接触
ピカピカに磨き上げられた黒い革靴と、紺の燕尾服から覗く白いチーフに白いタイを、鏡の前で確認したトーマは、最後にピッタリした手袋をはめた。
「上出来ですよトーマ。今夜は私のエスコート役として、アダム・ミュラーになりきりなさい」
満足気に頷きながら言う侯爵夫人は、完璧な装いで準備を終えていた。
「夫人、貴女の事はなんとお呼び致しましょうか?彼等はアダム・ミュラーの事を、労働階級の出身だと思い込んでいるのですよね?」
少しだけ不安気な顔で、トーマは侯爵夫人に問いかけた。
アダムと同じ髪色髪型、瞳の色のトーマは、ここ数週間仕込まれた優雅な仕草で侯爵夫人の手を取る。
元々の優れた容姿も相まって、惚れ惚れするほど魅力的な男性となっていた。
ハンナはあの後も何度かシュミット伯爵邸を訪れ、エリスとカールの動向を探り続けた。
そこで分かったのはエリス達がアダム・ミュラーを労働階級出身の青年実業家で、貴族出身では無いと思い込んでいるという事だ。
彼等は婚約破棄されたナターリアが、二十歳という些か縁組には難しくなる年齢である事と、一度婚約破棄された貴族の令嬢を、他の目ぼしい貴族が婚約しようとは考えにくい事から、その様に決め付けて結論を出した様だ。
ましてやエリスは完全にナターリアを舐め切っている。
伯爵家の後を継ぐ為に、なりふり構わず婚約したと思い込んでいるらしい。
けれどそれはこちらにとっては、返って好都合だった。
労働階級と思い込んでいる限り、多少トーマが上流階級のマナーを無視しても言い訳が出来る。
「いつもの通り、侯爵夫人とお呼びなさい。私はアダム・ミュラーに資金援助をしている、未亡人という役所ですからね」
上品に微笑む侯爵夫人は、いつもよりどことなく楽しそうだ。
側に控えていたハンナは、丁寧に頭を下げてから口を開いた。
「トーマ、打ち合わせ通り、最初からエリスお嬢様と親しくしない様お願いします。多分性格上、冷たくされればされるほど、燃えるタイプだと思いますので」
「心得ていますよ。アダム・ミュラーは婚約者を大切にする男ですからね」
片目を瞑ってにっこりと微笑むトーマは、思わずドキリとするほどに魅力的だ。
普通の若い娘なら、一目で虜になるだろう。
ハンナはそれを頼もしく思い、トーマに全幅の信頼を寄せた。
侯爵夫人はやはり楽しそうに声を上げて笑う。
「フフフ‥すっかり貴方の中では、アダム・ミュラーという人物像が出来上がっている様ですね。貴方の才能に目を付けた、私も鼻が高いという物です。さあ、舞台に上がって、しっかり私に見せて頂戴」
「ええ、侯爵夫人。貴女に損をさせたと思わせない様、完璧に演じてみせますよ」
二人はそのまま馬車に乗り込み、今夜開かれるドルフ子爵邸の夜会へと向かった。
ドルフ子爵邸の夜会は、幅広い層が集まる結構砕けた集まりだった。
これもカールやエリスが足を運びやすい夜会を、わざわざ選んでの事だ。
今は勘当されて叔父の家に身を寄せているカールにとっては、貴族の集まりは敷居が高く、知った顔になるべく会わない様用心している事は調べがついている。
だからおびき出す為に、こういった集まりを選ぶ必要があった。
「これは‥!フィッシャー侯爵夫人ではありませんか!」
会場に現れた侯爵夫人の姿を見て、恰幅の良い中年の男性が近付いて来る。
「ご機嫌ようドルフ子爵。お招き頂いたので参りましたわ。たまにはこういった気取らない集まりも、気分転換にはなるかと思いましてね」
「ええ、息子の発案でこんな形の夜会に致しました。侯爵夫人に来て頂けるのは、大変光栄な事です。ところでそちらのハンサムなパートナーは、初めて見る方ですが‥ご紹介頂けますか?」
子爵の言葉にトーマは、事前に聞いたドルフ子爵の情報を頭の中で整理する。
ドルフ子爵はその子息と共に、手広く行った投資で成功を収めていた。
その為今回の様な身分に関係ない夜会を開いては、あらゆる分野の新しい事業についての情報を収集しているのだそうだ。
「今夜の私のパートナーは、今最も信頼しているビジネスパートナーですわ。甥と似た名前ですが、青年実業家のアダム・ミュラーさんですの」
侯爵夫人の紹介に、トーマは笑顔で挨拶をする。
「初めまして。アダム・ミュラーと申します。子爵は投資で成功を収めていると聞きましたが、後でゆっくりその話を聞かせて貰えますか?」
これに気を良くしたドルフ子爵は、満面の笑みで挨拶を交わした。
有名人であるフィッシャー侯爵夫人の連れが、自分の事を知っているというだけで、子爵にとっては知名度が上がる。
それから次々と招待客に引き合わせては、トーマを紹介してくれた。
わざわざ自分からアダム・ミュラーだと宣伝して回らなくても、子爵のお陰でその手間が省けるのは有り難い。
ここ数週間アダムから叩き込まれた、事業に関する知識を総動員させて、トーマは投げかけられる質問を全て卒なく答えていった。
そろそろ頃合いだろうな‥
一通り目ぼしい相手との挨拶もひと段落した所で、トーマは侯爵夫人に声をかけた。
「侯爵夫人、少し酔いを覚まして来ます」
それが何を意味するのか心得ている夫人は、微笑みを浮かべて優雅に頷いた。
トーマはわざと目立つ様に、広間の中心を経由してからバルコニーへと向かう。
女性達の熱い視線を感じるが、それこそ狙い通りで、その中でも真っ直ぐ見つめて来る一人の存在に、随分前からトーマは気付いていた。
接触する機会は作ってやるべきだろう。
さて、どう出るかな‥?
バルコニーの手すりに肘を付き、ぼんやりと照らされた庭を眺める。
すると大して時間も経たずに、後ろから女性に声をかけられた。
「あの‥」
振り返り月明かりに照らされた女性の容姿を確認する。
それはまさしくハンナに教えられた容姿そのままで、目的とした人物だと確信した。
さて、ここからが本番だ。
演技力が試される時が来た。
トーマは少し口の端を上げ、目の前の女性に向き直った。
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