十話「素直な気持ち(前編)」
カップを口に運び、中に入ったコーヒーを啜る。ほろ苦く、暖かいそれが喉を通して体全体を暖める。冬の暖かい飲み物の醍醐味をとくと味わいながら俺は頭を抱えていた。
「……どうすりゃいいんだ」
現時点で悩んでいる問題はたくさんあった。だがその全てを無視して早急に答えを出さないといけない問題が発生していた。
昨夜――俺は若菜ちゃんに告白された。それはもうストレートに、何一つ誤魔化しようのないほど徹底的に想いをぶつけられた。
その場で出した答えは、一日待ってくれという先延ばしだ。若菜ちゃんは返事はいつでもいいって言ってくれたが、そういうわけにもいかないだろう。折角勇気を振り絞ってくれたんだ。俺もきちんと考えた上で早めに返事をしないといけない。これ以上先延ばしにならないよう、夕方に若菜ちゃんと会う約束を取り付けてある。
というわけで朝からずっと彼女の告白に対しての答えを考えているのだが……今もこうして悩んでいるわけである。家で考えても思考はずっとループして、どうしようもなかったのでこうして外に出てコーヒーでも飲んで気分転換したら何か浮かぶんじゃないかと思ったがそんなことはなかった。
自分が答えを出しあぐねている理由は、よくわからない。由香梨や沙良の時は告白を受けた時点で即座に付き合えないと決断できた。
今回も同じような理由で断ることも出来たのだが、あれからおおよそ二年。時が経ち、俺の中の考えも随分と変わった。結果、俺はこうして迷っているわけである。
「あーもう……どうしたらいいんだ……」
結局答えは出ず、ここにいてもしょうがないので店を出ることにする。
外は冷風が吹いており、コートを着ていても肌寒かった。
ポケットに手を入れ、白い息を吐きながら商店街を歩く。するとなんとなく懐かしい気分になった。
こうして一人でいるのは凄く久しぶりな気がする。ここ半年、俺の周囲はとても騒がしかったから。
そういえば、あいつと会った日もこうして一人で商店街に歩いてた。あれは夏の出来事で、今とは間逆でとても暑かった。季節を感じながら歩いていたら公園があって、そこであいつがトラブルに巻き込まれていて……。
「……ん?」
その公園の中をちらっと見ると、そこには見知った横顔があった。
「久志?」
「ん? ……カズ?」
その人物は久志だった。彼は屈んで中型の犬とじゃれあっていた。
「久志って犬飼ってたのか?」
「うん。今は散歩中。学校あったから俺が散歩に連れてって上げられなくて。久しぶりにこいつと戯れてるんだ」
久志は犬の頭を撫でたり、顎をさすったりする。犬のほうもご主人様との戯れを楽しんでいるのか、とても嬉しそうに息を荒くして尻尾をブンブン振っている。
何でも、学校の期間中は親や他の家族が散歩に連れていってるらしくて、冬休みの今しか散歩に連れて行くチャンスがないと彼は補足する。
「そういうカズは何してるんだい?」
「……俺も散歩かな。一人でだけど」
久志に手で促されて、犬の頭を優しく撫でる。
「その割には複雑な顔してるように見えるけど」
「ああ……いや、それはまあ」
「何かあったの? 中里さんに告白されたりとか」
久志の言葉にドキリとする。
何故、それを……? まさか由香梨のようにあの時の姿を見られたとか……?
「あれ、まさか本当に?」
と思ったが、本気で冗談で言ったらしかった。
「ビックリした。何でピンポイントで若菜ちゃんの名前が出てくるんだよ」
「その態度は本当みたいだね」
久志は無邪気に笑う。あれ、そういえば久志は若菜ちゃんのことが好きだって言ってなかったか……?
「わ、悪い。少し動揺した。気持ちいい話じゃないだろ。だって久志は……若菜ちゃんのことが……」
「確かにそうだけどね。でも、中里さんが誰を想ってるかなんてとっくに知ってたし」
「……え」
久志の表情を覗き見るがいつもと変わった様子はない。
「というか、カズと香月さんくらいだよ。中里さんの気持ちに気づいてなかったのって」
「……マジで?」
「大マジ」
久志は平然と言ってのける。
そういえば以前も二人の女の子の恋に全く気づいていなかった。あれ、俺って自覚ないだけで鈍感だったりするのか……?
