第47話 弟子のチャレンジ
昼下がりの陽が、薄いカーテン越しに部屋を淡く照らしていた。
宿屋二階の窓際の小さな机には、見慣れた革表紙のノートとインク壺が置かれていた。その対角線上には、枕を高くした寝台があり、エリシャが毛布に半分くるまれている。
枕元の小さなサイドテーブルには、湯気のもうもうと立つ薬草茶と、薄い本の山。図書館から借りてきた古い論文の写しと、アルドが自前で作った初歩の魔導理論のノートだ。
ギルドからの話し合いを終えて外に出たとき、エリシャは「じゃあ、この足で図書館に寄れませんか?」と目を輝かせた。しかし、その一歩目で膝がわずかによろめいていて、どうにも心許ない。
いつもなら気にも留めない程度のふらつきだが、今日ばかりは見過ごせなかった。
結局、図書館行きは即座に却下し、エリシャを引き連れ真っ直ぐ宿へ戻ったのだった。
「今日は図書館も勉強も禁止だ。魔力回路の回復に努めろ」
部屋に入るなり、アルドはそう釘を刺した。
今は窓際の椅子に腰掛け、ノートを開いたまま、さらさらとペンを走らせている。
さきほどギルドで決まった条件や、フィルとのやり取り。外部顧問という枠組み。その中で自分がどこまで自由を確保できそうか──そうした事務的な整理を書き留めると同時に、頭の中を一度平らにしているところだった。
「絶対安静って、具体的にどんな感じですか? さすがに寝たきりになるほど体調悪くないですよ」
毛布の山から、くぐもった声が飛んでくる。
エリシャは仰向けになったまま、頬だけ横に向けてこちらを見ていた。毛布に押しつぶされた銀髪が、枕一面にふわりと広がっている。
「実技は一切禁止だな。一週間は座学と休養に専念しろ」
「ええ~……」
「師匠命令だ」
「そこでそれはずるいですよ」
エリシャは不服そうに唇を尖らせたが、それ以上の反論は出てこなかった。
自分でも、身体がいつもと違うことは分かっているのだろう。魔力枯渇の気配は、傍から見ても明らかだった。指先にうまく力が入らず、視線も時々ふっと焦点を外していた。そんな状態で研究などやっても意味が無い。
それでも、彼女が黙って寝ていられる性格でないことはわかっていた。
しばらく本の背を眺めたり、薬草茶を一口飲んだりしていたのだが、案の定それにも飽きたようだ。エリシャはごろりと寝返りを打ち、天井を見上げて長いため息を吐いた。
「はぁ……先生、暇です」
「そういう時のための本の山だろう」
「魔力がないと、あんまり読む気力が湧かないんですよね……」
意味の分からない理屈をこぼしながら、彼女は枕元の本の一冊を手探りで引き寄せる。
だが、ぱらぱらとページをめくっただけで、またぱたりと閉じた。
「そういえば私、無詠唱魔法使ってたんですよね? どうやってやってたんだろ……」
ぽつりと、そんなことを呟いた。
アルドの手が、紙の上で止まる。
(また変なことを考え始めたな)
封印核の暴走時──エリシャは、詠唱を挟まずに防御障壁を展開して見せた。本人の自覚すら追いつかないほどの速さで、ほとんど反射のように。
あれは明らかに偶発的な無詠唱魔法だったが、単なる幸運で片づけるには惜しすぎる現象でもある。
視線だけで様子を窺っていると、エリシャはもそもそと上体を起こし、枕元に置いていた自分用のノートを引き寄せた。
「動くなと言ったはずだが」
「ベッドの中でノート開くだけなので、セーフです」
都合のいい解釈を堂々と垂れながら、膝の上にノートを広げる。まだ筆圧の弱い、丸みのある文字で、日付や簡単なメモが並んでいた。
エリシャは数ページをめくったあと、真っ白なページを開き、膝でノートを支えながらペンを取る。
「えーと……あの時の感じを、書いてみようかなと」
「勝手に実験してないだろうな」
「してません。思い出してるだけです」
ぶつぶつ言いながらも、ペン先はちゃんと紙の上で動き始めていた。
しばらくは、部屋に紙とペンの擦れる音だけが続く。やがて、エリシャが小さな声で書きながら読み上げた。
「えっと……音が消えて、意味だけが残ってる感じ、でしょうか。あ、でも先生の声だけははっきりしてて……」
そこで、アルドは椅子を静かに引いた。
ぎし、と木が鳴る小さな音に、エリシャが顔を上げる。
アルドは手に持っていた自分のノートもそのまま持参し、寝台のそばまで歩み寄った。
「ふむ……」
彼女のノートを覗き込むと、なるほど、『音が消えて意味だけが残る』だの、『透明な幕の向こうから聞こえる』だの、たどたどしい比喩がいくつも並んでいる。
拙いが、だからこそ、生の感覚に近い。
「先生?」
「いいから、そのまま続きを話せ」
アルドは自分の椅子を寝台の横に引き寄せ、腰を下ろした。
自分のノートも膝に置き、羽ペンを構える。
「何を見ていた? それは文字に近いか、音に近いか」
