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七話「アイドルに恋した青年と青年に恋したアイドルの物語」

<side Iga>


「君の方から誘ってくるなんて珍しいね」


「そうかしら? 昔も私のほうから誘ってたはずよ」



 そうだったけか、なんて言いながら彼女の隣に腰掛ける。

 ここは昔から立ち寄っていた小さな居酒屋。まだ若い頃、僕たちが二人で会うときは決まってここだった。



「今日は何の用だい? 何の用件もなしに誘ったわけじゃないだろう?」


「別に深い意味はないわよ。比奈が大きな仕事を取ったから、その祝い酒ってやつよ」


「なるほどね」



 僕は店員にビールを頼む。



「それに最近こうしてゆっくり話せる機会もなかったもの。だから久々に、ね」


「ここ最近忙しかったからね」



 つい先日比奈ちゃんはライブを開催した。その準備とやらで彩もかなり動き回ってたらしい。



「そうなのよ……」



 それを皮切りに、僕たちは近況を話し始める。僕も彼女も話すこと、話したいことは多く、ひたすら喋り続けた。

 そして今回もまた彼女と話していると楽しいなと自覚する。彼女と言葉を交わす度に同じ事を思い、その気持ちは回数を重ねる毎に強くなっていく。



「そういえば比奈の憧れのアイドルって私のことらしいわ」



 気が付けば比奈ちゃんや和晃君の話題に移っていた。



「ああ、聞いたよ。二人とも色々調べたらしく、僕のところにきた」


「あらそうなの? 何か話した?」


「何も話してないよ。話したらきっと嫌な思いをさせるだけだろうし」


「紘平はそう感じたのね。私はどちらかというと、あの二人なら何か感じ取ってくれると思うんだけど」



 確かにあの二人なら嫌な思いをするだけでなく、それとは別の何かを汲み取ってくれるかもしれない。でも、だからって自分から進んで話すようなことでもない。



「まあ、あの二人のことだ。何かしらの方法を使って調べてきそうだ」


「好奇心と執着心って似てるわよね」



 彩はくすりと笑う。彼女は特に意識してないんだろうけど、僕にとっては妖しい魅力を持った笑みだ。



「それにしても憧れのアイドルか……。私も昔はそういった純粋な気持ちを持ってたはずなのよね」


「それは君だけじゃない。僕もだよ」



 まだ何も知らない、純粋無垢だったあの頃。こうして年を取った今はあの時のようにただただ明るい未来を想像することは出来なくなった。



「懐かしいわね」


「うん」



 僕たちはしんみりとした気持ちになる。そしてゆっくりと……過去の事を思い出していった。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 僕が彩と初めて会ったのは高校生の時だった。

 彩は学年の中でも度々話題になる美少女で、他学年にも目を付けられていたという。

 ただのクラスメイトだった僕が学校のアイドルと仲良くなったのは、クラスの親睦を深めるための遠足で偶然同じ班になったからだろう。

 その遠足で会話を交わし、彼女もテレビが好きでよく見ていることを知った。テレビ大好きっ子な僕と話があったというわけだ。

 それを機に彼女とはちょこちょこ話すようになって、ある日僕は思い切って、



「いつか芸能人を間近で見たい、話してみたい。だから僕はテレビ関係の仕事に就きたいなって思ってるんだ。変かな?」


「そんなことないわ。むしろ素敵だと思うわよ」



 そう言った彼女はどうしてかソワソワしていて、チラチラとこちらを見て何か言いたそうな顔を浮かべた。



「もしかして同じようにテレビ関係の仕事を目指してるとか?」


「そういうわけじゃないんだけど……伊賀君。聞いても笑わないでね」



 そして彼女は彼女の夢を口にした。アイドルになりたい、と。

 彼女は頬を染めて恥ずかしそうに言っていた。僕はそんな彼女に「恥ずかしがる必要ないよ。素敵な夢じゃないか」と絶賛した。

 この時、自分のことを認められた彼女は笑顔を浮かべ、僕はそんな彼女にドキドキしていたことを覚えている。


 それをきっかけに僕と彩の交流は更に活発になった。好きな芸能人の話、昨日の番組の感想、一緒にアイドルのライブに行って二人で興奮したことなど、ここでは語り尽くすことの出来ない思い出達。


