六話「立ちこむ暗雲」
「香月さん、おはよー」
「おはよう」
比奈の級友への挨拶は歓迎会の前と同じ作り笑いと共にあった。平常時ならばどうしてまた演じているんだとお節介をかけたかもしれない。だが、今回ばかりは事情が事情なので言及するつもりはなかった。それどころか今の心境で一見元気に見える笑顔を浮かべられるのは流石といえる。
比奈が席に着いたのを確認して、俺は彼女の席に向かう。
「連絡はあった?」
「ううん、今日も来てない。あのメールが最後だよ」
あ最高の一日で締まるはずだったのに、最悪の形で終えた一日。あれから三日程経過した。
あの日の翌日に比奈は恵ちゃんに連絡をとろうとした。当日連絡しなかったのは、少し落ち着いた時の方がいいと判断して翌日に回したからのようだ。
恵ちゃんから連絡があったのはそれから数時間後のことだった。メールが一件。内容は「心の整理が出来たら話すから、その時は連絡する」の一文のみであった。
それ以来彼女から連絡はまだ来ていない。俺達はモヤモヤしながら彼女から通知が届くのを待っている。
「やっぱりそれぐらいショックだったってことだよな……」
「うん……」
気分はどんどん沈んでいく。
「とにかく今は待とう。辛いのは恵ちゃんの方だろうし、俺達が落ち込んでるわけにはいかない」
「そうだよね。私たちが支えになってあげないと」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
しかし明るい気持ちになることはないというのが事実であった。それでも表面上はいつも通り振舞おうと俺も比奈も猫を被って過ごしている。
こういう時のために演劇部に入っていてよかったと思う。失礼な話ではあるが。
「今日も一日来なかったか……」
放課後。彼氏彼女のフリのためにもこうして一緒に帰る。しかしそれは建前で、皆とわいわいやりながら帰る気分じゃないだけだ。
「結構かかるかもしれないね。私もあのまま芸能界を追い出されていたら、きっと何日も……もしかしたら何週間、何ヶ月も引きずってたかもしれないから」
比奈は同じ立場としてわかるのだろう。俺も恵ちゃんのの深刻さにはあの公園でのやり取りや表情である程度理解しているはずだった。
それ故に待たされてる側の心境は辛い。どんなに相手が疲弊していようと顔を見れば多少は安堵できるはずだ。それに根本から助けることは出来なくとも、傍に居て慰めたり、苦しさを和らげることができるかもしれない。だからこそ今この状況はむず痒かった。
校門に差し掛かる。そこに男女の二人組がいた。二人組の片方――男の方は知人だった。演劇部期待のホープであり、俺が苦手としている人物、黒瀬祥平だ。そしてもう一人は一度だけ見たことのある顔だった。比奈を部室に案内した時、比奈を凝視してから目を逸らした少女だった。あの子、祥平の彼女だったか。
このままだと嫌でもすれ違う。今日は部活に来てくれってお小言は勘弁してほしい……。もし何か言われたら彼女いたのか、とからかって誤魔化すしかないか?
祥平の隣にいる女子生徒をもう一度見る。綺麗な人だ。キリッとした顔立ち、肩甲骨まで伸びた髪に肩にかかる程の長さのツインテール。恵ちゃんは細長いツインテールで、腰まで届いているが、彼女の場合はふさふさした短く太いツインテールである。年齢以上の大人びた雰囲気を持つ女の子だった。
しかし祥平もこんな美人を彼女にするとは中々やるな。ただその美人の彼女は前と同じように比奈を凝視している。
チラリと比奈を見るとその女生徒と目を見交わせ、驚愕の表情を浮かべていた。
「彼女、比奈の知り合いか?」
比奈に訊ねる。
「なんで……なんで梨花がここに……?」
様子がおかしかった。彼女が人を見てここまでうろたえるなんて初めてじゃないか。
祥平の彼女はグッと拳を握り締めると祥平と言葉を交わす。次にこちらにやってくる。最後に祥平に向かって手を振っていたのを見ると俺たちとそれなりの時間会話をするつもりのようだ。
「……勇気が中々出なくて遅い挨拶になってしまいました。比奈さんが来てたの知ってたのに声をかけなくてすいませんでした。だから、あの……お久しぶりです、比奈さん」
キリッとした彼女の声は見た目通り凛としていた。はっきりよく聞こえて、聴いてて気持ちいい声だ。
「うん……久しぶり。梨花は元気にしてた?」
目の前の美人は梨花という名前らしい。しかし比奈さんに梨花、か。二人は一体どんな関係なんだ?
