侮辱
「貴方が覚えていらしても、軽く挨拶を交わしただけの相手を、いちいち覚えていられませんわ。ましてや貴方以外にも沢山いらっしゃったのですもの、その中の一人を覚えていられる方が珍しいのではなくて?」
男性の失礼な態度に、貴方はその他大勢の中の一人に過ぎないと、匂わせる様に言ってみる。
すると男性はまたクックッと笑って、更に侮辱する言葉を口にした。
「聡明だと聞いていた割には、大した事ないんだな。まあ、そうだろう、自分の婚約者すら繋ぎ止めておけないんだから」
なんという事を言うのだろう。
失礼にしても程がある。
一番触れて欲しくない部分に触れられて、怒りで指先がブルブルと震え始めた。
社交界という物が噂好きだと聞いてはいたし、私達の婚約破棄についても、当然知られているとは予想していた。
しかし、これ程あからさまに侮辱する人がいるとは予想もしていなかった。
「たかが挨拶を交わしただけの相手に、こんな侮辱をされる覚えはありません!いくらお酒を召し上がられているとはいえ、これ以上の侮辱は許しませんよ!もう貴方と話す必要はないでしょう。失礼させて頂くわ!」
怒りに任せて口を開き、感情のまま男性にぶつけた。
私はさっさとドレスの裾を翻し、男性に背中を向けて歩き出す。
なぜこの男性から、この様な侮辱を受けなければならないのか‥。
何の目的で私を傷付けるのか‥。
理由は分からないけれど、この男性とはこれ以上一言も話すつもりは無いので、私は急いで会場の中央へ向かった。
ところがどうだろう、男性はすぐに私の手首を掴み、元居た場所へと引き寄せたのだ。
「何をなさるの!?その手を離しなさい!」
男性の行動に怒りを覚えて、口調も自然と強くなる。
「腹が立つんだよナターリア嬢、あんたにね。エリスは言っていたよ。あんたは婚約者を放ったらかしで、エリスにばかり相手をさせているってね。観劇にしろ買い物にしろ、あんたが約束をすっぽかすから、優しいエリスがあんたの代わりに、婚約者と出かけているんだとね。お陰であんたの婚約者にたぶらかされて、王都へなんか行ってしまった。それなのにあんたはそんな格好で、のうのうと男漁りに出かけて来る始末だ。今更そんな格好で男漁りをするくらいなら、もっと前に婚約者をたぶらかせば良かったんだ!」
「なん‥ですって‥!?」
たった今男性の口から出た言葉に、私は激しく動揺した。
観劇に買い物‥‥
私はヘルベルトから、一度だってそんな物に誘って貰った事はない。
いつだったか、私の方から観劇に誘った事があって、その時ヘルベルトには「人混みは苦手だ」と断られた覚えがある。
「それは‥いつ頃の話なのかしら?私には誘われた覚えも、放ったらかした覚えもないのだけど?」
「は?自分の正当化か?バカバカしい!今更シラを切ろうったって、こっちは何度も目撃しているんだ!第一あの天使の様なエリスが、間違った事を言う筈がない!忘れているなら教えてやるよ。最初に目撃したのは一年半前だ」
一年半前‥
婚約してからたったの半年‥。
その頃から裏切りは始まっていたのだわ。
ある意味この男性の言った言葉に、ピッタリ当てはまる。
バカバカしい‥。
裏切られているとは知らずに、騙されているとは気付かずに、私もこの男性も、ただ相手を信じて期待していたのだ。
だから余計に腹が立つ。
きっとこの男性の様に、エリスの言葉を純粋に信じて、悪いのは全て私なのだと決め付けている人は多いのだろう。
「貴方がエリスの言葉を信じている限り、何を言っても無駄の様ね。本当に滑稽だわ‥きっとエリスは‥今私が貴方に対して思っている事と同じ事を、ずっと私に向けて来たのでしょう。簡単に騙される愚か者。なんて哀れな人なのでしょうと」
「なっ!エリスを侮辱するな!!」
私の言葉にカッとなり、男性は手を振り上げた。
殴られる!
そう思った私は、咄嗟にギュッと目を閉じた。
けれど受ける筈の衝撃や痛みはいつまでも無くて、なぜかザワザワとした人々の気配が、私達の周りに広がって行く。
何が起こっているのだろうと、恐る恐る目を開けると、振り下ろそうとした男性の腕を、一人の男性が掴んでいた。
それは、まさかここで再会するとは思いもしない人物で、今この国にいる筈が無い人物だ。
そして忘れようと思っても、忘れられない人物。
「私の大切な友人に、危害を加えるのは許さない。ましてやご婦人に手を上げるとは、マナー違反どころか最低の行いだ。分かっているのか?君は今私の友人を傷付けただけでなく、ヘンドリクセン伯爵夫人の顔に、泥を塗ったのだぞ!」
腕を掴まれ衆人環視の元、はっきりとそう告げられた男性は、さっきまでの勢いはなく、明らかに困った顔をしている。
落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回しても、誰も目を合わせる者はいなくて、騒ぎに駆け付けた従僕達に別の部屋へと連れて行かれた。
その間私は一歩も動けず、ただ助けてくれた人物を見上げて、小刻みに体が震えている事にも、気付く事すら出来なかった。
コツコツと近付く靴音に、心配そうな表情、そしてゆっくりと私の手を包み込む手の体温が、現実なのだと感じさせる。
「大丈夫かい、ナターリア?」
二年前‥彼は外国へ留学した筈だった。
それがなぜ‥今目の前にいるのだろうか?
震える口元から絞り出した声で、私は彼に問いかける。
「‥アダム‥貴方がなぜ‥ここにいるの‥?」
私の手を軽く摩りながら、彼‥アダム・ミュラーは柔らかく微笑んだ。
読んで頂いてありがとうございます。
コメントも頂けまして、期待に添えるよう、なるべく早いペースで更新していきたいと思います。




