軍に発せられた命令に従い百騎を率いて移動する。

 陣立てにアベルの部隊は強襲偵察隊と記されていた。

 おそらくオーツェルあたりが辣腕を振って計画した陣立てに従い、最先鋒、中軍、本陣、後方警戒、後詰めなどに部隊は分かれていく。

 表向き、アベルのいる強襲偵察隊は新設されたガイアケロン本陣直属の隊とされていた。

 多種多様な兵科で構成される軍団の中にある、たった一隊。

 しかも、名目上はシュアットが隊長ということになっていて、アベルの存在は全く埋もれていた。

 ほとんど誰も注目などしていない。

 端から見れば数千騎におよぶ騎馬隊の末端にしか思えなかった。


 ガイアケロン軍団の騎兵は公称で六千騎ということになっている。

 これは皇帝国の軍団における騎兵と比べても、非常に多い数と言えた。

 アベルは野を進撃する猟騎兵の群れを見つめるが、替馬が豊富にいることもあって公表よりも強大な騎兵戦力と感じる。


 乗り手さえ無事で替馬がふんだんにあれば、戦力の回復は容易だ。

 逆に、とりあえず員数分の馬がいるだけの軍団だと、たった一度の騎兵突撃で戦力の過半数を失ってしまうということも考えられた。

 しかも、ストレスや激しい環境に晒されている軍馬は、ただでさえも病死や事故死を起こしやすい。

 戦場へ移動しているだけで騎兵が損耗していくことすらあり得る。

 そこをいくとガイアケロンの配下にいる草原氏族の出身者は生まれながら馬と生活を共にしてきたような者たちだった。

 一人一人が馬に精通しているから下手な扱いで数を減らすということはないように思えた。


 アベルはハイワンド領内を、くまなく巡回した経験があるので地理に明るい。

 ポルトの周辺は平坦な地形が多く、僅かの高地があるだけだ。

 しかし、西や北に行けば行くほど起伏が富んでいく。

 耕作可能な斜面は大抵が畑になっていて、工夫しても耕せないような地質の山は放置してある。

 森や原野がいたるところ点在していて、そこに平地が入り混じっていた。


 騎兵がその能力を最大に発揮するのは、広大な平原においてだ。

 アベルは北方草原の経験からそのことをよく理解していた。

 これから進む先にある山野の多い場は、どちらかといえば騎兵の長所が発揮しにくいように思える……。


 -ガイアケロンはどこでどうやって戦うつもりなのかな?