「はい。楽しく過ごしてますよ。比奈さんは……まだ芸能界で活動しているんですよね?」
「ありがたいことに何とかまだ、ね」
「そうですか……。私たちと違ってまだ頑張っているんですよね」
梨花さんの言葉に比奈が反応した。
「……うん」
「比奈さん、忘れないで下さい。私が、私たちがいたことを」
「そう……だね……」
比奈は明らかに元気を失ってきている。今の精神状態で追い込むのはやばいかもしれない。助け舟を出した方がいいだろう。
「えっと、梨花さんでいいんですよね? 実は今日、彼女調子悪くて……急いでるんで話があるならまた今度にしてくれませんか?」
「あれ、そうなんですか。でしたら引き止めてごめんなさい」
「ううん、気にしないで。梨花の姿が見れて嬉しかったよ」
「私もです。比奈さん、お大事に」
会話を済ませると比奈を連れてそそくさとその場を離れた。
梨花さんが見えなくなった所で移動を止めて比奈と向き合う。
「カズ君、ありがとう。私を想ってああ言ってくれたんだよね?」
「ああ。見ててあまり良い感じには見えなかったから。……これで良かったんだよな?」
「うん、助かったよ。もしかしたら今一番会いたくなかった人と会ったかもしれないから……」
比奈は俯き力のない声を出した。。彼女が会いたくないなんてよっぽどのことだ。
「比奈と梨花さんってどんな関係なんだ?」
「私が一度複数人のグループで活動してたって話覚えてる?」
「確かあまり人気が出なくて、解散したってやつだよな? 一人辞めたっていう話も……」
何となく分かってきた。梨花さんのことでこの話が出てくるってことは。
「梨花は――その辞めた一人なの」
◆ ◇ ◆
恵ちゃんから比奈の携帯に連絡がきたのは、さらに一日経ってからのことだった。「心配かけてごめん。この前の店で待ってるね」と書かれていた。詳しい話は直接会ってから、ということだろう。
学校が終わると俺たちは恵ちゃんと食事をしたファミレスに急いで向かった。彼女は既に到着していたようで、
「あ、比奈とお兄ちゃん」
と普通に声をかけてきた。
俺たちは恵ちゃんに向かい合うように座る。彼女は何ともないように振る舞おうとしてるようだが、明らかに元気がなく、目元が赤く腫れていた。
「この前はごめんね。あの時はまだ気が動転してて……」
あの日、恵ちゃんは受けたショックにより雨が降っているにも関わらず街を彷徨っていたらしい。公園に辿り着いた所で偶然俺たちに見つかり、そこからは知っての通りだ。
「あの日は超重要なオーディションでね、マネージャーとかもフォロー出来ないようなミスをやらかしちゃったんだ。まだ細かいことを話せる程元気じゃないから……ごめんね」
あはは、と恵ちゃんは渇いた笑いをする。見てて痛ましかった。
「……大変だったんだね」
「そうだね。もう少し気楽にしてればよかったかも。緊張しちゃって自分が自分じゃないようだったから」
「うん、うん」
比奈は恵ちゃんのの言葉を真摯に受け止めている。少しでも彼女の苦しみを背負おうとしているように見えた。
「でもやっぱりこうして顔を合わせてくれて嬉しいよ。私もカズ君もずっと心配してたから」
「本当にごめんね」
「ううん、気にする必要はないよ。私達に出来ることは少ないけど、出来る限りのことはする。楽になるのなら、話もいくらでも聞くから」
「ありがとね、比奈。私のために」
親友の言葉が嬉しかったのか、恵ちゃんの声に少し元気が戻る。
「それじゃ、話すね。あれから色々考えて私が出した結論を……」
恵ちゃんは胸に手を当て、絞りだすように言った。
「――私、もう夢を諦めようと思うんだ」
「え……?」
一番最初に反応したのは比奈だった。
「もう私、疲れちゃった。小さい頃からずっと養成所に通っていつか人気アイドルになるんだって夢見てたけど……いくら経ってもそんな気配がないし、折角掴んだチャンスも自分で棒に振っちゃうし。もういいかなって」
恵ちゃんの話はもっともだ。自分の追いかけたものがいくら追いかけても追いつけない辛さといったらない。しかも今回のことでさらに目標は遠ざかってしまった。仕方ない、と思える。
俺だって一度は壊れるぐらいに一つの目標に向けて突き進んだことがある。けれど疲弊して、途中で崩れ去った。似たような経験をしたことがあるから痛い程彼女の気持ちが理解できる。
「で、でも恵は人気アイドルになるって、夢を叶えるまで絶対に諦めないって言ったよね……?」
だが、比奈は俺と違う考えのようだ。恵ちゃんの結論に否定的だった。
「うん、言ったよ。言ったけど……無理なものは無理だよ」
「私は諦めるのはお奨めしない。私も似たような思いをしたことあるけど、こうしてデビューも出来たし、それにここで辞めたらきっと後悔するから、だからそれだけは……考え直してほしい」
比奈は恵ちゃんを必死に説得する。
「……比奈には私の辛さがわからないよ。いくら一度失敗したことあるからって、既に夢を叶えた比奈にはわからない。絶対に」
