無知
かけられた声に素っ気なく、「何か?」と短く返す。
多分そんな態度をとられた事も、あからさまに迷惑そうな視線を投げかけられた事も無いのだろう。
声の主は一瞬驚いて、瞳をパチクリさせた。
しかしさすがはハンナが、警戒するだけの人物である。
怯むどころかむしろ距離を詰め、何も無い所でつまづいてみせた。
ちょうどトーマの胸に飛び込む形で。
予め聞いていたとはいえ、つい笑いたくなってしまう。
随分と古典的な手管に、引っかかると思っているんだから、馬鹿にされたものだ。
貴族のお坊ちゃんっていうのは、単純な奴らばかりなのか?
「ごめんなさい!暗くて足元が良く見えなくて!」
恥じらう仕草で頰を赤らめ、上目遣いに見上げる潤んだ瞳。
下手な女優よりよっぽど卓越した演技力だなと、変な所で感心するのは、役者をやっているせいだろう。
ならばこちらとしても負けてはいられない。
イメージした人物を演じ切るだけだ。
「いえ。何か用ですか?私はそろそろ帰る予定なのですが」
相手の作った出会いのイベントを、まるで何事もなかったかの様に突き放す。
「まあ!もう帰ってしまわれるのですか?お仕事のお話をお聞きしたかったのに!」
めげずに甘える表情を作る所は、中々に図太い。
まあ、姉から婚約者を奪うほど、非常識な神経の持ち主だ、これくらいの図太さは持ち合わせているだろう。
「ええ。明日は早朝からハイネンへ発ちますので、早目に休みたいのです。それに私の仕事の話を聞いても、ご婦人が興味を持つ様な内容ではないので、聞くだけ無駄だと思いますが?」
嘲笑うかの様な冷たい笑顔を向けて、遠回しに迷惑だと言ってみる。
するといきなり上着の裾を掴まれ、思い詰めた様な表情を見せた。
「貴方は‥お若いのに事業で成功されていると聞きました。ですからきっと、偏見もなく公平に見てくれる方だと思ったのです。ですが貴方も私の事を、無知で愚かだと馬鹿にするのですね」
唐突に言われた言葉に、乗ってやるべきだろうか?と一瞬考えたが、どうせ腹の探り合いなのだから、少し付き合って様子を見る事にする。
困った顔を作ってから、一度溜息を吐く。
「‥本当に忙しいのですがね、私は。ですが貴女に裾を掴まれたままでは帰れない。で?馬鹿にするとはどういう意味なのですか?」
「‥姉が‥いつも無知で愚かだと。確かに姉は優秀で、高等学院まで出ています。そのせいか私を下に見ているのですわ。けれど学ぶ機会を与えられなかった私には、自分から教えを請うしか方法がありません。貴方でしたら年も近く、偏見を持たずに教えて頂けると思って‥」
「何故そう思ったのか不思議ですが、生憎私は婚約者以外の女性と、話す気すらありません。私の婚約者は、私が他の女性と話すのを嫌いますので。ですからはっきり言いましょう。他を当たって下さい」
「私は純粋に教えを請いたいと、お願いしているのです。無知な私にはそれすら許されませんか?」
上目遣いの瞳に涙を溜めて、大した演技だと感心する。
ここはやはり思い切り突き放す必要があるだろう。
「確かに貴女は無知だ。私の裾を掴んで離さないなどという、無礼な事をやってのけるのですからね。それに私が迷惑している事にも、気付いていないとは愚かですね」
薄暗い明りの中でも、はっきりと分かる怒りの表情。
どうやら彼女の演技力もここまでか。
剥き出しの感情を見せては一流とは言えない。
ワナワナと震えながら、それでも掴んで離さない裾を、手首を掴んで振り解き、背中を向ける。
「わ、私は‥諦めませんからね!」
吐き捨てる様に背中から言われた最後のセリフに、首尾は上々だと確信した。
真っ直ぐ会場に向かう手前、はっきりと顔の見える場所まで歩き、そして立ち止まる。
ここが今日一番の見せ場だろう。
言わばスポットライトを浴びたステージだ。
極上の笑みを浮かべて一度だけ彼女に向ける。
彼女の顔に浮かんだ、期待の表情を確認して、バルコニーを後にした。
今日の目的は無事達成出来ただろう。
バイバイ三文女優さん。
案外楽しませて貰ったよ。
次はもっと楽しませて貰おうじゃないか。
バルコニーから戻って来るトーマの姿を、侯爵夫人は見ていた。
こちらへ向かい歩く姿に、すれ違う女性達がホゥッと溜息を漏らしながら、熱い視線を送っている。
多分上手くいったせいだろう。
自然と魅力的な笑みが漏れ、それがどれほど人々を引き付けているのか気付いていない。
トーマには役者としての素養、華があるのだ。
その様子を広げた扇子の陰から、侯爵夫人は満足気に見つめていた。
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