  やはり戦う前にリモン公爵となんとか接触を図るべきだろう。

  公爵本人とは祝賀会のときに挨拶を交わしたし、リッシュに会えれば好都合だ。

  不戦で引き分けみたいな感じにできれば上等か……。


 やがて長さニ十メートルほどの木造橋を渡る。

 これで旧ハイワンド領の境を超えてリモン公爵領であった地域に入り込んだことになった。

 かつて領境にあった番小屋は増強されて、小規模な砦のようになっていたのをアベルは興味深くみる。


 地形はもはや山岳地域と呼んでもいい。

 北部山脈から伸びている峰々の一部に差し掛かっていた。

 斜面の植生は乏しく、たまに針葉樹林があるものの大部分は背の低い雑草が繁茂していて、ところどころ岩肌が露出している。

 道路は火山灰や軽石と石灰の混合物で舗装されている。

 皇帝国は道の造成に関しては一流なのだが、それでも街道の要所に狭隘部を設けてあった。

 もちろん、大軍が素早く侵攻できないようにとの意図である。

 ただし、あまりに不便な造りにしてしまうと、今度は皇帝国の軍団が外地に移動し難くなってしまうから、そこは最低限の幅や強度が確保されている。


 馬車一台がやっと通れるような山道が続く。

 ガイアケロンの軍団は長い列となりすぎないように、適度な間隔を空けつつ部隊を西へと送り込んでいく。

 途中、谷底を細くうねったように進まなくてはならなかった。


 ときとして道の脇には小川が流れているが、反対側は切り立った崖や岩場になっている。

 魔法の土石変形硬化などで多少の岩場ぐらいならば排除することもできるが、山地の道程すべてを改造するとなれば、年単位の一大事業となる。

 両国間が争っている最中にできることではなかった。


 色々とアベルは疑問に思う。

 この狭い道を通って三万人を超えるガイアケロンの軍団全てが西へ進むのだろうか。

 末端にいるアベルは全軍の行動など知りようもない。

 どこにどれだけの部隊が向かっているのか、その目標は……。

 何もわからない。

 ガイアケロンからは時期が来たら命令するとだけ言われていた。


 丸一日ほどかけて、ゆっくりと山岳地域を越えた先に平地が広がる。

 そこがポロフ原野であった。

 アベルは風景を観察する……。


 -せいぜい十キロ四方の原野だな。

  南北に割る形で河があって……、ここを突破するとリモン公爵領の中心部に進撃できる。

  だからこそ、絶対に皇帝国は負けられない戦場だ。


 カザルスから貰った望遠鏡を使って細かく見ていくと、河のすぐ対岸に砦がいくつもあった。

 旗が無数に見える。

 土塁のようなものも築かれていた。

 ハイワンド領に潜入する前、リモン騎士団に接触した。

 あの時は任務を優先していたし、リモン騎士団の防衛状況を偵察するのは目的ではなかったから、ポロフ原野の最前線などは調べていない。

 しかし、それでもリモン騎士団が中核となり、そこへ伯爵家の軍勢などが参加して全体では一万人を優に超える部隊を形成していたのを知っている。


 ガイアケロンが配下を招集して軍団を成し、西進する動きを見せたのはすでに露見している。

 リモン騎士団が独自に細作を送り込んでいないなどとは、到底あり得ない。

 何らかの方法で戦線を通過して情報はもたらされていると考えるべきだ。

 防備はさらに厳重なものになっていると判断していい。

 となればリモンは既に数万人で守られている。


「あんなところに攻め込んだら……両軍に相当な被害が出るだろうな」


 アベルは不安になってくる。

 ガイアケロンに秘密同盟を諦めさせないために、またその傍から離れたくないために、リモン騎士団と戦うこともやむなしとまで言って引き留めたが、もちろん好ましい事態からはかけ離れているわけで……むしろ最悪の様相を迎えつつあるのではないか。

 なんとかしてガイアケロンの矛先をコンラート皇子へ向け、逆にテオ皇子派閥の軍勢はディド・ズマやイエルリングに差し向けなくてはならない。

 本来ならば南の旧レインハーグ領を統治しているリキメル王子の地域を通過して皇帝国の方角へ進撃してほしかった……。


 決心した。

 ここは自分が動こうと。


 即座にアベルは部隊をシュアットに任せて、ガイアケロンのいる本陣へと向かう。

 ガイアケロンは以前からポロフ平野への入り口に防衛帯を築き、部隊を駐留させていた。

 その兵力、各種歩兵が約一万人に騎兵が二千。

 堅固な守りなのでリモン公爵は手出ししてこなかった。

 そんな睨み合いが二年近く続いていたことになる。

 均衡状態だったものが今、激しく飛び散ろうとしていた。


 カチェとワルトを伴って堂々と本陣へと接近していく。

 アベルの優美な形状をした黒鉄の冑には支給された赤い羽根飾りが付いていた。

 それは伝令の印で、これさえ付けていれば警備兵に妨げられることはない。

 とはいえ、さすがに直接ガイアケロンの元へ駆け込むことは出来ないので面会予定を仕切っているオーツェルの前に参上して、人払いの上に急ぎ面会を願えばすぐに手筈を整えてくれた。


 アベルたちは下馬してから木柵に囲われた場所へと入り、さらに歩いて行った先に大きな天幕があった。

 周囲は親衛隊によって十重二十重に守られていた。


 ガイアケロンへの連絡は多く、ひっきりなしに馬廻りが天幕を出入りしていた。

 彼ら馬廻りは伝令騎兵であり、同時にガイアケロンの指示を実行する臨時指揮官となる。

 たとえば最前線で戦う百人頭などの現場指揮官が戦死したとき、通常は現地の者が後任にあたるわけだが、それでは足りない場合などにガイアケロンからの直接命令を受けた馬廻りが飛んでゆき、代行者となるシステムらしい。

