帰省
馬車から降りたエリスの目に飛び込んで来たのは、この邸の執事を務めるヘルマンの姿。
いつもならエリスが戻っても、特に出迎える事はないのだが、今日はどういう訳か玄関の前で待っていた。
「あら、珍しいわねヘルマン。貴方が私を出迎えるなんて。どういう風の吹き回しかしら?」
少しからかう様に問いかけるエリスに、ヘルマンは首をゆっくり左右に振り、それから小さく溜息を吐いた。
「私としても、待ちたくて待っていた訳ではありません。ですがエリスお嬢様を、お届けする様に申しつかりましたので、こうして待つ他無かったのですよ」
ヘルマンの言った言葉に、エリスは目を丸くする。
「は?届けるですって?何を言っているの?‥‥ああ、分かったわ!大方ヘルベルトにでも連れて来いと言われたのでしょう?まったく困った人ねぇ。お姉様には随分とあっさりした態度だったのに、私には異様な程執着するんですもの。魅力の差って、こんなにもはっきりするものなのね」
クスクスと笑いながら、勝手な解釈で口を開くエリスに、ヘルマンは特に否定も肯定もせず淡々と続けた。
何故ならエリスがそう思っている事が、ヘルマンにとっては好都合だったからだ。
「エリスお嬢様、とにかくもう一度馬車へお戻り下さい。詳しくはこちらの手紙に書いてありますので、後で目を通して頂ければよろしいかと思います」
懐から取り出した一通の手紙を、ヘルマンはエリスの手に渡す。
既に日も暮れ暗くなった外では、差出人の名前など、はっきり読む事は出来ない。
もちろん、ヘルマンはそれを知った上で渡したのだ。
そしておそらくさっきの口ぶりから、エリスが思い込みにより、すぐに手紙を見ようとしないだろう事も、ヘルマンには分かっていた。
予想通り手紙を受け取ったエリスは、そのまま肩から下げたビーズのバッグの中に放り込み、面倒くさそうに馬車に戻った。
それを確認したヘルマンは、玄関の扉に向かって大きな声で呼びかける。
「ヘレン!」
ヘルマンが叫ぶとすぐに扉が開き、外出用の支度を整えた一人のメイドが姿を現した。
それからヘルマンと目を合わせて、お互いに頷き合った後に、エリスの向かい側へすっと乗り込む。
キョトンとするエリスに、ヘルマンは早口で一気に喋った。
「行き先はヘレンが心得ております。それでは時間も迫っておりますので、急いでお出かけ下さい。いってらっしゃいませお嬢様!‥お気を付けて」
言うだけ言うとさっさと馬車の扉を閉めて、御者に合図を送る。
御者も軽く頷くと馬に鞭を振るい、目的地へ向けて馬車を出発させた。
事前に打ち合わせていたお陰で、全てがヘルマンの計画通りに進んでいる。
ヘルマンはもう既に見えなくなった馬車の進んだ方向を見ながら、珍しく口元に笑みを浮かべていた。
「これで当分の間は、この邸も平和な日常を取り戻せるだろう。奥様とナターリアお嬢様がしっかりなさっていて、本当に良かった‥」
誰に聞かせる訳でもなくポツリと呟くと、いつもの無表情に戻ったヘルマンは、邸の中へ消えて行った。
エリスの乗った馬車は、結構なスピードで町の中を走り、中心部にある王都中央駅の前で停まった。
着いた途端にヘレンはサッと立ち上がり、エリスを連れて馬車から降りる。
「随分と乱暴に走らせたわね。‥お陰で馬車に酔ってしまったわ」
少し顔色の悪いエリスが、先に降りたヘレンに文句を言う。
「時間が無かったので止むを得ずです。さ、急いで下さいお嬢様、乗り遅れてしまいますから!」
「乗り遅れるって‥どういう事?それに、ここは一体‥?」
「説明は後でしますので、今は私に付いて来て下さい!」
「ちょ、ちょっとヘレン!」
エリスの手をしっかり掴み、ヘレンは有無を言わさずグイグイと引っ張って行く。
もう一度文句を言おうと口を開きかけたエリスだったが、酔ってしまった所為で吐き気の方が先に立ち、上手く喋る事が出来ない。
抵抗らしい抵抗も出来ないまま、駅の構内へ連れられて行った。
慣れた様子のヘレンは、いつの間に用意したのか二枚の切符を取り出し、停車している汽車の中へと進んで行く。
そして辿り着いたのは、コンパートメントの一室だった。
「なんとか間に合いました。お嬢様は気分がお悪い様ですので、寛いでいて下さい。今冷たい水を貰って参りますので」
