第48話 弟子の療養
早朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を静かに満たしていた。
東向きの窓辺に積まれた本の背表紙が、柔らかな橙色に縁取られている。古びた革装丁の論文写本、ギルドの貸出印が押された報告書、そして自分の名が小さく記された手製の講義ノート──ここ数日で、窓際はすっかり簡易図書館と化していた。
寝台の上では、エリシャが枕を背に縦に座り、膝の上にノートを広げている。
銀髪はまだ寝癖が抜けきらず、ところどころはねているが、顔色は悪くない。頬には薄く血色が戻り、指先でペンを支える手も、もう震えてはいなかった。
窓際の机では、アルドが湯気の立つハーブティーと、パンとスクランブルエッグと簡素なスープという宿の定番朝食を木皿に並べている。香草を浮かべたスープから立ち上る湯気が、朝の光をゆらりと歪めた。
「……今日は何日目だったか」
パンを皿に移し替えながら、何気ない調子で口にする。
「えっと……もう四日目です」
寝台から、すぐに返事が飛んできた。
エリシャはノートに視線を落としたまま、さらさらと問題の答えを書きつけながら答える。
「そうか。思ったより大人しくしていたな」
「思ったよりって、どういう意味ですか……」
ぷくっと頬を膨らませて抗議の色を示したあと、「でも、結構良くなってきましたよっ」と、今度はぱっと表情を明るくする。
ペンを置き、小さく腕を曲げて拳を作った。
「確かに、顔色も随分よくなってきたな」
アルドは皿を片手に、苦笑を漏らす。
寝台に近づきながら、専門家の視線で弟子を観察した。
〝封印核〟の沈静化から戻った日は、立っているのもやっとだった。
魔力枯渇の典型的な症状がすべて出ていた。ふらつき、冷や汗、指先の痺れ、視線の泳ぎ。寝台まで運び込んだときの体温の低さは、今思い返してもいい気持ちはしない。
だがこの数日間、言葉通り「実技を一切禁止」したおかげで、肉体の方は目に見えて回復していた。
昨日は試しに少し宿の中を歩かせてみたが、足元のふらつきもほとんどなかった。
ただ、魔力はまだ戻りきっていない。内側を流れる気配が薄かった。
計測器などなくとも、長年の勘でそれは分かる。
(復活までは、あと二、三日といったところか)
皿を枕元の小さな卓に置きながら、そんな目算を立てる。
その間、エリシャは──見事なまでに「座学と研究メモ」に専念していた。
窓辺の本の山がそれを物語っている。〝封印核〟の構造解析に関する論文に、学院時代に自分が書いた「高位詠唱と神代語断片性」の草稿。ページのあちこちに、丸みのある文字でびっしりと書き込まれたメモと、色の違うインクで追記された矢印と線があった。
(絶対安静中の弟子にここまで課題を出した師匠も、そういないだろうがな)
自嘲まじりに思いつつも、窓際の図書館セットを用意したのは自分だ。
図書館に行けない代わりに、本をこちらへ呼び寄せただけの話──と、言い訳することもできる。
「朝食だ。ノートはひとまず閉じろ」
「はーい」
エリシャは素直にペンを置き、ノートをぱたんと閉じる。
膝からずらして枕元に置き直すと、両手を合わせて「いただきます」と小さく口にした。
アルドは自分の分を机に置き、湯気の立つハーブティーをエリシャの前にそっと滑らせる。
最初は食堂で食べていたのだが、フォークやナイスを落としてしまったり、手の震えからカップを落としそうになったりということがあり、食事を部屋まで運んでもらうことにしたのだ。
「熱いから気をつけろ」
「もう。私、子供じゃないですよ?」
「似たようなものだ」
「むぅ……」
不服そうにしつつも、エリシャは一口飲んで、ふう、と満足そうに息を吐く。
ハーブの香りが、朝の空気にほのかに広がった。
パンをひと口かじったタイミングで、アルドはふと思い出したように口を開く。
「では、昨日の復習だ」
「もぐっ……復習ですか?」
エリシャの頬が、パンで小さく膨らむ。
「〝封印核〟の命令文を書き換える際、最も危険なパターンは何だ?」
パンを飲み込むまで待つつもりはないらしい。
エリシャは慌ててスープでそれを流し込み、咳き込みかけながらも、すぐに真顔に戻った。