「じゃあカズが悩んでるのはその告白の返事ってとこか」
「……まあ、はい」
なんとなく恥ずかしかったので、視線を商店街の通りに向ける。
「菊池さんや……三条さんだっけ? あの二人の時みたいに答えは出なかったの?」
「ああ。……数年前と状況大分違うからな。自分のことを理由に断る発想は思いつかなかった」
それに、若菜ちゃんから告白を受けたとき、浮かんだのは全く関係ないことだった。咄嗟にその考えを振り払って、若菜ちゃんにどう対応するかを考えようとして……このどん詰まり状態だ。
「俺が言うのもなんだけど、答えが出ないならいっそ付き合ってみるってのもありじゃない?」
久志は本気でそんなことを提案してくる。
「……いや、そんな中途半端な気持ちで付き合ったりしたら、若菜ちゃんが可哀想だ。勇気を出して切り出してくれたのに、適当な気持ちで肯定するなんて最低だろ」
「なら断ればいいんじゃないか」
「…………」
久志の言うとおりなんだけど、俺は何も言えなかった。
どうしてだろう。確かに若菜ちゃんは俺にはもったいなさすぎるくらい良い子だ。あんまりベラベラ喋る性格じゃないし、感情だって無闇に外に出さないけど、内心は色々なことを考えてて、少し毒を吐きつつも何かと協力してくれるし、言葉の節々には信頼の感情が見られる。
断るのは簡単だ。けど、断る理由がない。じゃあ受け入れるかどうかと聞かれたら、素直に頷くことは出来ない。俺が悩んでるのはつまりそういうことだ。
「なあ、カズ。俺が思う君は、問題が発生したらどんな理由を付けてでもどうにかする男だって思ってたけど、今回は違うのかい?」
「俺はそんな大層な人間じゃないけど……」
「君自身はそう思うかもしれないけど、周りはそうは思ってないよ」
久志は犬とのじゃれ合いをやめて立ち上がる。
「今回君がうじうじしてる理由は――自分が関わっているからかい?」
「――は?」
久志は威容な態度で俺と向かい合った。
「何を、言って」
「俺はカズが何を抱えているか知らないから偉そうなことは言えないけど、カズが今回の事にはっきりとした態度が取れないのはそういうことじゃないの?」
「――――」
久志は何を言おうとしている。決して俺を責めるようなことを言ってるわけではないというのは分かる。分かるけど、心臓が掴まれたような気分だった。
「――いい加減、素直になりなよ、カズ」
彼は静かにはっきりと口にした。
「カズは多分、相手を傷つけたくないとか、そんな弱気なことを考えているわけじゃないだろう? 君は、自分の感情に素直になるのが怖いんじゃないか? 今まで自分を取り巻く環境から逃げていたから、自分の本当の気持ちから逃げていたから、無意識に回答を拒否してるんじゃない?」
「そ、れは……」
「違うとでも言うのかい?」
久志はこちらを射抜くような目をしている。俺はその先の言葉を紡ぐことができなかった。
「多分、君がそうなった原因の問題ってのは全く違うことだと思う。けど目先の問題は恋愛事――各々の感情が関わっていることだ。どんなに自分と向き合うのが怖くても、自分の素直な気持ちから逃げちゃいけないと思うよ」
彼は全て言い切ると、真剣な顔つきを崩して笑顔になる。
「何だか厳しい言い方になっちゃってごめんね。別に俺は責めてるわけでも怒ってるわけでもないんだ。友人からのアドバイスだと思って欲しい」
大人しかった犬がワンワンと吠え立てる。寒い日中の中、何もせずにいるのがつまらなくなったのだろうか。
「俺が言いたいことはカズに伝えたよ。後は全部君次第だ。……頑張れよ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
久志と別れてから数時間後。俺は若菜ちゃんとの待ち合わせ場所にいた。その場所とは何の偶然か、由香梨や沙良と出会った場所、そして沙良の想いを告げられた場所だ。
公園内にある時計台を眺めていると土を踏む音が後ろから聞こえた。
「……こんにちは、和晃君」
「昨日ぶりだな、若菜ちゃん」
若菜ちゃんと向かい合う。彼女の身長は他の女子よりも小柄なせいか、少し見上げる形で俺の事を見てくる。
「……答えはちゃんと出た?」
「多分、だけど」
「……別に今日無理して答えを貰うつもりはない。今からでもまた今度って言ってくれれば――」
「それは駄目だ。……駄目なんだ」
答え、というよりも理由は依然はっきりとしない。だが、先の久志のアドバイスを無視するわけにはいかない。今日を逃したら、俺はまた自分の気持ちから逃げてしまうだろうから。
「……わかった。じゃあ、和晃君の好きなタイミングでお願い」
「ああ」
頭に冷たい感触がした。昨日に続いてまた粉雪だ。今年はこういうの、多いな。
俺達はしばし無言で向かい合い、雪がはっきり見えるようになるまで立ち続けていた。雪が粉雪と言えなくなるほど大きい粒になってきたところで――ついに俺は切り出した。
「……色々考えたけど。こうして返事を迷っている時点でこの結論は決まってたんだと思う。――ごめん。俺は……若菜ちゃんとは付き合えない」
「……そっか」
