訪問
窓辺に引かれた分厚いカーテンの隙間から、柔らかな朝の光が一本の線を描いている。
いつも夜中まで机に向かい、数時間だけ仮眠を取る生活を続けていた私が、昨夜は何もせずベッドに入ったせいか、ハンナに起こされる前にスッキリと目覚めた。
心なしかいつもより気分も軽く、顔色もいくらか良くなった気がする。
それは多分、大切な友人と言ってくれた、アダムのお陰なのだろう。
昨夜は様々な出来事があった。
帰りの馬車で母に全てを話すと、ここ数年では見た事のない程激怒する有様で、その状態を知らずに出迎えた父が巻き添えを喰らい、二人掛かりでなだめるという、ちょっとした事件もあったのだ。
怒った母はエリスに対する援助を打ち切る様父に訴え、当然この状態の母に逆らえない父は、母の要求を飲む事となった。
けれど、何だかんだエリスに甘い父の事だ、母には内緒で援助し続けるのではないだろうか。
「あらお嬢様、もう目覚めていらっしゃったのですか」
寝間着のまま開け放った窓辺に佇む私に、入って来たばかりのハンナが声をかけた。
「ええ。久しぶりに良く眠ったせいかしら?今日はスッキリと目覚める事が出来たわ」
「それはとても良い事です。以前から申し上げておりましたが、お嬢様は眠るという事を、軽んじておられましたからね。眠りという物は回復に繋がる物です。休む事の重要性をしっかり学んで下さい」
「ええ。ハンナの言う通りね」
「今日は随分素直ですね。まあ何にせよいい傾向です。奥様から今日はお嬢様を徹底的に磨き上げろと命令されておりますので、こちらも素直に聞き入れて下さい」
そう言われて苦笑いを浮かべる。
昨夜馬車の中で、母に釘を刺された事柄だからだ。
ヘルベルトを見返す為には、アダムの様な魅力的な男性を捕まえるのが一番だと、母は熱弁を振るっていた。
その為には私自身を磨き上げる必要があると、これからは徹底的にやりますからね!と、釘を刺されたのだ。
アダムとは友人関係を続けて行きたいという事と、わざわざ破談になった私などが選ばれる筈もないし、アダムならどこでも引く手数多だという事を話してはみたが、激怒する母には伝わらなかった様だ。
とりあえず朝食を済ませてから始めましょうとハンナが言うので、ダイニングへ降りて行くと、新聞の隙間から母の顔色を伺う父の姿が目に入った。
どうやら母の機嫌はまだ治っていないらしく、対応に困っている様子だ。
私は当たり障りのない会話を選び、居心地の悪そうな父に助け船を出しながらも、両親のお互いの事を理解した上で、本音で付き合える姿勢というか絆という物を、微笑ましくもあり、羨ましくもあるとつくづく思った。
二年間の婚約期間で、私とヘルベルトの間には、築けなかった物だから。
食事を終えると、待ち構えていたハンナに、全身のマッサージを施された。
香りのいいオイルで頭の先から爪先まで入念にマッサージを行われ、それを終えると今度は母も交えてドレス選びが始まる。
何度も着替えさせられ、まるで着せ替え人形の様な気分を味わいつつも、二人が首を縦に振るまで根気よく付き合い、やっと一着のドレスに落ち着いた。
それから化粧をして髪も結い上げると言うので、簡単につまめるサンドイッチで軽い昼食を済ませると、いつの間にかアダムがやって来る時間が近付いていた。
アダムは朝のうちに、午後二時に伺いますという、正式な連絡を寄越している。
こういった礼儀を弁えた手順を踏むところも母には好印象で、父もそれには同意していた。
そして事前に知らせた時間通りに、アダムは我が家へやって来た。
親子三人で出迎えてから、日当たりの良いサロンへ通して、運ばれて来た母の選んだお茶を勧める。
アダムがそれを口に含んで感想を述べると、あれ程機嫌の悪かった母が、あっという間に上機嫌になった。
「最初にご報告致します。昨日ナターリア嬢に暴行を加えようとした男は、あの後暴れて手が付けられなくなったので、ヘンドリクセン伯爵夫人が憲兵に引き渡しました。そこで身元が判明したのですが、シュタイガー男爵家の三男、カールという者で、昨夜の夜会には招待されていない人物でした」
それを聞いた父は首を捻り、アダムに質問した。
「招待されていない人物が、どうやって夜会に潜り込んだのだね?」
「聞くところによると、カールは以前から素行が悪く、酔うと必ずなにかしらの問題を起こしていたそうです。ですから、カールを招待する様な貴族は、殆どいませんでした。ところがそれがカールには面白くなく、考え出したのは婿養子に行った次男の名を騙るという事です。昨夜も次男の奥方が招待されていた事を知り、夫だと偽って潜り込んだそうです」