確かにヘレンの言う通り、酔って吐き気を催したエリスは、冷たい水を飲みたいと思っていた。
それに外出先から戻った足で連れて来られたので、かなり疲れてもいる。
素直に頷き、ドサリと座席に腰を下ろして、そのまま横に体を倒した。
そんなエリスの様子を尻目に、ヘレンはさっさとコンパートメントを出て行く。
それとほぼ同じタイミングで汽笛が鳴り、汽車はゆっくりと走り出した。
横になりながらその音を聞いたエリスは、ここで初めて今の状況に違和感を覚える。
休暇が取れる様な時期でもないのに、汽車に乗って行く程の遠方に、仕事上で余裕の無いヘルベルトが呼び出すとは思えないわ‥
そんな風に考え出すと急に不安になり、ヘルマンから渡された手紙の事を、はたと思い出した。
そこで慌ててバッグの中から手紙を取り出し、差出人の名前を見る。
しかしそこに書かれていた名前は、自分の予想とは全く違う人物の名前だった。
差出人はエマ・フォン・シュミット。
伯爵夫人である母親の名前だ。
差出人が母親である限り、良い事が書いてあるとは到底思えない。
エリスは今自分の置かれている状況が、母親によるものだったのだと気付き、自分にとって悪い事が起こっていると直感した。
乱暴に封を破って中の手紙を読み始めると、みるみる表情を曇らせ、持つ手を震わせる。
そうして読み終わった頃にコンパートメントの扉が開き、ヘレンが水差しとコップを手に戻って来た。
「ヘレン!貴女とヘルマンで私を嵌めたわね!」
怒りで真っ赤に染まった顔を、ヘレンに向けたエリスは、手紙を持つ手をワナワナと震わせている。
「何を仰るのですかお嬢様?私達シュミット伯爵家の使用人は、ご主人様の命令に忠実に、速やかに実行する事をモットーとしております。ですから私もヘルマンさんも、奥様の命令を実行したまでですが?」
「それはお母様からの命令で、主人であるお父様からの命令じゃないわ!貴方達はそれを分かった上で私を嵌めたのでしょう!?」
エリスは怒りを抑えられず、持っていた手紙をグシャリと丸めた。
怒りの矛先を向けられたヘレンだったが全く動じる事もなく、冷静にエリスへ返事を返した。
「お嬢様、最後まで奥様の手紙を読まれましたか?きちんと読まれれば私の言った意味がご理解頂けると思いますが?」
「‥最後まで‥ですって‥?」
そう言われて丸めた手紙を広げ、もう一度手紙を読み返す。
最初に小言から始まって、王都から戻る様に諭す言葉と、再教育が必要だという怒りの文章。
そしてエリスを戻す為の手筈を整えたという所まで読んで、さっきはグシャリと丸めたのだ。
その先に目を走らせ、読み進めていくうちに、エリスの顔色は赤から青に変わって行き、読み終わった頃にはワナワナと全身を震わせていた。
「王都の邸が‥お母様の物ですって‥!?お姉様が‥管理を任された‥ですって‥!?」
「ご理解頂けた様ですね。王都の邸に勤める私達にとって、今現在奥様こそがご主人様なのです!」
ヘレンはニッコリと笑いながら、キッパリと言い切った。
その笑顔が癪に障り、エリスはキッと睨み付ける。
けれどもヘレンは気にした様子は無く、更に追い討ちをかける様に言い放った。
「ああ、次の駅で降りて、戻ろうとしても無駄ですよ。既に最終列車は出ておりますので、降りたとしても戻る事は出来ません。それから仮に他の手段で王都の邸に戻ったとしても、ナターリアお嬢様の許可が無い限り、門すら開けて貰えないでしょう」
言い終わったヘレンは何事も無かったかの様に、水差しからコップへ水を注ぎ、それをエリスの前に置く。
それを乱暴に手に取って一気に飲み干すと、エリスは不貞腐れた顔でゴロンと座席に横になった。
ヘレンは意外と簡単に大人しくなったエリスを見て、若干拍子抜けをした感はあったが、自分のやるべき事をやり切った満足感からか、エリスの呟いた言葉を聞き逃していた。
それはエリスの性格を、完全には理解していなかったからとも言え、完全に油断していたせいとも言える。
「この程度で私に仕返ししたつもりなんて、お姉様ったら優しいわね‥」
横になりながらニヤリと笑うエリスの顔は、ヘレンの位置からは見えなかった。
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