第50話 弟子の復活と届いた書簡
それから二日が過ぎた。
安静を言い渡してから、通算八日目の午前。
宿の二階にある、もうすっかり「いつもの部屋」になった一室で、アルドは椅子を窓から少し離した位置に引き寄せた。寝台ではなく、部屋の真ん中あたりだ。
「そこに座れ」
「……? わかりました」
エリシャは首をかしげながらも素直に腰を下ろし、膝の上で両手を落ち着きなく組んだりほどいたりしている。
この二日間で、屋外散歩と屋内での軽い動作確認は終えている。坂道や階段も、もう特に問題なさそうだった。
あとは、魔力回路の中身が、どこまで戻っているかだ。
「手を出せ」
「えっ……あ、はい」
戸惑い混じりの返事とともに、細い右手が差し出される。
アルドは無言でその手首をとり、親指と人差し指を骨の内側にそっと添えた。
脈を測る、という行為自体は、学院時代から何度もやってきた。だが、こうして真正面に座らせ、距離を詰めて、手首を両手で包み込むように触れるのは、さすがに慣れたとは言い難い。
白い皮膚の下で、脈が規則正しく打っている。指先に、熱と鼓動がじんわりと伝わってきた。
(……脈拍は、やや速いが許容範囲。これは緊張のせいか?)
目を閉じ、今度は意識を外側から内側へと沈める。
手首から先へ、細い魔力の糸を一筋伸ばし、エリシャの魔力回路に軽く触れた。
数日前まで、そこには薄い空洞があった。魔力が通るべき管だけが形を残し、その内側を流れるものがほとんどない──そんな心許ない手触りだったのだ。
だが今は、管の内側をきちんと何かが巡っていた。細いが、途切れていない。焼け焦げたところを縫い直した糸が、ようやく全体をつなぎ終えたような感触だった。
「せ、先生?」
長く黙り込んだせいか、エリシャが不安そうに覗き込んでくる。
腕の筋肉がぴんとこわばるのが、指先から伝わった。
「動くな」
「は、はいっ」
返事と一緒に、脈が一瞬跳ね上がる。
アルドは内心で小さくため息をついた。
(これで落ち着けと言う方が無理か)
とはいえ、計測はすでに終わっている。魔力の流れは、枯渇前よりむしろ滑らかだった。枯渇を経て余計な澱が洗い流された分、流路の抵抗が減ったのかもしれない。
目を開けると、真正面にエリシャの顔があった。
こちらの表情を読もうとするように、じっと見つめている。
「うむ、魔力回路はもう回復しているな。もう魔法を使っても問題ないだろう」
「本当ですか!?」
ぱっと、全身に明かりが灯ったようだった。
肩の力が抜け、けれど瞳だけはきらきらと輝きを増す。
「ああ」
アルドは手首から指を離し、念のためもう一度、外側から魔力の気配をさらう。やはり、ぶれはなかった。
「ただし、無詠唱魔法はまだやめておけ。身体への負担も大きいからな。それと、命がけの〝反射〟も禁止だ。あれは、偶然の一度きりでいい」
語尾に、わずかに硬さが混じる。
彼女が命がけの〝反射〟をする時はアルドのピンチでもあるので、こちらへの戒めでもあった。彼女がそうならないように、もっと師匠側がしっかりせねばならない。
エリシャはその変化を敏感に拾ったのか、「……ですよね」と苦笑した。
「そんな簡単にぽんぽんできるものじゃないっていうのは、頭では分かってるんですけど」
「頭だけでは足りん。身体に叩き込め」
「厳しい……」
口ではそう言いながらも、頬は緩んでいた。
心底ほっとしているのだろう。長い間、水底に沈んでいたものが、一度に浮上してきたような表情をしていた。
「これで、また先生の隣で戦えますね」
ぽつりと零れた言葉に、アルドの胸が小さく鳴った。
エリシャは自分の右手を、先ほど指が触れていた手首のあたりでそっと握りしめる。
その視線は、アルドではなく、空中のどこか一点を見つめていた。
「……置いていかれるのは、嫌ですから」
小さく付け足されたその一言は、さっきまでの浮ついた明るさとは違う重さを持っていた。
薄く笑っているようで、笑ってはいない。
瞳の奥に、あの夜の残像がわずかに揺れる。
守護獣と封印核と、崩れ落ちる床。その全部を、彼女は体ごと喰らって倒れた。
(置いていく、か)
ノア=セリアの深部への再突入。
ギルドから正式な依頼が下りる前から、その光景は何度も頭の中でシミュレーションしていた。
危険度を下げるなら、当然、戦力は絞るべきだ。魔力の粗い者や、想定外の動きをする者は連れて行かない。
その条件を当てはめれば──魔力枯渇から回復しきっていない弟子を「留守番」とするのは、推奨される選択肢のひとつだったはずだ。
それを、エリシャが全く察していないはずもない。
少しの沈黙が落ちた。手を離したばかりの掌に、先ほどの鼓動の余韻が、まだぼんやりと残っている。
