一話「諦念」
13章は特別な表記が無い限り比奈視点となります。
文化祭が終わってからゆったりとした時間が流れていた。
……というのは私のように一般受験のない推薦組だけだ。
一般受験のある生徒達はとにかく勉強、暇があったら参考書を開くといった勉学一色の生活へとシフトしていった。
今の私達に出来ることは彼らの邪魔をしないこと、手伝えることがあったら手伝って、志望校を目指す彼らを応援することぐらいしか出来ない。なんとももどかしい。とにかく皆、頑張れ!
「おーい、比奈。一緒に帰ろうぜ」
カバンを担いで声をかけてきたのはカズ君だった。彼も私と同じ推薦組だ。私みたいに進学する高校は自由に選べないみたいだけど……。
私はクラスの女子に帰りの挨拶と激励を飛ばす。そっちこそ頑張りなよ、なんて返事を貰ってカズ君の下へと向かった。
「ライブもうすぐなんだろ? 調子はどうだ?」
「うん、いい感じ。調整も順調に進んでるし」
「はは、そりゃ楽しみだ」
カズ君は屈託のない笑みを見せる。
誰がどう見ても素敵な笑顔。けれど私はそんな彼の笑顔を素直に喜べないでいた。
崎高祭が終わった後の後夜祭で私はカズ君と二人でいた。
涼しい夜風に当たりながら私は彼の話を聞いていた。それは彼がここに至るまでの過去。それから現状に対する心情。そして……夢を見つけたという至上の喜びと、夢をもう追いかけることの出来ない非常な現実への嘆き。
私はあの時、高城和晃という人間を全て知ることが出来たんだと思う。
それからの日々、彼は元通りの彼に戻った。弱音も泣き顔も見せない、優しくて明るいカズ君に返り咲いた。彼はあの日を最後に未来を諦観し、現状を受け入れて立ち直ったんだと思う。
でも、あの日の彼を全て知る私にはかえってそれが苦しかった。見てて辛かった。今、私に向けてくれる笑顔も普段の振る舞いも何もかも虚栄を張っているんじゃないか。そんな不安が私を苛ませるのだ。
彼自身もきっと、自分が無理してることくらい自覚してると思う。しかし今更泣き喚いてもどうしようもないから、普段の自分を演じている。
この考えは全て私の妄想だ。合ってる、合ってないはともかく、彼からしてみれば迷惑極まりないことは考えればすぐ分かる。
それでも思わずにはいられない。彼の見つけた夢というものの重さを知ってるから、どうしても考えざるを得ない。
けど考えるだけで、彼に何かしてあげる力を私はもっていなかった。
彼はしきりに目前に迫ったライブの話をしてくる。
今の私は本来、彼の事に気を回している余裕はないはずだった。近日に行われる自身のライブに力を入れなきゃいけないから。彼が気にするのも当然。私だって本当はライブのことだけを考えて日々を送らないといけないって頭に言い聞かせてる。なのに……。
「じゃあな、比奈。また明日」
いつもの別れ道に着くと、彼は笑顔で手を振ってくる。
私はギュッと拳を握り締めて、思い切って言葉をぶつける。
「あの、カズ君!」
「ん?」
「カズ君は……それでいいの?」
あの日から何度も問いかけた疑問。しつこいことはいわれなくても分かってる。
カズ君は一瞬真顔になり、しかしすぐに苦笑を浮かべ、
「ああ、構わない。元はといえば俺の力不足が原因だからな」
――決まって同じ答えを言うのだ。
怒っていいのに。またかって呆れてくれてもいいのに。突き放すぐらい厳しく罵倒してくれてもいいのに。そうしてくれないと私はいつまで経っても同じ場所をグルグル回り続けてしまう。
何やってるんだろ、私。こんなことしてもカズ君を傷つけてしまうだけなのに。
どうしたらいいのか、自分でももうわからなくなっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「で、今回のライブはどうなりそうだ?」
「そうですね――」
彩さんが真面目な表情できびきびと言葉を発する。何しろ発言先は社長だ。緩むことなんて出来やしない。
私は今、H&C社の社長室にいた。今度行われるライブの進捗や利益なんかといった私が携わらない部分の大人の話を行っている。本来なら私は練習に時間を充てるべきだけど、彩さんに我侭を言って連れてきてもらった。
経営面について私が口を挟める場面はない。大人しく座って待つのみだ。
社長の傍らで会話の行く末を見守っている沙良さんも私と同じように黙っている。時折、彼女と視線が合うこともあった。
長い会談が終わると、彩さんが私の方に手を向けた。
