表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍化決定】追放された最強魔導師は、弟子の天才美少女と世界を巡る。~無詠唱魔法で無双しながら弟子とゆったり研究旅行~  作者: 九条蓮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/50

第49話 弟子の療養②

 さらに二日が過ぎた。

 安静を言い渡してから、通算六日目の朝だった。

 寝台の上のエリシャは、枕を背に立てかけた姿勢で本を読んでいた。ページをめくる指に、もうもたつきは見られない。


(……ようやく、外へ連れ出してもいいところまで来たか)


 アルドは窓辺の椅子に腰を下ろし、昨夜つけたノートをめくる。

 体温は平熱。食欲も戻っている。軽い屋内歩行でもふらつきなし。食事も食堂で取れるくらいには戻っていた。

 魔力の流れはまだ薄いが、枯渇特有の「空洞の気配」は消えつつあった。


「先生」


 名を呼ぶ声に顔を上げると、寝台のエリシャが本を閉じてこちらを見ていた。

 銀髪はすっかり寝癖も落ち着き、いつもの柔らかな波を描いている。


「そろそろ外の景色も見たいです」


 素直な願望が、そのまま言葉になっていた。

 アルドは一瞬だけ黙り込み、窓の向こうに視線を流す。

 薄いカーテンの向こうでは、朝の光が石畳の路地を斜めに照らし始めている。

 行商人たちの声も、微かに届き始めていた。


「まあ……そろそろ外気に当たるのも悪くないか」


 言いながら、魔力の流れをもう一度探る。

 もう魔力回路にも魔力は通り始めていた。この程度の短距離なら、問題はないだろう。


「宿の近くだけだぞ」


 条件とともに許可を出すと、エリシャの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか!?」

「階段を下りるだけで息が上がるようなら、すぐ引き返すぞ」

「はいっ。大丈夫です、ちゃんと歩けますから」


 妙に自信満々な返事だ。

 その自信が何を根拠にしているのか、師匠としてはやや不安もある。


「焦らずにな」


 アルドは椅子から立ち上がり、寝台のそばへ歩み寄る。

 エリシャは毛布を膝からどけ、ベッドの端に腰を移した。足先が床に触れる。

 エリシャは両手をシーツにつき、ぐっと力を込めて上体を押し上げる。

 その瞬間、わずかに膝が揺れた。


「わっ」


 身体の重心が前に流れる。


「……っと」


 アルドは反射的に手を伸ばし、彼女の腰を支えた。

 細い腰骨と、その上にわずかに乗る体温が、掌に直接伝わる。

 距離が一気に詰まった。

 胸元の布がかすかに触れそうな位置まで迫り、エリシャの睫毛が至近距離で震える。


「あ、あの……」


 頬がみるみる朱に染まっていく。

 視線のやり場を失ったように、目がきょろきょろと揺れた。


「焦らず、と言っただろうだ。ゆっくり立て」


 アルドは努めて平静な声で言い、そっと手を離した。

 腰から支えを外しても、今度はふらつかない。足裏がしっかりと床を捉えていた。


「す、すみません……ちょっと、舞い上がりすぎちゃいました」


 エリシャは耳まで赤くしながら、ぎこちなく笑う。

 その様子に、アルドは小さく息をついた。


(まあ、倒れられるよりはマシだがな)