「なんとも姑息な男よな。それではシュタイガー男爵も面目が立つまい」
「はい。憲兵から連絡を受けたシュタイガー男爵は、それはもう烈火の如く怒り狂い、カールを家から追い出して、勘当を言い渡しておりました。それと、シュミット伯爵には謝罪ぐらいでは済まされないと、相当に悩んでおられる様子でしたので、私から伯爵には先に伝えるという条件で、カールの交友関係の面々が流した、くだらない噂話を否定して回る様約束して頂きました」
まるで何でもない事の様にサラッと言ったその言葉に、私も両親も目を大きく見開いた。
「なんとまあ‥アダム君は交渉術に長けている様だね。まさかその様な話を、聞けるとは思いもしなかったよ。いや、君には感謝の言葉しかないな。君はナターリアの名誉を、守ろうとしてくれたのだね‥」
「いえ、友人として当然の事をしたまでです。私の知る中で、ナターリア嬢ほど真面目で努力家はいないというのに、それを知りもしなければ努力もしない様な連中に、好き勝手な事を言われるのは、許せなかっただけなのです。まあ、ナターリア嬢には、昨日やっと友人として認めて貰ったばかりですが」
明るく笑いながら言うアダムとは対照的に、母の視線が怖くて縮こまる私。
それを察した父は、すかさずフォローに入った。
「いや、すまないねアダム君。ナターリアにはいささか協調性という物が足りなくてね、人付き合いが苦手というか、中々好意を素直に受け取れない側面があるのだよ。どうかそれを理解した上で、これからもナターリアと仲良くして貰えないだろうか?」
「もちろんです、言われるまでもありません。話は脱線しましたが、シュタイガー男爵より、明日にでも改めて謝罪に伺いたいという手紙が届くかと思われます。その際慰謝料についての話もあるかと思いますが、それは当然の事なので、受け入れる方向で考えてみて下さい」
「まあそうなるだろうな。ナターリア、それで良いか?」
「は、はい」
あの後ここまで話を纏めてくれたのかと、申し訳ない気持ちで一杯になる。
私はアダムに何をすれば、受けた恩を返せるだろうか?
そんな事を考えていると、突然母が話題を変えた。
「さてと、本題の話は済んだ様ですし、後は二人で思い出話でも楽しみなさいな。私は旦那様と暫く出かけて来ますので、ナターリアはしっかりおもてなしをするのですよ」
私には昨夜から焚き付けられた経緯があるが、父には何の事か分からずポカンとしている。
「ええと、何の用事で出かけるのだったかな?」
「そうですねえ、エリスに送る予定の援助を、私に投資する用事と言えば分かりますかしら?」
それが何を意味するのか理解した父は、露骨に嫌な顔をした。
母にする投資‥つまり買い物に付き合えという事だ。
とはいえいつも買い物の後には、母の機嫌が治る事を知っている父は、渋々ながらも母に付き合う事になった。
残されたのは私とアダムの二人きり。
思えばアダムと二人きりで話した事など、なかった様な気がする。
変な緊張感を感じたが、昨日から聞きたかった事は聞かなければ。
「‥あの、アダム、昨夜の質問なのだけど‥」
「ああ、答えの事だね。どうしてあの夜会にいたのか‥かな?」
「ええ。貴方はずっと留学中だと思っていたから、いる筈がないと思ったのよ」
「ハハッ酷いな、留学は一年で終わったよ。留学といっても、元々は人脈作りの為みたいな物だったからね。事業を始めるに当たって、外国でもパイプを作っておく必要があったんだよ。まあ、始めても軌道に乗り始めたのは最近で、結局戻って来れたのは二ヶ月前だったけどね」
「事業!?凄いわアダム!どんな事業を始めたの?」
「貿易商だよ。一年程前に新しく商会を立ち上げたのさ」
商会と聞いた途端、一つの考えが浮かんで来る。
新しく立ち上げた商会‥
それも一年前となると、ちょうど当てはまる。
頭に浮かんだ名前に、高揚感の様な物を感じて、その名前であって欲しいと願ってしまう。
それはアダムならば有り得ると、確信しているからだ。
「何という商会なのかを教えて貰えるかしら?」
「ミュラーを逆さにアレンジして、ラーム商会と名付けたんだよ。まだまだ駆け出しの商会だけどね」
やはりという言葉が頭の中を駆け巡る。
そう、やはりアダムに私は敵わないのだ。
読んで頂いてありがとうございます。