「へ?」
唐突な質問に、エリシャが瞬きをする。
「俺の声と世界の声は、どう違って聞こえた?」
「あ、えっと……」
問いの意図を掴みかねている様子だが、素直に記憶を辿ろうとする。
エリシャは一度目を閉じ、毛布の上でぎゅっと拳を握った。
「あの時、世界の音が全部遠のいて……先生の声だけが、一番近くにありました」
それを聞いた瞬間、アルドはペン先を走らせる。
〝世界の音〟と〝アルドの声〟。
刺激の優先順位、といったところだろうか。認知の焦点がどこに結ばれていたか──それは、そのまま魔力回路がどこに最短経路を結んだか、という話でもある。
「世界の音が遠のく、というのはどういうことだ? 具体的に言え。人の声か、風の音か、魔力のうねりか」
「ううん……人の声は、全然聞こえなくなってて。風とか、建物の軋む音とかも、たぶん、全部消えてました。代わりに、何て言えばいいんでしょう?」
エリシャは言葉を探しながら、眉間に皺を寄せる。
「……本のページをめくる前に、『次のページにはこういう内容が書いてあるんだろうな』って、なんとなく分かる時ありませんか?」
「人によるだろうな」
「ですよね。でもそんな感じで、『世界が何をしようとしてるか』だけが、すごく近くに感じられたというか」
「世界が、何をしようとしているか、だと?」
アルドはそれを繰り返し、余白に簡単な図を書き始める。
円をひとつ描き、『世界』と書く。その周囲に、風、音、魔力、とラベルをつけてみる。
そこから一本だけ線を伸ばし、『命令』と記す。
「先生、何描いてるんですか?」
「お前の感覚を、第三者が見ても分かる形にしている」
アルドは図に、さらに矢印と注釈を加えた。
「お前には、世界が『音』としてではなく、『命令』として感じられた。だからうるさい雑音を全部遮断して、その命令の芯だけを掴もうとした。それで間違いないか?」
「……えっと、はい。たぶん」
エリシャは、自分でもよく分かっていない感覚を必死に追いかけながら頷く。
アルドは唸るように「ふむ」と低く声を漏らした。
「俺の声は、どう聞こえていた?」
「先生の声は……」
エリシャは少し頬を赤くしながら、視線を泳がせた。
「えーと、その……『世界に割り込んでくる声』って感じでした」
「割り込んでくる?」
「はい。世界が『こうなるよ』って決めてるみたいな流れがあるのに、先生が『いや、それは違う』って、ぐいって引っ張ってくるような……。それで、世界の言葉と先生の言葉が、ぶつかって、混ざった、というか……」
説明している自身も、何を言っているのか分かっていないような顔だ。
だが、その曖昧さこそが重要だ。
「……なるほどな」
アルドはノートの余白に、さらに細かい図式を描き込んでいく。
『世界の命令文』『アルドの命令文』のふたつが干渉し合い、エリシャの中で〝ひとつの文〟になっていた──そう仮定する。
無詠唱防御は、アルドを守るための反射だった。
世界の「攻撃しろ」という命令と、アルドの「守れ」という命令。
そのふたつの矛盾が、エリシャという媒介を通して新しい命令に書き換えられたのだとすれば──。
「おお……これは研究ノートとしても価値が高いぞ!」
思わず声が弾んだ。
客観的な記録としても貴重だが、それ以上に、自分の仮説と合致する部分が多すぎた。
神代語の断片性。世界への書き換え。命令の交差点としての魔導師。学院で誰もまともに取り合わなかった仮説が、いま目の前で、一人の弟子の体験として裏付けられようとしている。
「寝てろって言ったのは先生なのに」
エリシャが苦笑しながら、枕に頬を押しつける。
「ベッドの上で聞き取りを受けているだけだ。実習とは言わん」
「屁理屈ばっかり。でも、役に立ててるなら、ちょっと嬉しいです」
その言葉に、アルドはほんの一瞬だけペンを止めた。
無茶をした結果、魔力を使い切って倒れた弟子が、「役に立てて嬉しい」と笑っている。
叱るべきか、誇るべきか。判断に迷ってしまった。
「偶然の反射は、二度と起きないからな。それを再現可能な技術にするための作業だ」
結局、選んだ言葉は、いつも通り理屈くさいものになった。
エリシャは、少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑う。
「先生らしいですね」
そこで一息区切りがついたのか、彼女はノートを胸の上に置いたまま、しばらく天井を見つめていた。
薄い睫毛が、光を受けて淡く影を落とす。
やがて、何かを思いついたように、そっと右手を持ち上げた。
「先生」
「なんだ」
「ちょっとだけ、やってみてもいいですか?」
その一言に、アルドの眉がぴくりと動く。
「やってみる、とは?」