心の内と口から出そうになった言葉がずれて、舌の上でもつれた。
(守るために置いていく、という選択もある。だが──)
守られる側であることを、彼女は望んでいない。
ノア=セリアの入口で、自分を追ってきたあの時から、ずっとそうだ。
アルドは短く息を吐き、いつもの調子を装って口を開いた。
「置いていくわけないだろうが」
「え?」
エリシャは顔を上げた。
ほんの一瞬、驚いたように目を見開き、すぐにふわりと笑みが咲く。
「なら……よかったです」
安堵と、少しだけ照れが混じった声音だった。
胸の奥に沈んでいた石が、ひとつ分だけ軽くなったように見える。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「俺の指示から外れた〝反射〟や無詠唱魔法は認めない。また勝手に枯渇されたら構わんからな。戦場でまた勝手に世界と喧嘩を始めたら、その時こそ置いて帰るぞ」
「そ、それは困ります……じゃあ、ちゃんと先生の声だけ聞きますね」
エリシャは右耳を指先で押さえる仕草をしてみせる。
「世界の音、じゃなくて。先生の命令文だけ、ちゃんと拾いますから」
冗談めかしているようで、その目は真剣だった。
あの夜の感覚を、何度もノートに書き起こし、言葉にし、形にしようとしてきた弟子の目。
(……世界の命令文に割り込む、か)
その愚直なまでの真っ直ぐさに、危うさと頼もしさ、両方を感じる。
弟子を戦場に連れて行くということは、その危うさごと引き受けるということだ。
アルドは小さく頷き、椅子の背に体を預けた。
「いずれにせよ、すぐにというわけにはいかん。正式な依頼も、まだ降りてきていないからな」
「ですよね。でも……」
エリシャは椅子の縁をきゅっとつかみ、真っ直ぐにこちらを見る。
「たぶん私、前よりもちゃんと戦えます。そんな気が、するんです」
どことなく、自信に満ちた瞳。
休養している間に、何かを掴んだのかもしれない。
エリシャは天才だ。きっと、アルドが思いも寄らない力や案を得ているのだろう。
「それを証明する機会は、むしろ来ない方が好ましいんだがな」
軽くあしらう形にしながらも、その言葉を心の中で反芻する。
『先生の隣で』
『置いていかれるのは嫌』
その両方を、今さら肩の荷のように外すことはできそうになかった。
ちょうどその時だった。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
この足音は、たぶん女将だ。
コン、コン、と扉がノックされる。
「アルドさん、いる? ギルドから書簡が届いたわよ」
やはり、女将の声だった。
「いる。今開ける」
アルドは椅子から立ち上がり、扉へ向かう。
背後で、エリシャが「何でしょう?」と小さく首を傾げる気配がした。
扉を開けると、女将が封蝋の押された封筒を差し出してきた。
封蝋には、リーヴ冒険者ギルドの紋章。
表には、『ノア=セリア調査隊 関係者各位』の文字。
「至急お目通しください、だって。確かに渡したわよ」
「預かった」
短く礼を言って扉を閉める。
踵を返し、封筒を手の中で裏返した。
「先生、それ……」
「ああ。ギルドからだ」
封を切ると、中から数枚の紙が滑り出る。
一枚目の上部には、太い字でこう印刷されていた。
『ノア=セリア封印区画に関する説明会および作戦会議開催のお知らせ』。
アルドは視線でざっと日付と時刻を追う。
明日の午後。ギルド本館の会議室。
「説明会、ですか?」
手元を覗き込んでくるエリシャに、アルドは紙を一枚だけ渡した。
「ああ。詳細な状況説明と、今後の方針決定。ようやく、腰を上げる気になったらしい」
ノア=ローアから持ち出された〝封印核〟。
あの暴走の余波は、街の外壁近くにまでかすかな影響を及ぼしていると聞く。ギルドとしても、いつまでも曖昧なまま放置しておける案件ではないのだろう。
エリシャは紙を両手で大事そうに持ち、じっと読み込んでいた。
その横顔を横目に見ながら、アルドは胸の内でひとつ頷く。
(……こっちもギリギリ間に合ったみたいだしな。助かった)
説明会と会議が開かれるなら、その場で「誰を連れていくか」が問われる。
アルドが戦場にも連れて行けると胸を張って言えるのは、エリシャとエストファーネだけだ。特に、弟子がいないとそれだけでこちらの難度も上がる。もはや、エリシャなしでは遺跡探索は不可能となっていた。
(やれやれ。弟子をここまで頼ることになるとは思わなかったな)
アルドは小さく嘆息しつつも、指先に魔力を込めて魔力回路のチェックをしているエリシャを盗み見る。
新たな冒険の火ぶたが、切られようとしていた。