 僕達が付き合い始めるまでそんなに時間はかからなかったと思う。

 高校生の間は高校生らしい付き合いの範疇を超えることはなかった。どこでも聞く、当たり前の青春だった。



 高校を卒業した後、僕達は夢に向かって本格的に努力を始めた。僕はテレビ関係の仕事を学べる専門学校に、彩は養成所に通いながら大学で勉学に励んだ。

 とはいっても僕達はまだ学生で、時間が取れる限り頻繁に会い、気力を養い、互いに切磋琢磨した。

 行きつけの小さい居酒屋に行くようになったのもこの頃からだろう。



 状況が大きく変わっていったのは僕達が「学生」を卒業し、「社会人」になってからだろう。

 僕は何とかテレビ会社に就職することができ、慣れない仕事に戸惑いながら日々を過ごすようになる。

 彩の方は在学中に事務所に所属できたみたいで、少ないチャンスをものにするためさらに努力を重ねることになる。

 しかし学生の頃とは違い、上手くいかないことも多々あった。僕も仕事で忙しくなり、彩もプライベートに時間を割く余裕はなくなっていった。

 どうにか時間を取って逢うことはあっても、やはり楽しい話題ばかりではなく、仕事や現状に対する鬱屈、そして互いへの不満の言い合い。喧嘩だって何度もしたし、時には別れそうになったこともある。

 それでも僕達を繋ぎとめていたのは両者共通の野望だろう。



「もし、私が有名なアイドルになったら紘平とテレビ局で会えたりするのかしら」


「会えるんじゃないかな。ただ堂々と話すことは出来ないと思うけど。あくまで出演者とスタッフという立場で」


「それでも構わないわ。同じ建物で、別の立場で働いてる。それって私達にとっては夢が叶った証じゃない。そこに二人揃うことが目的なのよ」



 そういった会話を交わしたのは夢が明確になり始めた頃の話しだ。

 それ以来、僕達にとってそれは野望となり、目標となり、そして目指すべき夢になった。


 

 伸び悩む彩に光明が差し込んできたのは社会人になって数年経った頃だ。

 ある一つの仕事をきっかけに少しずつ注目されるようになっっていったらしい。

 最初は堂々と会って、祝い酒を呑んだりした。それ以降はどんどん逢引のような形に変化していった。ただ逢引の初期の頃は、



「有名になりたいからって枕仕事を仄めかさないで欲しいわ。私はそんなこと絶対にしたくない」


「あの中年親父、私のこといやらしい目で見て……それだけならまだしも、お尻に触ろうとしてきて……」



 彩は酔うと結構大胆な性格になって、そんな不満を爆発させていた。そんな彼女を宥めるのが僕の役目だった。

 だけど彼女の不満が少なくなっていくと同時に、僕達の逢瀬の時間もどんどん減っていった。その代わり彼女は確実に有名になっていき、地位を確立していった。

 彼女に逢えなくなっていくのは悲しいことだったけど、それが僕達の望んでいたことだから、僕は構わなかった。

 僕は着実に仕事をこなし、彩といつか同じ職場に立つ。……それに彼女の活躍は簡単に分かったから、それが余計僕の活力にもなっていった。


 ライブもこなし、CDの売り上げも、曲を出す度にトップ十に入るようになるなど、彼女の進展は目に見えてわかった。

 そして何とか僕も仕事を続けることが出来て――ついに彼女とテレビ局で会う夢を果たすことが出来た。

 

