慌ただしく一日が始まりました
翌日は早朝から慌ただしかった。
「あ、アンネローゼ様ぁ!至急来てください~!!」
そう言ってリリがノックもせずに部屋に飛び込んできたのは朝の身支度を整えている最中のことだった。
そちらに顔を向ければ、エルに梳いてもらった髪がさらりと視界の端に流れる。
「どうかしたのかしら?」
「リリ!貴女また」
私が疑問の声を上げるのとマイラの怒声が響きかけるのは同時だった。
けれどそれを遮るようにリリは大声を上げた。
「お説教は後で聞きますから!!マルグリット様がお呼びなんです!」
「マリー様が?」
「はい!なんでもモンドレー侯爵の危機だとかで」
よく見ればリリは額に汗を浮かべてぜいぜいと肩で息をし、二つに結んだ髪をところどころ乱している。
私などよりよっぽど自分の可愛さに気を遣っているリリがそんな状態になりながら私に至急と告げたこと、そして要件がモンドレー侯爵のこととなれば昨日の今日だ、事情はすぐに察せられる。
察せられるが、その問題は解決したのではなかったか。
「殿下は!?」
リリは漸く私が焦り始めたのを感じてホッと息を吐いたが、私の疑問に答えたのは彼女ではなかった。
「殿下は確か、今日は朝一番にイツアーク家へ行くとの手紙を昨日出していらっしゃいましたよ」
私が預かりましたから、と答えたマイラは「すぐに呼び戻すようお伝えしましょうか?」と私に訊ねながらもすでにそうすべく扉に向かって進んでいた。
「お願い!」
私は叫ぶとエルに「できるだけ早く仕上げを」と指示し、ものの2分で結い上げてもらった髪を靡かせながらすぐにマリー様がいるという応接間へ向かった。
「ですから!!せめて殿下かローゼ様がお越しになられるまでお待ちくださいませ!」
「いや、もうすでに覚悟も準備もできている。これ以上長らえるわけにはいかん」
「そんなことありません!今でも明日でも大した差はございませんわ!!」
「いや、忠実なる家臣であると言いながらこの体たらく。私は自分が許せない」
「ですがそれは侯爵の責任ではないと」
「モンドレー家の家長は私だ。先祖の失態は私が雪ごう」
「ああもう!殿下ぁ!!ローゼ様ああぁ!!」
応接間へ近づくにつれ、そんな会話が聞こえてきた。
普段のマリー様からは信じられないほどの大声だが、それだけ必死にならなければならないようなことを侯爵がしているのだと思い、急いで扉を開ければ。
「離れていなさい。貴女の服が汚れてしまう」
「私の服の汚れなど侯爵のお命と比べるべくもございませんでしょう!?」
手に剣を持った侯爵と、その腕を必死に押さえるマリー様がいた。
「なにしてるのー!!!!!」
そんな光景を目にした瞬間、私は城中に響かんばかりの大声を上げていた。
思わず淑女にあるまじきことをしてしまったが今回は大目に見てほしい。
実際、後日事情を聞いた陛下からは「よくぞ止めてくれた」とお褒めいただいたと殿下から伝えられた。
「一度落ち着きましょうか?」
「……はい」
「あ、あり、がとう、ございま…」
ソファに座り項垂れる侯爵の向かいで息も絶え絶えにぐったりとしているマリー様の横で私はエルが淹れてくれた紅茶を口に含む。
マイラが淹れてくれる紅茶は香り高く奥行きがあるかのような味わいだが、エルが淹れてくれる紅茶はすっきりとして品がいい。
思いつめた侯爵の頭をすっきりとさせ、疲れ切ったマリー様の体に負担をかけさせないだろう。
それぞれが落ち着きを取り戻すのに必要な時間を挟み、私は改めて侯爵に声をかけた。
「それで、侯爵は何をなさろうとしていましたの?」
カチャン、と食器同士がぶつかる軽い音と私の問いかけ。
どちらに反応したのかわからないが、侯爵はハッとしたように顔を上げた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした」
何が?
という問いは音にならずに私の喉で消える。
侯爵の体がブルブルと震え始めたからだ。
「私は、我が侯爵家は、陛下の忠実な臣であると、このオークリッドという国に誠心誠意仕えていると、そう思って生きてきました。しかし昨日アゼリアよりそうではなかったのだと聞かされ、私は言い知れぬ恐怖を覚えました。ただの一家臣が理由はどうであれ自分の意志で理を曲げて真実を秘匿した。それは陛下への裏切りでありこの国にとっての害悪です。そう思った時、私は私の信じていたものが全て信じられなくなってしまった」
「侯爵、それは」
「私は逃げたのです。死というものに」
マリー様の遠慮がちな声は侯爵の独白に遮られる。
いや、静かな声ではあったが侯爵のそれは最早慟哭だった。
「我が命と引き換えに贖いをなどと申しましたが、何のことはない。私は卑怯にも逃げた。ただそれだけなのです」
膝の上で手を組み直した侯爵の震えが止まる。
けれどそれは強い意志の力で震えを押さえつけているだけに見えた。
「マルグリット嬢はそんな私を止めてくださった。恥ずかしながら私はそれにホッとしたのです。私という人間の死を惜しみ止めてくださる方がいる。それだけで救われた気になってしまった。だからこそより一層自分が許せなかった」
ぎゅっと手に力を入れ、侯爵はマリー様の方を見た。
「申し訳なかった。貴女に何事もなかったからよかったものの、淑女の前で抜剣などするべきではなかったな」
すまない、ありがとう。
侯爵はそう呟いて静かに頭を下げた。
「とは申せ、私の罪は、我が一族の罪は償わなければならない。ここで長らえたとて私の死は変わらない」
「そんなことございませんわ。きっと殿下が」
「いや、こんなことでお忙しい殿下の手を煩わせるわけには参りますまい。先走ってしまったが、これより陛下に謁見いただき事情を申し上げ、すぐにでも手続きを」
「ですから、せめて殿下がいらっしゃるまでお待ちくださいませ」
「なりません。殿下の負担になっては」
「ご相談されない方が殿下は傷つかれます!」
「殿下は強いお方です」
「けれど人間ですわ!!」
私が何も言わないうちに侯爵とマリー様がまた口論を再開する。
私の横で控えているエルが二人の様子に緊張に身を固くし、私が止めるのを待っている気配を感じた。
ああもう、わかっているわよ。
今この場で侯爵を止めて説得できるのが私だけだってことくらい。
「そこまでよ」
閉じた扇で手を打つ。
勢いよく叩いたから、パンッという小気味のよい音が部屋中に広がった。
音と声に反応して動きを止めた侯爵とマリー様にエルはホッとしたように胸を撫で下ろしたが、よかったと呟きながら私の顔を見て小さく息を飲み、頬を引き攣らせる。
言い合いをやめて私を見た二人も同じような反応と表情を浮かべていた。
「侯爵。貴方は間違っているわ」
何故なら私が怒り故に無表情になっていたからだ。
読了ありがとうございました。