 腕に残る体温の感触を、意識の端で追い払うように、軽く咳払いをひとつした。


「歩けるか?」

「さっきも食堂まで降りれたじゃないですか。ほら、もう大丈夫です」


 エリシャは一歩、二歩と部屋の中を歩いて見せる。

 足取りにわずかな硬さはあるが、ふらつく様子もない。

 窓辺まで歩いていって、カーテンを指先でつまみ、少しだけ外の光を覗いた。


「いい天気ですね」

「ああ」


 アルドは上着を手に取り、扉の方へ向かう。

 エリシャも、枕元に掛けていた外套を慌てて羽織った。まだ少し丈の長いそれが、足首のあたりでひらりと揺れる。


「無理そうならすぐ言え」

「わかってますって」


 口では軽く流しながらも、エリシャの喉が小さく鳴る。

 久しぶりの外出に、緊張と期待が入り混じっているのがわかった。

 階段を下りるときも、アルドは半歩前を歩き、いつでも支えられる位置を保ち続ける。

 一段ごとに、かかとの音と呼吸のリズムを確認する。


「息苦しさは?」

「今のところはないです」


 少しだけ息が弾んでいるが、顔色は悪くない。

 宿の一階を抜けて扉を開けると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でた。

 街路の石畳には、まだ夜の湿り気が薄く残っている。

 その上を、行商人の荷車の車輪がきしりと音を立てて通り過ぎていった。


「わぁ……」


 エリシャは思わず目を細めた。

 宿の薄暗い廊下とは全く違う、開けた光の量に、瞳が一瞬追いつかないのだろう。

 鼻先に、焼きたてのパンの香りが届いた。

 少し先の通りでは、パン屋が窯からパンを取り出している。

 小麦とバターと、焦げかけた端の香り。

 朝市の屋台も、ちょうど準備の最中らしく、布をかけた台の上に籠が並べられていくところだった。

 干し果物、安い革紐、色とりどりの布切れ。

 どれもまだ「開店前」の顔をしている。


「少し歩くぞ。坂の少ない方に行く」

「はーい」


 アルドは宿の正面を横切る形で、緩やかな石畳の路地を選んで歩き出した。

 エリシャはそれに合わせて歩幅を合わせる。

 通りの端では、箒を振り回した子どもたちが、何やら大声で叫んでいた。


「くらえー! ドラゴン退治の大魔法・エスクプロージョン!」

「ばか、それじゃ詠唱になってないぞ!」

「いいんだよ! ちゃんとドカーンってなるから!」


 箒の先を振り上げた瞬間、乾いた石畳に小石が跳ねた。

 もちろん、本物の魔法など出るはずもない。

 けれど、遊びの中ではそれで充分なのだろう。

 エリシャはその様子を見て、小さく笑った。


「あっ……なんだか、魔力の巡りが良くなった気がします」


 胸のあたりをそっと押さえながら、振り返ってくる。

 アルドは彼女の歩調と呼吸を観察しつつ、半分だけ水を差す。


「それは、単に血の巡りが戻ってきただけだ」

「先生と一緒に歩いてるだけで、元気になっていく気がします。これはもっと外に出歩くべきですね」

「それは錯覚だな。休息と栄養の結果だ」

「錯覚でもいいじゃないですか」


 きっぱりと言い切って、エリシャは前を向き直った。

 背筋が伸びていて、しゃんとしている。もう本当に普段通りに近いようだ。

 通りをひとつ抜けると、緩やかな坂道に出る。

 石畳がわずかに斜めに傾き、太陽の光を反射していた。


「向こうの階段で折り返す。きつければ途中で止まるぞ」

「了解です、先生」


 エリシャは深く息を吸い、吐く。

 そして、歩幅を少しだけ広げて坂を上り始めた。

 一歩、二歩。

 足もしっかりしていた。


「気分は悪くないか?」

「はーい、大丈夫でーす」


 何だか可笑しそうにエリシャが言うので、思わずむっとなる。

 