「……〝意味〟の途中で手を離すこと、です。世界にとっては、意図の分からない命令ほど不愉快なものはありませんから」
間髪入れずに返ってくる答え。
語尾に少し息が上がっているのは、急いで飲み込んだからだろうが、内容そのものは淀みない。
アルドは内心で「よし」と頷いた。
(思考の切れ味は戻っているな)
問いに対して最短ルートで結論を出し、その裏付けとなる理屈を簡潔に添える。
少なくとも頭の方は、完全にいつもの調子だ。
「具体的には?」
さらに問うと、エリシャはパンをちぎりながら、指先で小さな円を描くように空中をなぞる。
「えっと……例えば、『攻撃対象を〝封印核〟から周囲の瓦礫に変更する』と命令文を書いている途中で、力尽きて筆を落としたりすると──」
「『攻撃対象』だけが決まって、『何を、どうするか』が決まらないまま放置されるな」
「はい。そうなると、世界の側が『じゃあ好きに解釈しますね』ってなってしまうので……」
「……言い方はどうかと思うが、解釈の暴走が起きる、という理解でいいだろう」
アルドは苦笑しながらも、頷いた。
〝封印核〟に限らず、世界へ投げかける命令文は、最後まで書き切ることが絶対条件だ。
途中で放り出された『意味』は、しばしば最悪の形で収束する。それは、学院時代に嫌というほど叩き込まれてきた教訓でもあった。詠唱ミスによる魔法の暴発──ノリキンの禁呪失敗など──もこれに当たる。
「じゃあ次は私から、先生に問題です」
「ほう?」
スープを飲みかけたところで、逆襲宣言が飛んできた。
エリシャは悪戯を思いついた子どものように目を細める。
「絶対安静中の弟子に、こっそり図書館の本を持ち込んだ罪の名前は?」
「……学術支援だ」
間を置かずに返すと、エリシャは「ふふっ」と小さく笑った。
「〝過保護〟の一種だと思いますけど?」
「どこがだ」
「だって、安静にって言いながら、気づいたら枕元に本の山なんですよ? 枕を動かしたら、下から先生の講義ノートが出てくるし……」
「それは単に、お前が寝相で本を押し潰した結果だろう」
「そもそも、その本を置いたのは先生じゃないですか」
言い返す言葉はない。
たしかに二日目の朝──少しでも退屈を紛らわせようと、ギルド経由で図書館の本を取り寄せ、自分のノートも数冊枕元に積んだのはアルド自身だった。
結果として、寝返りのたびにエリシャが本を蹴り落とし、そのたびに拾って積み直すという手間が発生したのだ。
「安静にしろと言ったのは、身体を休めるためだ。本を読むのは、悪くない」
「でも、その本に先生お手製の課題が挟まってるのは悪くないですか?」
エリシャはノートを一冊取り上げ、ぱらりと開いて見せる。
そこには『安静中課題①』『〝封印核〟における〝意味の欠損〟パターンを三つ挙げ、世界側の反応を予測せよ』と、見覚えしかない文字が踊っていた。
アルドはわずかに視線を逸らした。
「あれは……暇だと文句を言ったのはお前だ」
「安静中の弟子の愚痴を、追加課題で封じるのはどうかと思います」
「愚痴の内容が『暇だ』『何かやることをください』だったからだろう」
「それはその、そうなんですけど……」
言い返そうとして、うまく言葉が見つからなかったのか、エリシャはハーブティーのカップを両手で包み込むように持ち上げた。
湯気の向こうで、頬が少し赤くなる。
「まあ、結果的に座学はかなり進んだ。〝封印核〟の命令構造も、ようやくまともに議論ができるレベルになってきたしな」
アルドは窓辺の本の山に視線を向ける。
そこには、エリシャがこの四日間で書き足した研究メモが、何冊か積み重ねられていた。
世界の命令文の構造仮説。
神代語断片と現代語詠唱の対応表。
〝封印核〟の『気まぐれ』に見える挙動を、どこまで『意味の欠損』で説明できるかの試行錯誤。
たどたどしさは残るが、それでもあの夜から比べれば、格段に整理されている。
「……役に立ってるなら、文句は言いませんけど」
エリシャが小さくぼやく。
「文句を言っているように聞こえるが」
「ちょっとだけです。ちょっとだけ、過保護だなって」
過保護、という単語をわざと強調してくる。
アルドは思わず額に手を当てた。
「過保護というのは、無茶な実技を止めることではなく、許すことに使う言葉だと思うがな」