 その仕事の帰り、番組のスタッフと出演者で打ち上げに行くことになった。

 彩は夢を叶えたからなのか、それはもうテンションがおかしなことになっていて、酒豪のスタッフすらおお、と賛嘆する程の飲みっぷりを見せた。

 その果てに行き着く果ては……まあもう見てられないことになっていた。

 で、彼女を誰が介抱するかって話になったわけだ。彼女と帰りの方面が同じなのは僕だけで、彩の面倒は僕に任された。

 狙ったわけじゃないんだろうけど、上手いこと二人きりの時間を作れたというわけだ。



「あははー、紘平と二人きりだー」


 

 ……最愛の彼女はこんな調子だけど。

 ようやく夢を叶えたね。そうね。そんなロマンチックな展開を予想していた分、落胆があったのは言うまでもない。

 とにかくまともに会話できる状態ではなく、今宵は彼女を無事送り届けようというのが第一に考えたことだった。



「ねえ、紘平ー。どこ行くのよー?」


「大人しく帰るだけだよ」


「えー、久しぶりの二人きりなのよー寂しかったのよー」


「はいはい」



 適当にあやして帰ろうとするも、



「まだ帰るのは早いわよー。あそこに入りましょう、あそこ」



 だらしなく腕を上げてある建物を指差す。いわゆるラブホテルというやつだ。



「駄目だって。君はアイドルなんだ。誰かに見られでもしたら……」


「アイドルでも恋愛したっていいでしょー。ほら行きましょうよー。最近ご無沙汰だったんだし、紘平も期待してるんじゃないのー?」


「世間では清純派アイドルと言われてるのに、とてもそうは見えない……」


「据え膳食わぬは男の恥よー」



 とまあ、酔いに酔った彼女に振り回されながらもどうにかこうにか帰宅することはできた。当然、この日は彩と夜を過ごしたりはしなかった。

 けど彼女がここまで変貌したのも、嬉しさ故にだろう。多分。嬉しい日ぐらいこうしていつもの枷を外すのもいいかもしれない。

 彼女がこんなに酔ってなかったら、僕ももっとはしゃぎたかったんだけどな。

 でもこれからこういう機会はどんどん増えていく。僕達は夢の先へと歩んでいくことが出来る――と、この時まではそう信じていた。



 異変があったのはそれから数日後だった。なんと週刊誌で彩のスキャンダルが発覚したのだという。

 僕は慌ててその雑誌を購入した。そこに載っている写真には確かに彩が写っていた。その隣には――



「――僕が、いる」



 酔っ払った彼女に肩を回し、歩いている写真。あの日、彼女が指差したラブホテルが写真に写りこんでいるのが何よりの証拠だ。

 事情を知らない人たちから見れば、どう見ても密会を重ねた後にしか見えない。

 あの日、僕達は誰かに撮られたんだ。冷静だったようで、やはり僕も浮ついてて、すっかりそういったことが頭から抜けていた。

 迂闊だった――……。



 その日以降、僕の生活はガラッと変わった。

 どこから嗅ぎ付けてきたのか知らないが、僕の家の前にはマスコミ達が張り付くようになった。

 会社からも指示がきて、しばらく謹慎してろという話になった。


 思ったように外に出れなかった僕は中々彩の情報を手に入れることは出来なかった。

 しかし僕ですら身動きがまともに取れないんだ。彼女の方はもっと大変なことになっているはずだった。



『一応、記事の否定はしてるんだけどらしいけどな。マスコミは取り合ってくれないらしい』

 


 外の情報源は部屋のテレビと会社の同僚から主に得ていた。



「否定も何も、番組のスタッフは僕と彼女が一緒に帰っていったって知ってるじゃないか。それをきちんと言えば……」


『あのなあ、紘平。確かにあれが捏造だってのは俺だって知ってるよ。けどなあ、一介のテレビ関係者が何言ったところでマスコミさんは引き下がってくれないよ。まだアイドルの本人が否定したほうが真実味がある』