「なんだ、そのふざけた返事は」

「いえ。だって……本当に過保護だなって思って」

「やかましい。怪我をされたら、研究が進まんからな」


 照れ隠しに行って、ちらりと横を見る。

 膝が折れそうな気配もなく、すこぶる調子は良さそうだ。

 坂の中腹で一度立ち止まり、路地の向こうを見下ろした。

 さきほどの子どもたちの笑い声が、風に乗って届いてくる。パン屋からの香りも、まだ微かに漂っていた。


「ここ、いい眺めですよね」

「いつもは気にしていなかったがな」


 アルドは肩越しに視線を落とす。

 宿の屋根、その向こうに見えるギルドの塔。

 それらが、薄い朝靄の向こうで輪郭を柔らかくしている。


「もう少し行けそうか?」

「はい。全然大丈夫です」


 エリシャは笑って頷き、また歩き出した。

 坂の頂上近くには、小さな祠へと続く石段がある。

 段数にして十五ほど。高くはないが、回復直後の体には十分な試金石だ。


「息が上がったらすぐに言えよ」

「はーい」


 足先を段の端に乗せ、一段ずつ確かめるように上がっていく。

 息遣いはさっきよりもはっきりと胸に響いていたが、顔色はまだ崩れていない。

 祠の前の小さな踊り場に出ると、エリシャは「ふぅ」と大きく息を吐き、石の欄干に手を置いた。


「大丈夫か」

「だ、大丈夫です。歩くのが久しぶりだったので、ちょっと息が上がっちゃいました」


 額に薄く汗がにじんでいる。

 アルドはポケットから布を取り出し、無言で差し出した。


「あ、ありがとうございます」


 エリシャはそれで額を押さえ、汗を拭った。

 目の焦点はしっかりとしていた。


「少し休んでいろ」

「はい」


 踊り場の隅に、腰掛けられそうな高さの石段が一段ある。

 エリシャはそこに腰を下ろし、胸の前で両手を組んで呼吸を整え始めた。

 アルドは隣に立ち、彼女の肩越しに街を見下ろす。

 坂の下では、朝市の準備が一層忙しくなっていた。

 屋台の布がめくられ、野菜や果物が顔を出す。

 小銀貨の音が、遠くでしゃらりと鳴った。


「……不思議ですね」


 呼吸が落ち着いてきたころ、エリシャがぽつりと呟いた。


「何がだ」

「さっきまで、部屋の中にいるときは、まだ体の奥が重い感じがしてたのに。こうやって外を歩いてみると、さっきよりちゃんと血が巡ってるっていうか……」


 自分の胸に手を当てて、鼓動を確かめる。


「もちろん、先生の言う通り、休息と栄養の結果っていうのも分かるんですけど」

「それが分かっているなら、言うことはないな」

「でも──」


 エリシャはそこで言葉を切り、少しだけ照れくさそうに笑った。


「先生と一緒に歩いてるだけで、元気になっていく気がします」


 先ほどと同じ言葉を、今度は少し静かな声で繰り返す。


「これはもっと外に出歩くべきですね」

「それは錯覚だな。休息と栄養の結果だ」


 アルドも同じ言葉を返した。


「錯覚でもいいじゃないですか」


 すると、負け字と彼女も同じ言葉を返してくる。全く、負けず嫌いの弟子だ。

 ただ、今度は誤魔化しではなく、本心からそう言っているように見えた。瞳に映る光が、柔らかく揺れている。

 アルドは短く鼻を鳴らした。


(錯覚でも、か)


 もしそれが彼女の前向きさを支えるなら、わざわざ否定して折る必要もないのだろう。

 魔導師に必要なのは、理屈だけではない。

 世界の言葉に手を伸ばすための、中心線の強さだ。


「そろそろ戻るぞ」

「え? もうですか? もうちょっと歩きたいんですけど」

「まあ、それはそれで構わなんがな」

「やったっ。先生、今日は優しいですね」


 エリシャは嬉々として立ち上がる。

 本当に元気になったのか、先ほどよりも足取りは安定していた。

 通りまで降りると、さきほどの子どもたちがまだ箒を振り回していた。

 今度は「最強の召喚獣を召喚する!」と叫びながら、互いに棒切れをぶつけ合っている。

 エリシャはその横を通り過ぎながら、そっと手のひらを握り込んだ。

 自分の中で、世界の音と子どもたちの声を聞き分けようとしているのだろう。


「先生」

「なんだ」

「帰ったら、課題の続き、やってもいいですか?」


 その声には前向きな熱が戻っている。


「座学の範囲ならな」

「はい。ちゃんと、座ってやります」


 約束するようにそう言って笑う。

 それから暫く周囲を散歩した。宿へ戻るころには、さっきよりも溌剌としていた。頬も上気しているが、血色はむしろ良好だ。


「疲労感は?」

「そうですね……頭はすっきりしてます」


 アルドは彼女の歩調を最後まで確認し、宿の扉の前で立ち止まった。


「今日のところはこれで十分だ。よくやった」

「やっぱりたまには外に出ないとダメですね。空気が気持ちよかったです」


 エリシャは嬉しそうに笑い、扉を押し開けて中へ入っていった。

 その背中を追いながら、アルドは静かに思う。


(肉体だけじゃないな)


 部屋に閉じこもって本と向き合う時間も、彼女にとっては必要だった。

 だがこうして、街の匂いや音に触れ、子どもたちの笑い声を聞き、朝市の喧噪の中を歩いたことで──ようやく本当の意味で「生者の側」に戻ってきたのだろう。

 それは、これから再び死地へ向かう者にとって、あまりにささやかな準備に過ぎない。

 だが、こういう一歩の積み重ねがなければ、境界線の向こう側から帰ってくることはできないのだ。


「先生?」


 階段の途中で振り返ったエリシャが、不思議そうに首を傾げた。


「どうしました?」

「いや、何でもない。足元だけ見て上がれ」

「だから、大丈夫ですってば」


 呆れたように応え、彼女はふたたび一段ずつ階段を上がっていく。

 その背中は、今度こそ迷いなく前へ進んでいた。

 アルドは半歩後ろを歩きながら、そっと彼女の魔力を感じ取った。朝よりも魔力回路に流れる魔力が増えている。


(明日明後日には完全復帰といったところか)


 魔力も、感情も。

 どちらも、ようやく「戦場に連れて行ってもいい」と判断できる線に近づきつつあった。

 それが嬉しくもあり、同じくらい不安でもある。無論、そんなことは言えないけれど。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