単純
コツコツと靴音を鳴らしながら、何度も玄関ホールを往復する男の顔には、はっきりと苛立ちの表情が浮かんでいる。
男の名前はヘルベルト・フォン・リューケンバッハ。
この邸では招かれざる客だ。
かれこれ小一時間もこの様に行ったり来たりを繰り返し、苛立ちの原因となる人物の帰りを待っているのだが、一向に戻る気配の無い相手を思ってか、時折親指の爪を噛む様子が窺える。
けれどもこの邸の使用人達はとばっちりを恐れて、誰一人として声をかける者はいなかった。
それから更に30分程過ぎただろうか、さすがに疲れて来たのか足音は重く、靴音の間隔も長くゆったりした物に変わって来ている。
ヘルベルト自身もそろそろ部屋へ引き上げるべきだと思ったのだろう、靴音は階段へと向かっていた。
と、その時、表に車輪の軋む音と、馬の蹄の音や何やら会話を交わす声が聞こえて、ヘルベルトは慌てて踵を返す。
バンッ!と勢いよく玄関の扉を開け、表に飛び出した。
それを馬車から降りたばかりのお目当ての人物‥エリスは目にして、最初に思ったのは嫌悪感を表す言葉だった。
ああ、鬱陶しい!
思いを悟られまいと、甘えた顔でヘルベルトを見つめる。
いつもならそれだけで機嫌を直すのだが、今日のヘルベルトは違っていた。
「エリス!こんな遅くまで何処へ行っていたんだ!?」
不機嫌さを隠そうともせず、剥き出しの感情が声のトーンに現れ、今にも掴みかかる勢いでエリスの前に詰め寄る。
しかしエリスは怯む事なく、努めて冷静にヘルベルトの問いに答えた。
「何をそんなに怒っているのかしら?貴方の力になれればと思って、夜会に出かけたというのに」
「僕の力にだって?それがどうして夜会に出席する事になるんだ?しかも君はカールとかいう男と、最近会ってるそうじゃないか!どういうつもりなのか説明してくれ!」
怒りの収まらないヘルベルトは、エリスの肩を掴んで揺すった。
それに顔をしかめながらも、次に何を言えばいいのか知っているエリスは、真っ直ぐヘルベルトを見て口を開いた。
「カールの叔父様は、とても顔の広い人なの。その叔父様が招待された夜会に、私は出席したのよ。わざわざ頼み込んで、招待状を譲って貰ってね。これは何の為なのか分かる?貴方の仕事に役立つと思ったからよ」
「僕の仕事だって?夜会に出かける事が、どうして僕の為になるんだ?」
勿体ぶって溜息を吐き、それから諭す様な話し方を心がける。
「だって貴方、悩んでいたじゃない。結果を残せなければ全てお姉様の物になるって。そんなの私だって許せないし、黙って見ている訳にもいかないわ。だから私に出来る事は何かと考えて、浮かんだのが人脈作りよ。そんな時にちょうどカールから連絡が来て、悪いとは思ったけど、利用させて貰う事にしたの。私が夜会に出る事で知り合った人々との人脈が、きっと貴方の役に立つと思ったから」
エリスがそう言うと、ヘルベルトの顔からはみるみる怒りの色が消え去り、変わりにうっとりとした愛しい者を見る表情が浮かんだ。
「エリス、君がそこまで僕の事を心配してくれたというのに、僕は変な勘繰りをしてしまった。本当にごめん‥。君の愛を疑うなんて、僕はどうかしていたよ」
「ううん、私も黙っていたのですもの、誤解されても仕方がないと思うわ。でもね、黙っていたのは貴方を驚かせようと思っての事よ。分かってくれる?」
「ああ。もう二度と君を疑おうとは思わない。大きな声を出して悪かったね。本当にごめんよ」
エリスの肩から外した手を今度は背中に当てて、邸の中へとヘルベルトは導く。
エリスはその仕草や態度に、腹の底ではほくそ笑んでいた。
なんて単純で簡単なのかしら。
たったこれだけの言い訳で、赤子の手を捻るより簡単に信じるんだから。
カールにしても同じ事。
いつか貴方と一緒になる為に、今は手を貸してちょうだいと言えば、犯罪まがいの事までやってのける。
本当に単純で簡単に操れる人達ね。
まあ、大した魅力もない平凡な男なんて、所詮この程度に過ぎないのだわ。
フッと笑みを浮かべて、思い浮かべるのは一人の人物。
冷たい態度で、それでも今まで出会った中で、誰よりも魅力的な惹きつけられる笑顔の持ち主。
ああ、あの人をどうしても手に入れたいわ‥
うっとりとした表情でヘルベルトを見つめ、腹の底で想うのは別の人物。
アダム・ミュラー。
貴方を必ず私の物にしてみせる。
エリスの心の裏なんて、何も知らないヘルベルトは、自分に向けられた笑顔に、心の底から喜びを感じていた。
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