「……僕を疑ってるのか?」


『俺は疑ってねえよ。お前が簡単に手出す人間じゃないって知ってるしな。けど上の連中に疑ってるやつは少なからずいる。それも悪いほうに働いている』



 スタッフ達は一緒に帰っている事実を知っている。が、その後何が起きたかは彼らは知らない。彼らは、僕と彩が皆と別れた後、共に夜を過ごしたと考えているらしい。

 被害者として当然怒りはあるけど、言葉は証拠にならない。あるのはあの日の夜の一枚の写真だけだ。とにかく騒ぎがくすぶるのを待つしかない。


 しかし炎上は中々冷めず……それこそ最初よりかは張り付くマスコミの数は減ったが、外に数人カメラやペンを手にした人間がいる。

 そんな時、彩から電話がかかってきた。



「……彩? 彩なのか!?」


『ええ、そうよ。なんだかひどく懐かしく感じるわ』


「僕もだ」



 つい先日顔を会わせたばかりだというのに。それほど状況が激しく変化してしまったのだ。



「そっちは大丈夫か? 何か変なことされたりしてないか!?」


『……ええ、大丈夫よ』



 しかし彼女の声は弱々しい。無理してることがバレバレなんだ。



『……ごめん、紘平。時間がないの。話したいことはいっぱいあるのだけど……それにもしかしたらこの通話も盗聴されてるかも』



 盗聴。その単語を聞いてゾワッと寒気がした。

 そんなことをするやつがいるのか? アイドルが不祥事を犯しただけで、そこまでプライバシーを詮索するやつが……。



『だから大切なことだけ言うわ』


「わかった」



 彼女が切羽詰ってるということは十分に伝わっている。彼女のためにも会話を引き伸ばすべきではない。べきではないのだが――彼女の次の言葉には反論せざるをえなかった。



『私――アイドルを引退するわ』


「な――」



 何を……言ってるんだ?



「アイドルを引退って、それって……」


『言った通りの意味よ。これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいかないもの』


「迷惑ってそんな……アイドルになるのは君の夢だったんだろ!?」



 思わず叫ぶ。叫ばずにはいられない。



『そうよ。一時の間だけだったけど、確かに夢は果たせたわ。あなたと同じ職場に立つことも出来たしね。私は満足してるわ』


「駄目だ! まだ君の夢は始まったばかりだろ!? 僕に構う必要なんかない。君は君の夢を――」


『もう、無理よ』



 彼女は声を落として言った。



『ただ仕事が減るだけならまだやり直しがいったのだけど……それでは収まらないぐらい騒ぎは大きくなっているの』



 ふと、会社の同僚が「あの子には怪文書みたいなものが送られてきてるなんて噂もあるんだ」と言っていたことを思い出した。



『これ以上続けても、低迷を続けるだけで自然と消えていくしかないわ。だったらまだ影響力のあるうちにどうにかしないと』


「どうにかって……」


『引退宣言をすればマスコミ達の興味もそちらへ回るはずよ。スキャンダルがその原因ってことになりそうだけど、そこは任せてほしいの。一応、私も芸能人だからその手のツテはあるわ』



 彼女は何をしようとしているんだ。わからない、わからない。



「何だよ、それ。まるで君が生贄みたいじゃないか……」


『……そうかもしれないわね。私を犠牲にしてあなたを助ける。あなたは私と違ってきちんとした道が続いているわ。その道をここで閉ざしてはいけないわ』


「待て……待ってくれ」


『だから私が辞めた後もあなたは自分の夢を追いかけて』


「それ以上言わないでくれ!」



 こんな、こんなあっさりと、何の抵抗も出来ずに終わってしまうのか。志半ばで夢が絶たれるというのか。

 それでいいのか。このまま終わらせてしまっていいのか。

 いいわけがない。いいはずがあるか。こんなところで僕達が足止めしていいわけなんかない。

 じゃあどうする。どうすればいい。考えろ、考えろ。全神経を脳に集中させろ。過去を思い出せ。そこから導き出されることはないか。ほんのちょびっとの穴さえ見つかればいいんだから……!