若菜ちゃんは表情一つ動かさずにそっけなく答えた。
「……断られることは覚悟してた。その理由を、聞いていい?」
頷く。
俺が彼女の告白を断った理由。それは、何だ。告白を受けたとき、浮かんだあの感情は、光景は何だ。あれが全ての答えではないのか。
そもそも、今の考えは合っているのか。単純に恋人としての未来を想像できなかったから、とかではないのか。俺なんかじゃ君とつりあわないとかそんな理由ではないのか。
―――いい加減、素直になりなよ、カズ。
友人の言葉が頭の中で反芻される。
俺はまた言い訳を立てて逃げるのか。俺は、俺自身から逃げるのか。今までも逃げてきた。自分の中だけならそれでもよかったかもしれない。けど、今回は俺以外の人間の気持ちも関係ある。もう自身の中だけで完結していい話じゃないんだ。
素直に自分の気持ちを受け入れるだけだ。簡単なことだ。今日の、昨日の――この一ヶ月の靄がかった心を真正面から、嘘偽りなく知ればいいだけなんだ。
「俺、は……」
昨日、若菜ちゃんとデートしていて、彼女の笑顔を見るたびに心が痛んだ。
それは何故か。
「俺は……」
ここのところ憂鬱気味だった。ベッドの上で目覚めるたびにいつも同じ事を考えていた。
それは何故か。
「俺、は――」
今日も一人で歩いていて、そこに何となく寂しさを感じていた。
それは何故か。
「俺は――」
若菜ちゃんから好きと言われて、俺はどうしてか申し訳ない気持ちと共に、ある女の子の顔が浮かんだ。
それは何故か。
何故なのか。それは、それらの疑問はたった一言で、俺の心情を吐露すればきっと氷解する。
ここ数週間のイライラ、憂鬱さ、空虚感、それらの原因であり。
昨日のデートを素直に楽しめなかった原因でもある。
そこには全て、一人の人間が関わっている。
彼女が全ての問題の中心に立っている。
彼女が――香月比奈が俺の心の中心を支配している。
ああ、そうだ。それは誰もが持ってる感情の一つだ。なのに誰にも負けない強さを持った感情でもある。
それは――
「俺は――香月比奈のことが好きだ!」
言った。言ってやった。自分の口から出たそれはこれ以上ないくらい素直な自分の気持ちだ。
「俺は比奈のことが好きだ。彼女以外の女の子と恋人になっている様子は俺には想像できない。どんなに努力しても、比奈以外の子が俺の隣になっていることは想像できない」
溜まっていた鬱憤を吐き出すかのように、自分のためだけに言葉を作り上げる。
若菜ちゃんがうん、と小さく頷くまで、俺は彼女のことを考えてる余裕がなかった。
「……あ、俺、その、ごめん! 若菜ちゃんの気持ちも考えず、こんなこと言って……」
「……構わない。和晃君は私に自分らしく生きろって言った。だから私も和晃君にそう言う。今の和晃君はある意味和晃君らしいから、構わない」
彼女はくすっと笑う。ただの微笑なのに引き込まれるような妖艶な笑みだ。
「……でも、その言い方じゃ私は納得しない。だから、もう一度はっきりと私に付き合えない理由を語って欲しい」
「……いいのか?」
彼女は頷く。きっと辛いはずなのに。彼女の心中は知ることは出来ないが、それでもとても酷なことをしてほしいと彼女が言っているのはわかる。彼女の決心を無碍にしてはいけない。
「……俺は香月比奈のことが好きだ。好きな子が他にいるから……俺は若菜ちゃんとは付き合えない」
「……うん。理解した」
彼女はむしろ清々しい顔をしていた。
「……本当に、ごめ――」
「――和晃君」
言葉が遮られる。
「……商店街の一番奥を越えて、さらに進んだところにある水上公園、わかる?」
「分かるけど……」
どうしてここでその話題が出てくるんだ。
「……今そこに、比奈がいるらしい」
「――――え」
「……行って、和晃君。比奈の元に」
「でも……!」
「……私の好きな和晃君はどんなに無茶なことでも猪突猛進な人間だから」
「――――――」
「……私のためにも、行ってほしい」
若菜ちゃんはきっと俺なんかよりもよっぽど凄い人間だ。好意を打ち砕かれたというのに、その相手に向かって笑顔を向けることが出来るのだから。
――行け。
「――分かった。比奈の所に行って、全てぶちまける。それで、全て終わらせる」
「……うん」
若菜ちゃんは馬鹿で情けない俺なんかを送り出そうとしてくれている。
――――行け。
身を翻して、まだ見えない目的地の方角を見る。小走りで公園を抜けて、そこで一回立ち止まり、若菜ちゃんに声をかける。
「こんな結末になっちゃったけど……俺、凄く嬉しかった。君みたいな強くて可愛い子に惚れられて、俺は幸せ者だった! だから、感謝してる。ありがとう!」
最後くらいは笑顔を見せようとニッと笑った。
――――――行け。
若菜ちゃんは俺のことを見ると視線を地面に向けた。彼女の前髪が下りて表情が何も見えなくなる。
「――和晃、君」
彼女に背を向けて俺は振り返ることなく、比奈の元へと走り出す。
もう俺は迷わない。逃げない。少なくともこの時だけは。彼女の想いに応えるためにも。
「行っけえ――――!」
行け――――!