 最下級の兵卒を現場で指揮する層をガイアケロンは特に重視しているようであった。


 アベルのみが天幕の入り口へと導かれた。

 幔幕が巧みに配置されていて、入ったところから奥部は見えなくなっていた。

 布が交差した非常に見にくいところで人の隠れている気配がした。

 うっかりすれば見落としそうなほど僅かな異常だったが、不思議と感づいた。

 アベルが警戒心を起こして歩みを止めると、向こうの方から姿を現す。

 年齢不詳、猫背の顔を隠した知らない男のようだ。

 ゆったりした絹の服を着ていて、手先が見えない。

 得物も隠れて分からないが、短剣の類を忍ばせているのだろう。

 あるいは魔法戦士ということもあり得た。


「アベル様ですね。先で御方がお待ちです」


 どう見ても手練れの警護者だった。

 これでは不審者が潜入を試みても、大いに妨害されるだろう。

 やはり最前線での警戒の仕方は普段からは比べ物にならなかった。

 アベルは、それだけの戦いを経てきて今の形になったのだろうと想像する。


 男の横を通り、幔幕が捲れるようになった所から中に入ると目指す兄妹がいた。

 すでに人払いされていて、ハーディア以外に余人はいない。

 やや薄暗い天幕の中で兄は椅子に座り、妹は補佐官のように脇で控えていた。

 二人とも冑こそ脱いでいるが、その他は完全武装。

 英雄の迫力が放射されていた。


「どうした、アベル」


 アベルはガイアケロンの足元で片膝をつき、小声で喋る。


「これからリモン騎士団に接触を図りたく思います。ガイアケロン軍団と決戦を避けるように説得を試みます」

「……危険な割に徒労となるだろうな。両軍対峙すれば戦うのみと伝えたはず」

「それでも、行ってきます。何もしないでいることはできません」


 緊張と刃のような気合を感じさせるアベルの声。

 意思が輝いているような群青色の瞳。

 ハーディアはかつて初めてアベルと出会ったときに発見した、異様に昏い魂の気配を思い出す。

 瞳の奥に住みついているその魂はいまだ確かにアベルの中で脈打っているのだが、事ここに至っては危険を孕みつつも、むしろ魅力的にすら感じられるのだった。


「アベル。もしテオ皇子殿やバース公爵にあくまで強い意志があればリモン騎士団を敗退させたところで……例の話は継続できるかも……しれぬぞ」

「原野の守りは固いです。突破を試みればガイアケロン様の手勢が大きく損なってしまう危険があります」


 ガイアケロンは偽装後退の説明をしようか迷ったが、やめた。

 秘中の秘である戦略を明かすことなどできない。

 まだ秘密同盟は成立していないのだ。

 依然として、敵であることには違いない。

 皇帝国の軍勢となれば派閥に関わりなく叩かねばならないのだから……。


 しかし、アベルは軍団を損なわせるわけにはいかないと言った。

 俺への配慮……という風にしかガイアケロンには受け取れなかった。

 演技ではない。

 まったく、敵方の密使風情にしておくのが惜しいと深く思う。

 ガイアケロンは一礼して出ていくアベルの背中に声を掛ける。


「原野の北側にある山道を北上しろ。やがて獣道ばかりになり、河に行き着く。普通ならそこで進めなくなるが少数の身の軽い者だけなら渡河できなくもない。ただし、綱ぐらいは持って行け」


 アベルは頷き、幔幕の外へ急ぎ出ていった。

 ガイアケロンは敵と味方が錯綜する異常な事態をアベルに託してみようという気になりつつある。

 たとえアベルの努力が虚しく失敗したとしても受け入れてやろう。


「お兄様。何を考えているのか分かりますよ」

「ハーディア。言ってみろ」

「アベルを自分のものにしたい」


 ガイアケロンは全てお見通しの妹に笑いかけた。

 青と灰色の混じった兄の瞳には穏やかならぬ、ほとんど獲物を仕留めようという猛獣の気配があった。


 アベルは百騎を束ねるシュアットに、王子の命令で隊を離れることになったと告げる。

 驚いていたが軍隊ではどんな命令もあり得る。 

 シュアットは必ず帰ってこいと言って送り出してくれた。

 アベルはカチェとワルト、部隊の者数名を伴って原野の北をひたすら進む。

 馬はかなりの急斜面も走破できるものなのだが、やがて絶壁があって先へは人しか行けなくなる。

 乗ってきた馬を部隊の者に預けて帰し、アベル、カチェ、ワルトはさらに進む。


 険しい山道すら無くなった辺りでガイアケロンの情報通り、河の上流に辿り着いた。

 あとは渡河に挑むしかない。

 身体能力だけならアベルを上回るかもしれないワルトに頼む。

 長い綱を纏めて背負ったワルトが、岩場を跳躍によって飛び越えていく。

 その様子は強靭な野獣そのものだった。


 ワルトは大ジャンプで激しい急流へ突入。

 我武者羅に泳いで対岸に渡ってくれた。

 縄に石を拘束して、遠心運動で勢いをつけてアベルの方へ投擲してきた。

 渡し綱を張ったので、武装したまま急流を渡ることができた。

 帰りも利用するつもりなので縄はそのままにしておく。

 アベルたちはリモン騎士団の方角へ全速で走っていった。






読んでいただきありがとうございます。

次話未定です。

それでは。

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