 そして思考の末に導き出された一つの結論。



 それは――僕達の関係をばらすこと。



 だが僕達の関係をばらしてどうする。ただ炎を焚きつけるだけじゃないのか。

 でも僕達が最初からきちんとした恋人関係にあったとすれば納得してくれる人間はいるのではないか。

 いやいや、そもそも今更ばらしても信じてくれるのか。狂言と思われるのではないか。


 否定。肯定。否定。肯定。否定、否定否定否定――……。



『紘平。……もう時間がないわ』



 考えて考えあぐねて、タイムリミットが来てしまった。



「待て。待ってくれ。ほら、考えてみろよ。君が辞めても僕たちは付き合ってるんだ。縁が途切れることはない。僕たちは何があっても繋がってるんだ。だから考えよう。二人で考えればきっとどうにかなる。だから……!」


『そうね。私が辞めても私達の関係は付きまとうわ』



 だから、と彼女は前置きをして、



『別れましょう――伊賀』



 彼女は僕のことを苗字で呼んだ。それは彼女からのはっきりとした断絶の証。ただのクラスメイトだったあの頃の関係に戻ったのだ。



「あ……や。そんな。僕は、僕は――!」


『さようなら。愛してるわ、紘平』


「彩! 彩? 彩――!」



 彼女は愛してると言い残して電話を切った。

 最後、僕の名前を呼んでくれた時の彼女は涙声になっていたことが記憶に残っている。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 彩が一体どんな手段を用いたのかはわからない。

 けど家を出た僕に待っていたのは、スキャンダル前の日常の光景だった。それに彼女のスキャンダル事件をどんなに調べても僕の名前が出てくることもなかった。

 帰ってきた。僕は望んでいた元の日々に戻ってきたのだ。

 なのに――僕は全てを失っていた。



 会社に復帰もし、周囲も落ち着いてきたところで僕は彼女に連絡を試みようとした。

 しかし前の電話番号に掛けても電話に出てくれない。彼女の友人に訊ねてみてもさあ、というだけだ。

 残された最後の道は……。



「あの、もしもし。何度か挨拶したことがある伊賀です」


『……あれま。伊賀君? 良かった。無事だったのね。心配したわよ』



 彩さんのご両親だった。学生の頃、何度か顔を会わせたことがある。



「はい。その節はご迷惑をかけてすいませんでした」


『無事ならいいのよ……無事なら』



 彩のお母さんは声に含みを持っていた。



「それであの……失礼ですが、娘さんの消息を知っていますか?」


『それがねえ。詳しくは知らされてないのよ。この前一度だけ連絡があって、事務所を辞めたと言っていたのだけど』


「そう……ですか」



 両親には連絡先ぐらい伝えたのかと思ってたが、そう甘くはないか……。



「忙しいところ、失礼し――」


『あ、その、ちょっと待ちなさい』


「何ですか?」


『あの……本当は言うなって言われてるのだけど……』



 何だ? まだ何かあるのか?



『それに言われない方がいいのかもしれないけど、私はこの事を隠す気にはなれないわ。あのね、実は彩はこうも言ってたの。伊賀君から電話がかかってきても、何も教えるなって』


「な――」



 彩がそんなことを? 何故? 何のために? そこまで徹底して消息を絶つつもりなのか!?



『私は伊賀君と彩の身に何があったかはわからないわ。だから二人のことに口を挟む気はないのだけれど……多分、娘はとても傷ついてるわ。言い方は悪いかもしれないけど、立場上あなたよりも……。伊賀君の意思を汲み取ってあげたい気持ちもあるの。でも今は親として娘のことが心配なの。だから……しばらくの間、娘をそっとしてあげて欲しいの。娘の傷がいつ癒えるかはわからないわ。けど、彩の意思がないかぎりは伊賀君には彼女と関わってほしくない』



 それは悲しい懇願だった。娘を想う親として当然の言葉だ。

 彩はこれを想定して何も教えるなと釘を差したのだろうか。今になってはもうわからない。



『ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……!』


「関わってほしくない相手に、そんな謝らないでください。大丈夫です。僕も……もう大人ですから。子供じゃないんです。お母さんの言ってることぐらい理解できているつもりです」



