信用
「これで三度目か‥」
と、トーマは人通りの少ない廊下で一人呟く。
二度目までは侯爵夫人のパートナーとして出席していた夜会も、今回からは一人での出席となっていた。
これは、そろそろトーマに接触し易くなる環境を作った方がいいとの助言を、ハンナから貰ったせいもあるが、思いの外エリスが執拗に接触して来たせいもある。
前回、前々回と一緒に夜会での様子を伺っていた侯爵夫人も、この様子なら一人で出席しても問題無いと太鼓判を押してくれた。
それ故トーマは、いつも以上に気合いを入れて、この夜会に臨んでいる。
どんな手段を使っても、侯爵夫人の期待に応えてみせるという、恩返しの様な気持ちも込めて。
ひと気のない廊下を歩くと、案の定「あの‥」という女の声が後ろからかけられる。
振り返らなくても誰だか分かるが、トーマはゆっくりと振り返り、呆れた様な顔で溜息を吐いた。
「また君か‥。いい加減私につきまとうのは止めてくれないか?」
冷たく言い放つが、顔は真っ直ぐ目の前の女を見つめ、少しだけ困った表情を浮かべて見せる。
女はトーマの表情を見ると、一瞬ニヤリと口の端を上げたが、それから直ぐに媚びる様な表情に変わった。
「エリスと呼んで頂けませんか?君では余りにも、距離を感じてしまいますもの」
瞳を潤ませ切なそうに言うエリスに、トーマはフッと笑みを返す。
誰もが虜になるであろう、とびきり魅力的な表情で。
これには流石のエリスも、うっとりとした表情を浮かべている。
トーマはそれを見逃さず、少しだけ優しい声を心がけて口を開いた。
「わざと距離を取っているんだよ。何故なら私は商売人だからね」
「商売人‥?ええ、存じておりますわ。ですから教えを請いたいと、こうして頼んでいるのです。ですが、今仰った商売人という言葉は、どういう意味なのですか?」
トーマはもう一度フッと笑う。
今度は相手を嘲る様に。
「意味‥ね。それが分からない様なら、君には教えを請う資格がない。商売人にとって何が一番大切なのか、君は理解していないのだからね」
少し優しさを見せた所で、思い切り突き放すと、エリスは焦ったのか、サッと顔色を変えた。
「わ、私は‥今迄そういった事と、縁の無い生活を送って来ました。ですからそれを変えたいと思って、貴方にお願いしているのです。無知なのは充分承知しております、いつも姉はそう言ってバカにして来ましたから。なので分からないのを恥とは思いません、どうかその意味を教えて頂けませんか?」
珍しく必死になって、どうにか引き止めようと言い訳をするエリスは、それでも自分の事はまるで悲劇のヒロインの様な脚色を忘れない。
トーマは可笑しくて笑いが溢れそうになったが、そこは仕事としてなんとか堪えた。
「それならば一つだけヒントをあげよう。君は取引相手を決める時、何を基準に選ぶと思う?」
「基準‥ですか?それは‥お互いに利益が出ると見込める相手‥ではないでしょうか?」
「それもそうだが、その様な判断を下す際に、一番は相手がどれだけ信用出来るか‥と、いう事なんだよ。つまり私は、今の段階では君を信用出来ないと言ったのだよ。見事に伝わらなかったけれどね」
カッと顔を赤くして、エリスは一瞬怒りの表情を見せる。
けれども自分の欲望を満たす為には、その怒りさえも抑え込んだ様だ。
姉の物を奪うという、はっきりとした欲望に、どこまでも忠実なエリスは、手段を選ばない。
「それは‥間違っていると思いますわ。だって貴方は私の事を、知ろうとしていないのですから。私を知った上でならば、その発言も納得出来ますが、知ろうとさえしないのに、信用出来ないと判断されるのはおかしいのでは?」
「ほう?中々言うじゃないか。それでは君は、私から信用出来ると思わせる、自信があるという事かな?」
「ええ、もちろんです!その為なら私は、どんな事でも致しますわ!」
挑む様な視線できっぱりと言い切ったエリスに、トーマはとりわけ意識しながら、満面の笑みを返す。
エリスはたちまち蕩ける様な顔に変わったが、これこそトーマの狙い通りだった。
スッと近付き、トーマは耳元で囁く様に言葉を紡ぐ。
「ルター博士の経済論という本を、読んでみるといい。そうだな‥次に会う機会があれば、その時までに読んで、私の質問に答えられる様、勉強して来るんだね。それが出来れば多分、私も君への接し方を変えるかもしれないよ」
どこまでも甘く、くすぐる様な囁きに、エリスはうっとりしながらトーマを見つめる。
トーマはもう一度ダメ押しに極上の笑顔を見せると、クルッと背中を向けて出口へと歩き出した。
これで暫くは、あの小難しい本を読む羽目になるだろう。
私の役目はあの小娘を惹きつけ、他の事に目が行かない様にする事だからな。
しかし、やはり思った通りだ。
自分の容姿に自信があってプライドが高い者程、手強いと感じた相手に執着を示す。
特にあの小娘は、今迄よっぽど楽な相手だけを相手にして来たらしいな。
きっとちやほやされて、さぞや自尊心を満足させて来た事だろう。
これも芸の肥やしとはいえ、その自尊心をへし折ってやるのも、意外と面白いかもしれないな。
何にせよ早く戻って、今日の事をアダム様に報告しなければ!
コツコツと靴音を響かせ、出口へ急ぐトーマの姿を、エリスは見えなくなるまで見つめ続けて、「見ていなさい、読んでやるから!必ず信用に値すると思わせてやるわ!」と、呟いた。
読んで頂いてありがとうございます。




