第49話 弟子の療養②
さらに二日が過ぎた。
安静を言い渡してから、通算六日目の朝だった。
寝台の上のエリシャは、枕を背に立てかけた姿勢で本を読んでいた。ページをめくる指に、もうもたつきは見られない。
(……ようやく、外へ連れ出してもいいところまで来たか)
アルドは窓辺の椅子に腰を下ろし、昨夜つけたノートをめくる。
体温は平熱。食欲も戻っている。軽い屋内歩行でもふらつきなし。食事も食堂で取れるくらいには戻っていた。
魔力の流れはまだ薄いが、枯渇特有の「空洞の気配」は消えつつあった。
「先生」
名を呼ぶ声に顔を上げると、寝台のエリシャが本を閉じてこちらを見ていた。
銀髪はすっかり寝癖も落ち着き、いつもの柔らかな波を描いている。
「そろそろ外の景色も見たいです」
素直な願望が、そのまま言葉になっていた。
アルドは一瞬だけ黙り込み、窓の向こうに視線を流す。
薄いカーテンの向こうでは、朝の光が石畳の路地を斜めに照らし始めている。
行商人たちの声も、微かに届き始めていた。
「まあ……そろそろ外気に当たるのも悪くないか」
言いながら、魔力の流れをもう一度探る。
もう魔力回路にも魔力は通り始めていた。この程度の短距離なら、問題はないだろう。
「宿の近くだけだぞ」
条件とともに許可を出すと、エリシャの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「階段を下りるだけで息が上がるようなら、すぐ引き返すぞ」
「はいっ。大丈夫です、ちゃんと歩けますから」
妙に自信満々な返事だ。
その自信が何を根拠にしているのか、師匠としてはやや不安もある。
「焦らずにな」
アルドは椅子から立ち上がり、寝台のそばへ歩み寄る。
エリシャは毛布を膝からどけ、ベッドの端に腰を移した。足先が床に触れる。
エリシャは両手をシーツにつき、ぐっと力を込めて上体を押し上げる。
その瞬間、わずかに膝が揺れた。
「わっ」
身体の重心が前に流れる。
「……っと」
アルドは反射的に手を伸ばし、彼女の腰を支えた。
細い腰骨と、その上にわずかに乗る体温が、掌に直接伝わる。
距離が一気に詰まった。
胸元の布がかすかに触れそうな位置まで迫り、エリシャの睫毛が至近距離で震える。
「あ、あの……」
頬がみるみる朱に染まっていく。
視線のやり場を失ったように、目がきょろきょろと揺れた。
「焦らず、と言っただろうだ。ゆっくり立て」
アルドは努めて平静な声で言い、そっと手を離した。
腰から支えを外しても、今度はふらつかない。足裏がしっかりと床を捉えていた。
「す、すみません……ちょっと、舞い上がりすぎちゃいました」
エリシャは耳まで赤くしながら、ぎこちなく笑う。
その様子に、アルドは小さく息をついた。
(まあ、倒れられるよりはマシだがな)
腕に残る体温の感触を、意識の端で追い払うように、軽く咳払いをひとつした。
「歩けるか?」
「さっきも食堂まで降りれたじゃないですか。ほら、もう大丈夫です」
エリシャは一歩、二歩と部屋の中を歩いて見せる。
足取りにわずかな硬さはあるが、ふらつく様子もない。
窓辺まで歩いていって、カーテンを指先でつまみ、少しだけ外の光を覗いた。
「いい天気ですね」
「ああ」
アルドは上着を手に取り、扉の方へ向かう。
エリシャも、枕元に掛けていた外套を慌てて羽織った。まだ少し丈の長いそれが、足首のあたりでひらりと揺れる。
「無理そうならすぐ言え」
「わかってますって」
口では軽く流しながらも、エリシャの喉が小さく鳴る。
久しぶりの外出に、緊張と期待が入り混じっているのがわかった。
階段を下りるときも、アルドは半歩前を歩き、いつでも支えられる位置を保ち続ける。
一段ごとに、かかとの音と呼吸のリズムを確認する。
「息苦しさは?」
「今のところはないです」
少しだけ息が弾んでいるが、顔色は悪くない。
宿の一階を抜けて扉を開けると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でた。
街路の石畳には、まだ夜の湿り気が薄く残っている。
その上を、行商人の荷車の車輪がきしりと音を立てて通り過ぎていった。