 そう優しく諭しても、彼女の謝罪が終わることはなかった。

 苦々しく尾を引いて、彩の親との通話を終えることになった。


 彩の消息は完全に絶たれた。彼女の親に対する意図もわからない。

 ただ一つわかることは――もうどうにもならないということだった。



「どうして……こんなことになったんだ……」



 背中に壁を預け、ずるずると下がっていく。


 だって、夢が叶ったんだ。目標を達成できて喜ばないやつがどこにいる。喜んで浮かれて、それが仇となって坂道を下るはめになるなんて、誰が予測できるか。

 何がいけなかったのが。誰が悪いのか。どこで間違えたというのか。

 わからない。わからないわからないわからない。

 でも、一度だけチャンスはあった。僕たちの関係をばらそうと考えた時だ。

 あの時、自分でもほんのちょびっとの穴でもあれば、と思っていたのに。大人になって慎重になってしまった僕は先のことを考えすぎて、決断を下せなかった。

 実行していたら今より酷い状況になってたのかもしれない。けどそんなのは実際にやってみないと判断がつかない。


 僕は何もせず、この結末を迎えてしまった。たった一つの儚い希望を自ら切り捨てて。



「……畜生…畜生……」



 残ったものは罪悪感、不快感、後悔といったものだ。



「ああ……ああああああああああああああああ」



 それは叫んだという言葉では到底済ませられるものではない。咆哮した。理性の欠片も感じることのできない、見苦しい絶叫だ。



「うああああああああああああ!」



 壁を、床を、叩く。暴れまわる。破壊衝動に駆られる。

 どうでもいい、どうでもいい。壊せ、壊せ壊せこわせこわせ――! 



「がああああああああああ!」



 ただ本能のままに動く。周りから見たら僕は山で育てられた獣に見えただろう。

 


「うおおおおおおおおお!」



 もう何もかもがどうでもよかった。ずっとずっとこうしていて、僕というものを全て壊してしまえ――!

 なのに、それなのに、



「う……あ……あああ……あああああああああ!」



 タンスの上にある一つの写真入れ。それは学生の頃、お金を貯めて二人で旅行に行った時の写真だ。僕と彩はこれ以上ないくらいの笑顔で笑い、手を繋ぎ、くっついている。


 どんなに自暴自棄になっても、壊すことの出来なかった物。

 それは僕と彩の思い出と、僕の彼女への想いだ。


 無様に涎と涙をたらし、血だらけの指で写真入れを撫でる。それはかつて彼女の髪をそっと撫でた時のように。



「僕も――愛してるよ、彩」




◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 僕というものをほとんど失った中、残ったものは数える程しかない。

 そのうちの一つは別れる前、彩に言われた「あなたの夢を追って」という言葉だった。

 僕は一心不乱に仕事を続けた。そうして年月を重ねていき、少しずつ後悔や罪悪感というものは薄れていった。それらが完全に消えることはきっとないのだろうけど。


 

 ある日のことだ。いつものように仕事に励む僕に上司がこんなことを言った。



「新しい事務所の方が挨拶にきたんだが……伊賀君に会いたいと」


「僕に……ですか」



 何なんだろうか。それなりにいい地位を得たのだけど、普通の会社であるなら中間管理職といわれる立場だ。

 そんな僕に会いたい人とはおかしな話だ。


 客人が待っているという部屋に入る。そこには、



「あ……や……?」



 一目見て、部屋にいた女性が彩であると見抜いた。



「あら、元気そうね。久しぶり、伊賀」



 彼女は彼女で何年ものブランクを感じさせない普通すぎる対応だった。



「何で、君が……?」


「疑問は尽きないと思うわ。けどこっちは仕事で来てるから。プライベートな話はなしよ」


「あ、ああ……」



 驚きのあまり、言うがままに事を進められてしまった。

 話の内容は珍しいことじゃない。新たに事務所が立ち上がり、商談をするために彼女はここに来た。そしてここでもお世話になるかもしれないから、その時は協力してね、と。

 凄く淡々と話されて、口を挟むことが出来ぬまま終わってしまった。



「さて、以上よ。事務所に戻らないと……」


「え、ちょ、ま、待ってくれ」


「伊賀」



 焦る僕に彼女は、



「今日飲みに行くわよ」



 なんて言ったのだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「よく一発で私と見抜いたわね、紘平」



 行きつけの居酒屋で彼女と合流した際の第一声はそれだった。



「そりゃ当たりま……」



 と言いかけたところで気づいた。

 

