第44話 フィル=ナルカスの登場
ギルド本部の建物は、朝の日差しを受けて白く光っていた。
石段を上り、重い扉を押し開ける。
中に入ると、いつも通りのざわめきと紙の擦れる音、インクと汗と酒が混ざったような匂いが、むっと鼻先を撫でた。
受付カウンターの前には、すでに数人の冒険者が列を作っている。任務の報告をする者、今日の依頼票を覗き込む者。みな、昨夜の騒ぎが嘘のように、いつもの日常へと戻りつつあった。
そんな喧噪の中で──カウンターの奥から、こちらに向かってひらひらと手を振る影がひとつ。
「待ってたわよ、魔導師師弟コンビさん」
アリア=ガーネットだ。
いつものように赤髪を緩く巻いており、帳簿を小脇に抱えていた。頬にはいつもの軽い笑みを浮かべている。
ただ、その笑みの端に、今日は少しだけ含みがあった。
受付まで近づくと、彼女はカウンター越しに身を乗り出し、にやりと口角を上げた。
「いいニュースと面倒なニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
唐突な二択に、アルドは思わず眉間に皺を寄せた。
経験上、こういう言い方をする時は、どちらから聞いても大概ろくなことがない。いいニュースの影には、たいてい倍ほどの面倒事がぶら下がっているものだ。
「面倒な方からで頼む」
ため息混じりに答えると、アリアは「やっぱりそう言うと思った」と肩をすくめた。
「はい、じゃあこっちね」
机の下から取り出したのは、濃紺の封蝋で留められた書簡だった。
封蝋には、王家の紋章と、見慣れた書体の刻印。
「王都からよ」
意味ありげにそう言って、アリアは紙束を指先でつん、と突く。
わざわざギルドが宿まで通達を寄越した理由が、ようやく輪郭を現した気がした。軽い用件であるはずがない。
アルドは封蝋に指をかけ、ぱきりと割る。
中から、丁寧な筆致で綴られた文章が現れた。
冒頭には、礼辞が連ねられている。
王立考古学会および王都軍からの、リーヴェ防衛と封印核沈静化に対する「感謝」。街と王都を救った功績とやらについて、いかにも役所らしい言い回しで、長々と褒め言葉が続いていた。
その部分を、アルドはほぼ一息で読み飛ばした。問題はその次だ。
視線が、ある文言で止まる。
『ノア=セリア第二次調査への参加を要請したく──』
眉がぴくりと動いた。
続く一文には、さらに細かい「要請」が記されている。
『アルド=グランおよびエリシャ=リュミエールを、王都所属の調査魔導師として登録し、当該調査並びに関連研究に従事させたい』
紙の上の文字を、二度、三度と読み返す。
間違いであってほしいと思ったが、残念ながら現実らしい。
「……なるほど」
思わず口の中で呟いた。
隣で手を伸ばしてきたエリシャが、背伸びするようにして書簡を覗き込む。
上から読ませてやると、彼女はすぐに目を丸くした。
「わあ。ノア=セリアの調査、本格的にやるんですね」
素直に、嬉しそうに目を輝かせる。
封印の遺跡と古代語の研究が、彼女にとって魅力的でないはずがない。
対照的に、アルドの視線は冷えている。
「つまり、今度は王都の看板の下で働けということだろう?」
皮肉混じりに言うと、アリアは「あー」と気まずそうに頭を掻いた。
「そこ、引っかかるよねぇ。ほら、一応いいニュースの方とセットだから許して?」
「これのどこにニュースがある? まさか、王都の学会に所属することがか? 冗談じゃない」
肩を僅かに竦めながら答える。
かつて学院の看板の下で散々な目に遭った身としては、『所属』という二文字には、どうしても警戒心が先に立つ。
「でも、先生の研究に必要な資料も見れるんじゃないですか?」
エリシャが期待を滲ませた声で口を挟んだ。
王都所属となれば、王立図書院や学会の資料庫に、正式な形でアクセスできる。ノア=セリア関連の一次資料も、〝封印核〟の設計図も、きっと山のように保管されているはずだ。
その利点は、アルドも理解している。それがいいニュースに含まれる、ということも。
「わざわざ所属する代償に見合うほどか? 資料なら、この街の図書館だけでも十分だろう」
ここしばらく、図書館に籠もって文献を漁る生活を続けていた。
さすがは交易都市にあるというべきか、リーヴェの図書館はよく整っている。古い論文や報告書の写しも残っているし、何より、誰の顔色も窺わずに読める。
そこが何より大きい。どこかの組織に所属すれば、必ず「外向けの顔」が付きまとう。
報告書の体裁、会議、承認印、政治的な配慮。学問には本来不要なはずのものが、いつの間にか本体を侵食していくのだ。
学院で身に染みた。あの窮屈さを思い出すと、それだけで胃の奥がじわりと重くなった。
「まあ、言いたいことはわかるけどね」
アリアが、帳簿の角で軽くカウンターを叩いた。
「あなたがそう言うのも予想済してたみたいでね。王立考古学会の学者さんが、勧誘に直々に来るそうよ。……あっ、ほら。噂をすれば」
言ってから、顎で入口の方をしゃくった。
アルドもつられてそちらを見る。
重い扉が開き、ギルドの場には少し場違いな雰囲気の人間が、遠慮がちに中へ足を踏み入れたところだった。
学者風の青年。襟元のきちんとした白衣、肩から斜めにかけた本革の鞄。ギルドの粗野な空気の中で、その姿だけが妙に浮いて見える。
「あいつは……」
見覚えのある顔だった。
青年は周囲をひと回り見渡したあと、アルドたちを見つけると、ほっとしたように表情を緩めた。
そして、ぺこりと深く頭を下げ、駆け寄ってくる。
「どうも、昨日ぶりです。アルドさん」
「うむ」
王立考古学会・魔導遺物班所属の若手研究者、フィル=ナルカス。
封印核の管理責任者として、昨日の現場にも顔を出していた男だ。
アルドの返事に、フィルは真面目な笑顔で頷いた。
隣で、エリシャが小首を傾げる。
「先生、この方は……?」
そういえば、とアルドは内心で頷いた。
アルドがフィルと話したのは、エリシャを治癒班に任せてからだ。フィルとは面識がない。
「こちらは、王立考古学会のフィル=ナルカスだ。昨日の封印核の件で、現場にいた研究者だな。ノア=セリアと封印核を担当しているそうだ」
簡潔に紹介すると、フィルは慌てて両手を振った。
「い、いえ、担当なんて大層な役ではありませんよ。ただの一研究員です。フィル=ナルカスと申します。エリシャさん、ですよね? 昨日は本当に、お世話になりました」
「いえ、そんな……。エリシャ=リュミエールです。よろしくお願いします」
エリシャもぺこりと頭を下げる。
フィルも「こちらこそ」と慌てて会釈する。
そんな三人のやり取りを見届けてから、アリアがぱん、と手を鳴らした。
「メンツも揃ったことだし、会議室に移るわよ。あまり大声でできる話でもないしね」
アリアがカウンターの鍵束を手に取り、ぱらりと鳴らした。
早速周囲の冒険者たちが、「おお、何だ何だ?」と好奇と羨望の入り混じった視線を投げてきた。しかし、アリアの一睨みで、すぐに自分の仕事へと視線を戻す。
荒くれ者よりも、ギルド受付嬢の方がどうやらここでは強いらしい。
(まあ、あまり人が多い場所でする話でもないな)
確かに、この場で王都だの学会だのという話を続ければ、冒険者たちの耳目を集めるのは必至だ。
アリアの案内で、四人はギルド本部の奥へと足を向けた。