「わぁ……」
エリシャは思わず目を細めた。
宿の薄暗い廊下とは全く違う、開けた光の量に、瞳が一瞬追いつかないのだろう。
鼻先に、焼きたてのパンの香りが届いた。
少し先の通りでは、パン屋が窯からパンを取り出している。
小麦とバターと、焦げかけた端の香り。
朝市の屋台も、ちょうど準備の最中らしく、布をかけた台の上に籠が並べられていくところだった。
干し果物、安い革紐、色とりどりの布切れ。
どれもまだ「開店前」の顔をしている。
「少し歩くぞ。坂の少ない方に行く」
「はーい」
アルドは宿の正面を横切る形で、緩やかな石畳の路地を選んで歩き出した。
エリシャはそれに合わせて歩幅を合わせる。
通りの端では、箒を振り回した子どもたちが、何やら大声で叫んでいた。
「くらえー! ドラゴン退治の大魔法・エスクプロージョン!」
「ばか、それじゃ詠唱になってないぞ!」
「いいんだよ! ちゃんとドカーンってなるから!」
箒の先を振り上げた瞬間、乾いた石畳に小石が跳ねた。
もちろん、本物の魔法など出るはずもない。
けれど、遊びの中ではそれで充分なのだろう。
エリシャはその様子を見て、小さく笑った。
「あっ……なんだか、魔力の巡りが良くなった気がします」
胸のあたりをそっと押さえながら、振り返ってくる。
アルドは彼女の歩調と呼吸を観察しつつ、半分だけ水を差す。
「それは、単に血の巡りが戻ってきただけだ」
「先生と一緒に歩いてるだけで、元気になっていく気がします。これはもっと外に出歩くべきですね」
「それは錯覚だな。休息と栄養の結果だ」
「錯覚でもいいじゃないですか」
きっぱりと言い切って、エリシャは前を向き直った。
背筋が伸びていて、しゃんとしている。もう本当に普段通りに近いようだ。
通りをひとつ抜けると、緩やかな坂道に出る。
石畳がわずかに斜めに傾き、太陽の光を反射していた。
「向こうの階段で折り返す。きつければ途中で止まるぞ」
「了解です、先生」
エリシャは深く息を吸い、吐く。
そして、歩幅を少しだけ広げて坂を上り始めた。
一歩、二歩。
足もしっかりしていた。
「気分は悪くないか?」
「はーい、大丈夫でーす」
何だか可笑しそうにエリシャが言うので、思わずむっとなる。
「なんだ、そのふざけた返事は」
「いえ。だって……本当に過保護だなって思って」
「やかましい。怪我をされたら、研究が進まんからな」
照れ隠しに行って、ちらりと横を見る。
膝が折れそうな気配もなく、すこぶる調子は良さそうだ。
坂の中腹で一度立ち止まり、路地の向こうを見下ろした。
さきほどの子どもたちの笑い声が、風に乗って届いてくる。パン屋からの香りも、まだ微かに漂っていた。
「ここ、いい眺めですよね」
「いつもは気にしていなかったがな」
アルドは肩越しに視線を落とす。
宿の屋根、その向こうに見えるギルドの塔。
それらが、薄い朝靄の向こうで輪郭を柔らかくしている。
「もう少し行けそうか?」
「はい。全然大丈夫です」
エリシャは笑って頷き、また歩き出した。
坂の頂上近くには、小さな祠へと続く石段がある。
段数にして十五ほど。高くはないが、回復直後の体には十分な試金石だ。
「息が上がったらすぐに言えよ」
「はーい」
足先を段の端に乗せ、一段ずつ確かめるように上がっていく。
息遣いはさっきよりもはっきりと胸に響いていたが、顔色はまだ崩れていない。
祠の前の小さな踊り場に出ると、エリシャは「ふぅ」と大きく息を吐き、石の欄干に手を置いた。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です。歩くのが久しぶりだったので、ちょっと息が上がっちゃいました」
額に薄く汗がにじんでいる。
アルドはポケットから布を取り出し、無言で差し出した。
「あ、ありがとうございます」
エリシャはそれで額を押さえ、汗を拭った。
目の焦点はしっかりとしていた。
「少し休んでいろ」
「はい」
踊り場の隅に、腰掛けられそうな高さの石段が一段ある。
エリシャはそこに腰を下ろし、胸の前で両手を組んで呼吸を整え始めた。
アルドは隣に立ち、彼女の肩越しに街を見下ろす。