「そんなこと――」
「私は!」
恵ちゃんは大声で比奈の言葉を遮った。
「ずっとずっと比奈を羨ましく思ってた! 比奈は私が持ってないものを何でも持ってる。歌も上手かったし、演技だって上手いし、それに外見だって私なんかより全然スタイルも良くて、胸も出てて! それに何より、支えてくれる彼氏がいる! 私と比奈は全然違う! 比奈は恵まれてるんだよ! その事に比奈は気づかないの!?」
きっとそれは恵ちゃんの抑圧された本音だったのだろう。比奈は圧倒されてしまったのか、言葉を返すことが出来ていなかった。
……ここは俺の出番だ。
「比奈が恵まれてる、ねえ。――は、アホかよ」
突然の変化に驚いたのか比奈と恵ちゃんは俺を見ながら呆気にとられていた。
「――残念だけど、恵ちゃん。一つだけ勘違いしてるよ」
目をすっと細め、声を低くする。うすら笑いを浮かべ、わかりやすい悪者を演じる。
「比奈は彼氏に支えられてる? 違う違う。そう見えるだけだ。俺が比奈にそう演じろと命じてるんだ」
「な、カズく――」
ギロリと比奈を睨み、制止させる。すまない、比奈。今は俺に任せてくれ。
「比奈のスキャンダルの件はまだ覚えてるだろ? 俺は彼氏を装って、彼女を助けたフリをしただけだ。実際は俺が彼女を誘って、路地裏に連れ込んだ所をカメラに写されたってわけだ。……ま、面倒だったけどある意味ラッキーでもあったな。お前の夢をここで終わらせないために助けてやるから、俺に従順になれってな。まさかここまで簡単にいくとは思わなかったら拍子抜けだ。強い気持ちを秘めてるやつは扱いやすくていいもんだ。なあ、比奈?」
比奈の肩に慣れなれしく手を回す。比奈は俯きながら小さな声で「はい」と返事する。いい対応だ。よく合わせてくれた。
「いやあ、真面目で優しい男を気取ってたんだけど、恵ちゃんの言葉を聞いてたら笑いがこみ上げてきて、つい我慢出来なくなっちまった」
ニヤリと笑う。
さあ、どうだ。少し唐突感があるが、恵ちゃんが比奈に同情し、見方を改める、もしくは冷静になってくれることえ願っての行動だった。正直勢いに任せてしまった所もあるが。とにかく今は注目を俺に合わせてくれればそれでいい。諦めるという選択には文句はないが、比奈に当たるのは間違いだ。上手く矛先を変えることが今は先決だ。
――などと思っていたのだが。次の瞬間、俺は甘かったと思い知らされる。恵ちゃんの彼女に対する憎しみと嫉妬は遥かに大きいものだったと。彼女の夢への執着は一人の男の演技で揺らぐものではないということを。
「だから、何よ。お兄ちゃんが悪い男だったとしても、憧れのアイドルを続けさせてもらってるじゃない」
「……な」
「そんな境遇でもやりたかったことが出来てるなら全然いいじゃん! 見方を変えれば、やっぱり助けられてるし! それも見知らぬ男に!」
「恵、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられないよ! 私は比奈に憧れてた。尊敬してた。それと同じくらい、もしくはそれ以上に嫉妬してた。いや――」
なん……だよ。わからない。わけがわからない。一体、どういうことだよ! どうしてそこで比奈に向かって声を張り上げるんだ!?
ここに来て己の理解の範疇を超える。努力が実らないので夢を諦める、ということは分かった。恵ちゃんの真逆をいく比奈に嫉妬を感じるのも分かる。だが親友であるはずの比奈が悪い男に掴まされ、今なお無理矢理付き合わされてる――という状況でも恵ちゃんの態度は変わらない。むしろ悪化してしまった。
何故だ。どうしてそこまで夢を達成できている状況に憧れる? どんなに努力したって出来ないことは出来ないんだ。そのことを恵ちゃんは身に持って染みたわけじゃないのか。なら、向かうべき怒りは比奈じゃなくて俺に向けるべきだろう……?
俺には理解することが出来なかった。恵ちゃんの気持ちが。何一つ。
そして、恵ちゃんはとどめの一言を刺した。
「――私は、比奈が嫌いだった!」
場が静まる。
比奈は絶句している。肩を震わせ、信じられないような目で恵ちゃんを見ている。
「あ……」と恵ちゃんは小さく漏らした。自分が言った言葉の重みに気付いたのだろう。恵ちゃんは席を立ち上がり、逃げるように走り出す。
あの時と同じだ。雨が降り注いでいた公園で恵ちゃんと会った時と。違うのは、あの時と違って今回は恵ちゃんを追いかけるべきだったということ。
比奈は言葉を失くしているから、きっと俺が行くべきだった。けれど俺は動くことができなかった。
わからなかったのだ。恵ちゃんの気持ちが。夢の重みが。恵ちゃんを追いかけて、俺は何と声をかければいい? どうすれば良い方向に持っていける?
「……くそっ!」
拳をぎゅっと握りしめる。俺は無力だ。何もできない。何もわからない。努力を諦めた人間に彼女達の心の中を知る術はない。
外に立ち込めた暗雲はより一層濃くなっていく。