「それと比奈が社長と直に話したいことがある……だそうです。よろしいでしょうか?」
「比奈君が? 私に一体何のようだ?」
「えっと……」
仕事のお話が終わった後に訊ねてみるわ、と彩さんは言っていた。実際こうして機会を与えてくれたけれど、どのように切り出していいか分からない。カズ君のことで話があるんです、なんて真っ向から言えるわけがない。
私が視線をウロウロしながら戸惑っていると社長が指示を出した。
「……沙良君。彩君を下の応接間に案内しなさい。彼女はどうやら私と二人で面談をお望みのようだ。終わり次第連絡する」
「畏まりました。彩様、私についてきてください」
「え、ええ……」
腰を上げた彩さんがチラリとこちらを見てくる。瞳が不安げに揺れている。私は大丈夫だよ、と薄く笑って彩さんを安心させようとする。彼女はどのように受け取ったか分からないけど、沙良さんについて部屋を出て行った。大丈夫、すぐに終わらせて戻るから。
「……話とは和晃のことか?」
私が社長の正面を向く前に訊ねられる。
「はい。……個人的な話で申し訳ありません」
「何、構わない。次の予定までまだ時間はある」
社長は立ち上がり、机の背後にある大きな窓ガラスから眼下を見下ろす。
「彩君は君と和晃の事情を知っているのかね?」
「いえ、彩さんには話していません。ですが薄々何かがあったということは感じ取っているはずです」
「なるほど。やはり、彼女は聡明だな。彼女を採用したことに間違いはなかったようだ」
社長は体を回転させ、室内の方に目を向ける。その目線の先には私がいる。
「和晃の近況はどうだ?」
「普通……だと思います。変に嘆いてもいないですし、平常を取り繕っているというわけでもないです」
「ならばあいつは吹っ切れたということか?」
「他の人から見ればそうだと思います」
私の言葉に社長が反応して片眉がピクリと動く。
「他の人は、か。比奈君は違うのかね」
「違うというより分からないんです。彼の本当の心が。苦しんだり落ち込んだり……ちょっと歪んでグレてくれた方がまだ分かるんです。けど、彼はあまりにもあっさりとしすぎてるっていうか……」
最近のカズ君の挙動におかしなところはない。笑う時だってちゃんと笑っている。
前々から宣告されていたから覚悟を決めていたのかもしれない。だから開き直れたのかもしれない。
けれど、辛くないはずがない。折角自分が心からやりたいことを見つけたというのに。それを掴んですぐ手放すことになったというのに。一切の弱さを彼は表に出さないのが私は怖かった。
「あいつは崎高祭の最終日で真にやりたいことを見つけた。確かそのように話していたな。だから君は和晃を心配してるのかね?」
「……その通りです」
そうか、と社長は小さく呟く。
「残念だが、私から助言できることはない。あいつのことを誰よりも知る君もこうして迷っているんだ。私なんかがあいつの隠している心を暴くことは出来ない。歯がゆいだろうが、今は耐え忍ぶことが適切じゃないのか?」
多分、社長の言うとおりだ。彼に出来ることは何も無い。ただ見守り、行く末を傍観することが唯一の選択肢だ。
けれどもし、もしも他にあるとしたら――。私は勇気を振り絞ってそれを口にする。
「あの……カズ君にもう一度チャンスを与えることは出来ないんですか?」
「ほう……?」
先程まで穏やかだった瞳に鋭い眼光が走る。何もかも見透かしてしまいそうな冷徹さがそこに篭る。刑事さんが事件の犯人をする時もこのような威圧感を放つのだろうか。
「確かに遅すぎたかもしれません。それでも彼はそれなりの結果を……主演を演じました。夢を見つけて一定の結果を出す。約束の定義はこうでしたよね? なら、それは満たされたと思うんです。彼は自由になれるはずじゃないんですか?」
それはお願いというより、請願だった。
「主演を演じられたのも元々の役者が事故に遭って、おこぼれを貰ったからだろう。それにあの日の劇が大成功を収めたのも、比奈君が出演して演技の平均レベルを跳ね上げたからではないか。元々君にはネームバリューがある。そもそも私はオーディションで主演を掴み取れと言った。あの日、あいつが主役になれなかった時点で彼の未来は決定したのだよ」
「ですが、酌量の余地は――」
「ない」
社長は少しの間も空けず断言した。