「さっき言語化した感覚をなぞって……指先だけ、ほんの少し、光らせてみたいなって」
言いながら、自分でも分かっているのだろう。
魔力枯渇中に無詠唱の真似事をしようとするのが、どれだけ無茶な話か。
だが、目は真剣だった。好奇心と恐れと、少しの自信とが、複雑に混ざった色をしている。
(ここで完全に拒絶すべきか……)
迷いが、わずかに胸を掠める。
無詠唱領域は、危険だ。
世界の命令文に直接介入するということは、失敗すれば世界に拒絶されるということでもある。
だが──。
今この瞬間の感覚を、ただの「一度きりの奇跡」として流してしまえば、二度と同じ場所には辿り着けないかもしれない。
アルドは小さく息を吐き、条件を付けることにした。
「……指先だけの光なら、許す」
エリシャの瞳がぱっと明るくなる。
「本当にいいんですか?」
「一度きりだ。二度目はないと思え」
「はいっ」
元気な返事をした途端、軽く眩暈でも覚えたのか、エリシャは「う」と小さく掠れた声を漏らし、毛布を握りしめた。
「深呼吸しろ。慌てるな」
「は、はい……」
エリシャは胸の上に置いていたノートを脇へずらし、右手をそっと持ち上げる。
手のひらを自分の顔の前にかざし、ゆっくりと、何度か呼吸を整えた。
吸って、吐いて。
昨日と同じように──ただし、今度は意図的に。
アルドは椅子の上で身を乗り出し、彼女の指先と表情を交互に見る。
「さっき言っていた『世界の音』を思い出せ。周囲の雑音を、意識の外に追いやれ」
「……わかりました」
エリシャの睫毛が震え、瞳が薄く閉じられる。
「俺の声だけを、拾え。世界が何をしようとしているかではなく、俺がさせたいことを優先しろ」
「先生が……させたいこと……」
ささやきが、唇から零れる。
部屋の中は静かだった。窓の外の喧噪も、扉の向こうの足音も、今はほとんど耳に入らない。
アルドは、一語一語、慎重に言葉を選ぶ。
「世界は、お前の指先から光を奪おうとしている。だが、俺はそこに、ひとつだけ、小さな灯りを灯したい」
「……小さな、灯り」
「お前がそれを許せば、世界も、そう悪い顔はしない」
言いながら、自分で苦笑したくなるような理屈だ。
だが、イメージの導線としては悪くない。
エリシャの喉が、ごくりと小さく鳴る。
次の瞬間──ぱち、と針の先ほどの火花が、彼女の人差し指の先端で跳ねた。
ほんの一瞬、豆粒ほどの光が形を取り、すぐに空気へと溶けて消える。
「……っ」
同時に、エリシャの身体から力が抜けた。
「おい、大丈夫か」
アルドが慌てて身を乗り出すより早く、彼女はふらりと上体を傾け、寝台に倒れ込む。
肩に手を回して支えた感触は、思った以上に軽かった。
頬はうっすらと紅潮し、呼吸は少しだけ早い。
だが、意識はある。焦点の合わない目で天井を見つめながら、エリシャはゆっくりと瞬きをした。
「今日はここまでだ」
アルドは苦笑混じりに告げる。
「はい……でも、私にもできました」
眠気と疲労に滲んだ声で、エリシャがぽつりと呟いた。
その横顔は、子どものようにあどけなく見える。
だが、指先に走ったあの火花は、紛れもなく「境界線の向こう側」への手がかりだった。
「ああ。立派な、第一歩だ」
アルドは小さく頷き、彼女の肩をそっと枕へ戻す。
毛布を胸元まで引き上げると、エリシャは安心したように目を細め、そのまま瞼を閉じた。
数呼吸もしないうちに、寝息が聞こえ始める。
窓から差し込む昼下がりの光が、薄くなった彼女の頬の陰影を柔らかくなぞっていた。
(……第一歩、か)
椅子に腰を下ろし直しながら、アルドは自分のノートに視線を落とす。
余白には、さきほど書き殴った図式や、エリシャの比喩表現が並んでいる。
弟子が境界を一歩踏み越えたことは、純粋に嬉しい。錆びついたと思っていた自分の研究が、また動き出した。自分ひとりでは届かなかった領域に、彼女となら手を伸ばせるかもしれない。
だが同時に──。
(危険な領域に、足を踏み込ませているのも事実だ)
無詠唱は、常に世界との綱引きだ。
一歩誤れば、引きずり込まれるのは、世界ではなくこちら側でもある。
エリシャの寝顔を横目に見た。
すやすやと眠るその表情には、不安の影ひとつ見えない。
それが、余計に胸に重くのしかかる。
「……まあ、だからこそ、俺が横にいる意味があるんだろうが」
独りごちるように呟き、アルドは再びペンを取った。
ノートの片隅に、新しい見出しを書き込む。
『弟子における無詠唱発現の第一記録』
その下に、今日の出来事をひとつひとつ、取りこぼしのないよう書き連ねていく。
弟子の成長と、その向こうに口を開けている危険の形を、両方とも、目を逸らさずに見つめるために。
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