「無詠唱魔法の実験は許してくれたのに?」
「だからこそ、それ以外は徹底的に止めているんだろうが」
「それ、やっぱり過保護だと思います」
きっぱりと言い切られた。
ベッドの上と窓際の机。その間のわずかな距離を挟んで繰り広げられる、口だけの小さな攻防戦。
声の調子も表情も軽いが、その奥には、互いに相手の心配をほどよく隠し合おうとするぎこちない優しさが混ざっている。
「……食べながら口論するな。喉に詰まらせるぞ」
「先生が話を振ってきたんじゃないですか」
「復習をだ」
「復習のあとに、罪状認定をしたのは私です」
自分で言ってくすくす笑う。
その笑い声を聞きながら、アルドはハーブティーを一口飲んだ。
舌に触れる微かな苦味が、眠気を洗い流していく。
「で、その〝過保護〟の師匠は、今日はどうするんですか?」
「どう、とは?」
「実技の許可が出るのか、それとも引き続き座学のみか、です」
エリシャは、期待と覚悟を半分ずつ混ぜ込んだような目でこちらを見つめてくる。
四日目。
肉体的な回復だけ見れば、短い詠唱を伴う初歩魔法くらいなら問題なく撃てるだろう。
だが、針ほどの火花でさえ、彼女の魔力は大きく揺らいだ。
(焦らせる必要はない)
これから向かうのは、ノア=セリアの深部だ。〝封印核〟の〝言葉〟に、再び真正面から触れに行くことになる。
その時、少しでも魔力回路に粗があれば──不用意な命令文の欠損があれば──冗談抜きで命取りになる。
「……今日は、座学だ」
短く答えると、エリシャは「やっぱり」といった顔をした。
落胆半分、予想通り半分、といったところか。
「ただし、簡単なイメージトレーニングくらいなら許す」
「イメージトレーニング?」
「世界の音と俺の声を、どのように聞き分けるか。あの夜の感覚を、言葉だけで再現できるようにしておけ」
実際に光を灯さずとも、頭の中で命令文を書く練習はいくらでもできる。
その精度が高ければ高いほど、実技に移したときの負担は減る。
「わかりました。じゃあ、今日の『安静中課題②』はそれですね」
エリシャはさっそくノートを手繰り寄せ、表紙をぱん、と叩いた。
「誰がそんな課題番号をつけた」
「先生です。①って書いてあったんですから、②もあるに決まってます」
「……そんな法則は知らん」
反論しつつも、頭の中ではすでに、今日やらせるべき項目のリストが出来上がりつつあった。
〝封印核〟に関する理論整理。
エリシャ自身の無詠唱体験の言語化。
そして、ノア=セリア再調査に向けた危険パターンの洗い出し。
アルド自身も手をつけなければならないことばかりだ。
「先生」
「なんだ」
「私、次に遺跡に行くときには、前よりちゃんと役に立てるようになりたいです」
ふいに、真面目な声色が混じる。
エリシャは自分の手のひらを見つめ、その指先をぎゅっと握った。
「先生と、一緒に歩けるように。この前みたいに、たまたまじゃなくて……ちゃんと、同じ力を扱えるようになりたいんです」
その言葉に、胸のどこかがわずかに軋む。
(弟子も、境界線の向こう側に自分から踏み込もうとしているな……)
嬉しくないと言えば嘘になる。
弟子として、これほど頼もしい言葉はない。
だが同時に──危うさも増す。
世界の命令文へと踏み込む足は、一本進むごとに崖の縁へと近づく。
アルドは、わざといつもの調子で返す。
「ならば、まずは朝食を完食するところからだな。魔力も、栄養がなければ回らん」
「……はいはい、結局そこに戻るんですね」
エリシャは呆れたように言いながらも、素直にパンを口へ運ぶ。
スープも、ハーブティーも、残さず飲み干した。
窓の外では、街がゆっくりと目を覚ましつつあった。
行商人が台車を引く音、遠くの鐘の響き、人々の話し声。
そのざわめきから切り離された小さな部屋で、師弟のやり取りだけが、穏やかに続いていく。
嵐の前に与えられた、束の間の静かな朝。
アルドは茶のカップを持ち上げ、そのぬるくなりかけた温もりを掌で確かめた。
(せめてこの数日分の静けさくらいは、あいつの中に残ってくれればいいがな)
そう心の内で呟きながら、アルドは新しいページを開いてペンを取った。
今日の課題と、これから向き合うべき危険と──その両方を、一行一行書き起こしていくために。




