友人
「ああ、ナターリア!なんて事に!」
私達の周りで大きくなった人垣を掻き分け、私の元へ母が駆け寄る。
アダムは私の問いかけに答える事はなく、母に私を預けると、野次馬と化した人垣の前へ進み出た。
「まずは主催者であるヘンドリクセン伯爵夫人に、お騒がせした事をお詫び申し上げます」
人垣の向こうから近付いて来る伯爵夫人に、アダムは丁寧に頭を下げた。
「いいえ、いいえ、なんという事でしょう!あの様な輩を招待した覚えなどございませんのに‥!どなたかが連れとして招き入れたのでしょうか?だとしたら、今後はその方とのお付き合いも、考え直す必要がありますわね。本当に全てこちらの不手際ですわ!ナターリア嬢、お怪我はございませんか?」
「‥は、はい‥」
思ったより弱々しく、か細い声が出て、自分で感じているよりも、動揺している事に気付いた。
「ナターリア、一体何があったのですか?少し目を離した隙に、この様な事が起こるなんて‥」
青ざめて心配そうに尋ねる母には、全てを伝えた方が良いとは思う。
だけどこれだけの人がいる前で、あの男性に言われた言葉を口にしたくはなくて、私は何と言うべきか返事に困って黙り込んだ。
聞こえて来るのは様々な憶測。
どうやらあの男性は酒癖が悪いと評判らしく「絡み酒」という単語が飛び交っている。
それならそれでやり過ごそう。
そう思って口を開きかけると、私より先にアダムが口を開いた。
「何の罪もない私の大切な友人を、くだらない妄想に取り憑かれた男が、身勝手な理由で暴行しようとしたのですよ。本当に、思い込みというのは、恐ろしい物ですね。そんな妄想を彼や彼の交友関係の面々は、まことしやかに吹聴して回っていたのですから。まあ、ここにお集まりの聡明な皆様方は、その様なくだらない妄想を、信じる筈がありませんけれどもね。彼の様な輩を、私は心底軽蔑しますよ」
母に聞かせるというよりは、ここにいる全ての人々に聞かせる様な通る声で、アダムは私が危惧していた事を否定する言い方をした。
一体どこから私と男性の会話は、彼に聞かれていたのだろう?
そしてどれくらい私に関する醜聞を、彼は知っているのだろう?
幾人かは後ろめたい所もあった様で、こっそりと人垣から離れて行く姿も見えたが、それよりも私にはなぜアダムが私の弁護の様な真似をするのかと、その方がずっと気になっていた。
「ヘンドリクセン伯爵夫人、私の友人は酷いショックを受けています。どこかゆっくり休める場所を、提供しては頂けませんか?」
「まあ!私ったら気が利かなくて、そんな事にも気付かないなんて!ええ、もちろんですわ!ハンス、ナターリア嬢を案内して差し上げて!」
伯爵夫人の呼びかけに、初老の執事らしき男性が現れ「こちらへどうぞ」と言いながら、私と母の前に立った。
当然、母と二人で別室へ移動するつもりだった。
ところがなぜか、アダムが私の手を取ったのだ。
頭の中の情報だけでは少な過ぎて、彼の行動を理解するには至らない。
そもそも私は彼にとって大切な友人という関係ではなくて、沢山いる同級生の一人にしか過ぎないのだ。
勝手にライバル視して牽制していたのはいつでも私の方で、彼はその度に笑っていただけなのだから。
執事の後ろに着いて歩く母の背中を追いながら、隣で手を取るアダムに疑問を抱えた状態で、私は用意された別室へと辿り着いた。
「暫く休んで落ち着いたら帰れる様に、ヘンドリクセン伯爵夫人には話を通しておくよ。後の事は私に任せて、君はゆっくり休んだ方がいい。あんな事は‥あってはならない事だったのだから、君は何も気にせず‥忘れるんだ」
そう言って私から離れようとするアダムに、私はまだ言わなければいけない事を言っていない自分に気付いて、離そうとする指先を必死に掴んだ。
「待ってアダム!まだ‥私はお礼も伝えていないわ。助けてくれて、本当にありがとう。それに‥私の予想通り、嫌な噂も広がっていたのでしょう?でも貴方は‥私を庇ってくれた。これにはどれ程感謝の言葉を伝えても、まだ足りないくらいだわ‥」
私の言葉を聞いたアダムは、柔らかな笑みを浮かべて、私が掴んだ指先をギュッと握り返した。
「君は私の大切な友人で、良きライバルだっただろう?だから誰よりも、君が真面目で努力家だという事を知っているよ。私は自分の認めたライバルが、くだらない噂話で、公正な判断を下されないのが許せなかった。だからあれは君の為だけではなく、私の為でもあったんだよ」
「でも、私と貴方は、学生時代もそれほど‥」
「ああ、なるほどね。君にはやっぱりそう思われていたのか。でもねナターリア、君がどう思おうと、私はずっと君を大切な友人だと思っているよ。もちろん、これから先もね」
そう言われて言葉に詰まる。
でもアダムならそう言うだろうと、言われる前からなんとなく分かっていた。
いつだって彼は誰に対しても公平で、分け隔て無く他人と接する事が出来る人だったのだから。
私はと言えば、勉強ぐらいしか他に取り柄もなくて、自分の殻に閉じこもったまま、壁を作って必死に弱い自分を守っていただけ。
そんな私に友人として接する彼の姿が、理解出来よう筈もなかったのだ。
「シュミット伯爵夫人、捕らえた男の処分や、この後の事を報告したいと思いますので、明日の午後、そちらのお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんですわ!何から何まで世話になりっぱなしで、本当に申し訳なく思います。主人と相談して、改めて今回のお礼をさせて頂きますわね。ナターリアに貴方の様な素晴らしい友人がいた事を、誇りに思いますわ」
少しだけ照れ臭そうに笑って、もう一度私に向き直り、アダムは握っていた手をそっと離した。
「ナターリア、さっきの君の質問には、明日答えるよ。今日は忘れる事だけに専念して、ゆっくり休むんだ」
コクンと頷き顔を上げると、アダムはまた微笑んだ。
茶色い髪、琥珀色の瞳をした端正な顔立ちに、柔らかな笑顔を見せる彼は、二年前よりもっと魅力的になっている。
あの男性に絡まれる前、女性達が向かった先には、きっとアダムがいたのだろうと、今更ながら思い返した。
背中を向けて広間へと戻って行くアダムを見送りながら、指先に残る微かな温もりを消したくないと感じていた。
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