「分かっていないようだから教えてあげよう。和晃との約束はただの約束ではない。仕事上における契約のようなものだ。例えば、明日までに仕上げねばならない仕事があって、それに間に合わなかった。そのようなこと、社会ではあってはならないことぐらい、少し考えれば分かるだろう? 君の行うライブだって調整が上手く出来なかったという理由で勝手に延期したら……チケットを買って楽しみにしてた観客達は憤慨するだろう。そして君に幻滅し、離れていく――。あいつとの約束はこれらと同じだ。それでもなお、君はどうにかしてくれと私に頼むかい?」
社長は私のことを睨むように瞳を覗き込む。凄まじい圧力に私は背を向けて逃げ出したくなる。
けど、けど……納得がいかない。理屈は分かる。それでもこのまま、はいそうですと頷いて、カズ君に顔を向けるのはもっと嫌だった。
「それでも……頼みます。だって、こんなのあんまりじゃないですか……」
ようやく夢を見つけたのに。素晴らしいものを見つけたのに。何も出来ず、取りこぼすことしかかなわないなんて、そんなの酷いよ。
「……君は会社の大事な商品だ。今度のライブだって期待している」
「話を……逸らすんですか」
「違う。君のような小娘と話す価値はもうないということだ」
社長は冷然としていた。卑しむような視線で私を見つめている。呆れた、見損なった……そんな言葉が含まれている。
「君が自分のことしか考えていないのはよく分かった。だからもういい。出て行け。そして、過ちに気づくまで私の前に顔を出すな。――わかったな?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
帰りの車の中は重苦しい雰囲気に包まれていた。どれもこれも私のせいなんだけど。
家が近いという理由で一緒に送ってもらっている沙良さんはチラとこちらを見て、それから、
「大方、アキ君をどうにかしてほしいと頼んで、こっ酷く糾弾されたといったところですか」
隣にいる彼女は嘲りの目を向けてくる。
彼女の言葉に私は何も返せなかった。何故なら、その通りだったから。
「全く、香月比奈は馬鹿ですね。前もあの人に歯向かって同じ目に遭ったじゃないですか。まるで学習していませんね」
酷い言葉だった。胸が抉られるようだ。しかし彼女の言葉に間違いはない。
そうなのだ。分かっていた。何の根拠もなしに、ただ可哀想だとカズ君を哀れんで、擁護しようとする。それがどれほどカズ君のことを馬鹿にしてるのか計れたもんじゃない。私は一体何様のつもりなんだ。最低じゃないか、私。非難されて当然だ。
「あなたの気持ちを理解できないわけではありません。どうにか出来るなら私だって何かしら行動しています。しかし全部無駄なんですよ。どんなに親密な関係でも他人は他人。自分とは違うんです。特に彼の抱える問題はそこらの人間が簡単に理解できるものではありません。何したって無駄なんです」
「沙良さんは……それでいいの?」
私は下に目を落としたまま訊ねる。
「その質問は少し違うと思います。それでいいとか悪いとかじゃないんです。無理なものは無理なんです。この世にはどうしたって諦めねばならない瞬間があります。今がその時なんです」
もうすぐ目的地に着く。前でハンドルを握る彩さんは前を見てただジッと黙っている。
「私だってやりたいことはたくさんありました。ですが、そのほとんどをどうしようもないと諦めてきました。何故ならいつまでも心に後悔を残したままでは前を向いて歩けないからです。仕方ないと言って笑って流すのが正しいことなんです。人生を生きていくうえで一番楽なことなんです」
キキッとブレーキがかかる音がして、車は歩道の端に止まる。沙良さんは彩さんに送迎してくれたことの感謝を告げ、ドアに手をかける。
「私の言いたいことは伝わりましたよね。ですから、もう馬鹿なことは止めた方がいいです。これ以上は貴女自身の心にも傷をつけることになるかもしれませんから」
沙良さんはもしかたら私のことを気遣ってくれているのかもしれなかった。
彼女はドアを開ける。離れていくその背に声をかける。
「最後に一つ訊いていいかな?」
「……何ですか?」
「沙良さんが諦めたやりたかったことって何?」
沙良さんの動きが一瞬止まる。少しの静寂の後、彼女は背を向けたまま答える。
「日本の高校に進学して、アキ君や由香梨と学校生活を送りたかったです。たった一年じゃなくて三年間丸々。二人だけじゃなくて、色々な友達と。香月比奈……貴女とも一緒に」
彼女は最後まで背を向けたまま、ドアを閉める。そして一度も振り返ることなく行ってしまった。
車が発進する。その間も彩さんは何も言わなかった。