坂の下では、朝市の準備が一層忙しくなっていた。
屋台の布がめくられ、野菜や果物が顔を出す。
小銀貨の音が、遠くでしゃらりと鳴った。
「……不思議ですね」
呼吸が落ち着いてきたころ、エリシャがぽつりと呟いた。
「何がだ」
「さっきまで、部屋の中にいるときは、まだ体の奥が重い感じがしてたのに。こうやって外を歩いてみると、さっきよりちゃんと血が巡ってるっていうか……」
自分の胸に手を当てて、鼓動を確かめる。
「もちろん、先生の言う通り、休息と栄養の結果っていうのも分かるんですけど」
「それが分かっているなら、言うことはないな」
「でも──」
エリシャはそこで言葉を切り、少しだけ照れくさそうに笑った。
「先生と一緒に歩いてるだけで、元気になっていく気がします」
先ほどと同じ言葉を、今度は少し静かな声で繰り返す。
「これはもっと外に出歩くべきですね」
「それは錯覚だな。休息と栄養の結果だ」
アルドも同じ言葉を返した。
「錯覚でもいいじゃないですか」
すると、負け字と彼女も同じ言葉を返してくる。全く、負けず嫌いの弟子だ。
ただ、今度は誤魔化しではなく、本心からそう言っているように見えた。瞳に映る光が、柔らかく揺れている。
アルドは短く鼻を鳴らした。
(錯覚でも、か)
もしそれが彼女の前向きさを支えるなら、わざわざ否定して折る必要もないのだろう。
魔導師に必要なのは、理屈だけではない。
世界の言葉に手を伸ばすための、中心線の強さだ。
「そろそろ戻るぞ」
「え? もうですか? もうちょっと歩きたいんですけど」
「まあ、それはそれで構わなんがな」
「やったっ。先生、今日は優しいですね」
エリシャは嬉々として立ち上がる。
本当に元気になったのか、先ほどよりも足取りは安定していた。
通りまで降りると、さきほどの子どもたちがまだ箒を振り回していた。
今度は「最強の召喚獣を召喚する!」と叫びながら、互いに棒切れをぶつけ合っている。
エリシャはその横を通り過ぎながら、そっと手のひらを握り込んだ。
自分の中で、世界の音と子どもたちの声を聞き分けようとしているのだろう。
「先生」
「なんだ」
「帰ったら、課題の続き、やってもいいですか?」
その声には前向きな熱が戻っている。
「座学の範囲ならな」
「はい。ちゃんと、座ってやります」
約束するようにそう言って笑う。
それから暫く周囲を散歩した。宿へ戻るころには、さっきよりも溌剌としていた。頬も上気しているが、血色はむしろ良好だ。
「疲労感は?」
「そうですね……頭はすっきりしてます」
アルドは彼女の歩調を最後まで確認し、宿の扉の前で立ち止まった。
「今日のところはこれで十分だ。よくやった」
「やっぱりたまには外に出ないとダメですね。空気が気持ちよかったです」
エリシャは嬉しそうに笑い、扉を押し開けて中へ入っていった。
その背中を追いながら、アルドは静かに思う。
(肉体だけじゃないな)
部屋に閉じこもって本と向き合う時間も、彼女にとっては必要だった。
だがこうして、街の匂いや音に触れ、子どもたちの笑い声を聞き、朝市の喧噪の中を歩いたことで──ようやく本当の意味で「生者の側」に戻ってきたのだろう。
それは、これから再び死地へ向かう者にとって、あまりにささやかな準備に過ぎない。
だが、こういう一歩の積み重ねがなければ、境界線の向こう側から帰ってくることはできないのだ。
「先生?」
階段の途中で振り返ったエリシャが、不思議そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、何でもない。足元だけ見て上がれ」
「だから、大丈夫ですってば」
呆れたように応え、彼女はふたたび一段ずつ階段を上がっていく。
その背中は、今度こそ迷いなく前へ進んでいた。
アルドは半歩後ろを歩きながら、そっと彼女の魔力を感じ取った。朝よりも魔力回路に流れる魔力が増えている。
(明日明後日には完全復帰といったところか)
魔力も、感情も。
どちらも、ようやく「戦場に連れて行ってもいい」と判断できる線に近づきつつあった。
それが嬉しくもあり、同じくらい不安でもある。無論、そんなことは言えないけれど。