 彼女の顔の形が変わっていることに。



「……整形、したのか」


「……ええ」



 含みのある返答。それは整形をした背後に様々なことがあったことが連想できた。



「紘平、先に言っておくわ。今日だけじゃなくて今後も……私達に何があったかは詮索しないでおきましょう。今日はただ再会できたことを祝いましょう」


「……君がそれを望むなら」



 この数年間、僕にも色々あったように、彼女にも色々なことがあったのだ。

 それはきっと僕なんかじゃ想像もつかないような壮絶な過去だろう。

 彼女はその過去を僕に語りたくはなかったのだ。


 僕たちはその日、色々なことを話しつくした。

 現在のこと、そして僕らが付き合っていた頃の話、空白の過去の中でも楽しかった出来事、そして未来のこと――。

 今まで失っていた時間を取り戻すかのようだった。



「あの後、誰かと付き合ったりはしたのかい?」


「いいえ」


「そうか。なら……その、もう一度やりなおしてみないか?」



 思い切って僕はそんなことを言っていた。

 彼女は持っていたグラスを静かに置いた。二人の空間に氷がカランと鳴った。



「そうね。それが出来たら嬉しいのだけれど。でも、駄目よ」



 彼女はやんわりと断った。



「私もあなたも違う立場にいるわ。もうあの時とは違う。私と紘平が付き合っていたのはもう昔のことなのよ」


「ああ、わかってる。でも立場が違うからこそ、もう一度出来ることがある。だから――」


「伊賀」



 彼女が僕を苗字で呼ぶときはきまって僕を制する時だ。



「もう私達も子供じゃない。大人なのよ」



 そのわかるようでわからない理由は、とても心に響くものがあった。

 細かい理屈はわからない。なのに、僕はその言葉に全て納得してしまった。



「そうか。残念だ」



 僕はグラスの中身を一気に飲み干した。




「今度、うちの事務所からデビューする子がいるのだけど」



 帰り道。フラフラになった僕を彼女が支えてくれていた。



「香月比奈って名前でね、彼女もアイドルに憧れて養成所に入ったらしいの」


「昔の君みたいだ」


「そうね。だから私は彼女に私の叶わなかった願いを叶えてほしい。そう思っているの」




◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 僕と彩が再会してからざっと一年以上経った。最初は混乱もあったものの、今ではプライベートと仕事で対応を切り替えることも可能になった。

 彩の事務所からデビューした比奈ちゃんも順調に勢いを増していった。

 それはかつての彩を見てるようで、純粋に彼女のことを応援できていたのだけど……困ったことになった。



「ああ、もうどうしてこう上手くいかないのよ……!」



 再会してからは珍しく酒が入っている彼女だった。



「スキャンダル、スキャンダルって……!」



 比奈ちゃんが対面してる出来事とはスキャンダルだった。

 ここでもまたスキャンダルだ。僕と彩の人生を変えてしまったもの。比奈ちゃんもそれに直面しているというわけだ。



「どうにもならないわけ?」


「なるわけないでしょ……! それは私とあなたが一番わかってるじゃない……!」



 いやそうだけども。そこまであっさりと言われるとは。

 けど彼女の言ってることは事実だ。何をしても破滅に追いやられるのが「スキャンダル」だ。



「……いや、待てよ」



 思い当たる節があった。

 昔、僕が決断できなかったある方法。一か八かの賭けだ。



「何かあるの?」


「ああ――」



 それが、僕達の意思を継ぐ子供達の救済となり得るかもしれない。

 僕は言う。






「公開恋愛だ――――」






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