第43話︎ ギルドからの呼び出し
朝の光は、昨夜の喧騒が嘘のように静かだった。
宿屋の二階の一室。窓辺の小さな机には、革表紙のノートと擦り切れた羽ペン、インク壺が並んでいる。
アルドは椅子に腰掛け、そのノートに黙々とペンを走らせていた。
昨日の戦闘経過、暴走した封印核の反応の推移、守護獣戦との類似点と相違点。そして──神代語の命令構造に対して、自分がどう介入したのか。淡々と、しかし抜けのないように、記憶を掬い上げていった。
紙の上に落とさなければ、細部はあっという間に霧散してしまう。今はまだ鮮明に焼き付いている感覚も、時間が経てば必ず薄れる。だからこそ、こうして朝一番の頭が冴えているうちに、実験ノート代わりのこの記録を埋めておく必要があった。
(……やれやれ。にしても、あの暴走域の圧力はどうにもならんな)
昨夜もざっとまとめはしたが、改めて思い返すと胃が重くなる。
あれを正面から抑え込もうとしたのは、明らかにアルドの判断ミスだ。あの時は焦っていたから仕方ないとはいえ、もっといいやり方があったかもしれない。それに、弟子を付き合わせてしまったことも減点だ。エリシャが無茶をすることなど、とうにわかっていたというのに。
昨日の決断を悔やんでいたところで、背後の寝台から毛布の擦れる音がした。
振り返らなくても、様子はだいたい想像がつく。エリシャが毛布の中で寝返りを打ったのだろう。
アルドはペン先をインクに浸し直しながら、窓の外に視線だけ投げた。
石畳の路地に、パン屋の小僧が走っていく。まだ湿った朝の空気の中、露店の準備をする音が遠くから届いていた。
そんな街の目覚めとは対照的に──部屋の中では、ひとりだけ、なかなか完全には目覚められない者が一人。
「うぅん⋯⋯」
小さな唸き声とともに、布団の山がもぞもぞ動く。
やがて、毛布の中から、銀色の髪と、寝癖混じりの頭頂部だけがひょこっと顔を出した。
エリシャは、まだ半分夢のなかにいるような目で、自分の右手を持ち上げてじっと見つめる。そして、指先に意識を込めるように、ぎゅっと目を閉じた。
「…………」
沈黙。何の変化もない空気。
彼女はもう一度、今度は反対の手も添えて、指先に魔力を集めようとした。詠唱のきっかけになる呼吸だけを整え、声は出さずに、魔力の流路だけをなぞるつもりなのだろう。そして、その数秒後。
「……はぁ」
情けないほど拍子抜けした溜め息が漏れた。
指先はぴくりとも光らない。かすかな熱も、静電気さえも生じなかった。
「やっぱりダメでした」
エリシャは、毛布に顔半分まで沈み込ませた。
睨み付けるように自分の手を見つめ、もう一度だけ集中してみるが、結果は同じだ。
ベッドの上で膝を抱えたまま、肩ががっくりと落ちる。
アルドはその様子を、ノートから視線だけ外して横目で見た。
表面的な傷はすっかり癒えている。だが、表情はまだどこか抜けていて、いつものしゃきっとした張りがない。目の下にはわずかな陰りが残り、動きも全体的に緩慢だ。
「まあ、予想通りだな。気にするな」
「寝たら治ると思ったんですけどねー」
「治ってはいるさ。完治していないだけでな」
「むぅ~⋯⋯」
エリシャは不満そうに頬を膨らませ、指先を睨みつけた。
魔力枯渇は、単に「撃てない」だけでは済まない。
細かい集中力が効かず、身体の芯がうまく温まらないのだ。頭の回転も、普段より半歩ずつ遅れる。魔導師にとっては、心許ないことこの上ない状態だ。
机の上のノートをぱたりと閉じると、アルドは椅子から腰を上げた。
窓際に置いてあった小さな髪櫛に指を伸ばす。
「ほら、もうすぐ朝食だぞ。準備しておけ」
軽く声をかけると同時に、掌の上で小さく魔力を回した。
無詠唱の〈浮遊魔法〉で重力を刈り取り、髪櫛の重さをほんの少しだけ軽くする。
次の瞬間、髪櫛はふわりと宙に浮かび、するりと弧を描いてエリシャの方へ滑っていく。
「わっ」
エリシャは慌てて手を伸ばし、飛んできたそれをなんとか受け止めた。
指に収まった瞬間、ほっとしたように息を吐き、顔を上げる。
「ありがとうございます」
まだ寝癖の残った髪を、彼女は少し照れたように撫で、それから髪櫛を通し始めた。
毛布から身を抜き、ベッドの端にちょこんと腰掛けて、上から下へ、丁寧に梳かしていく。
動きそのものはいつも通りだが、ひと撫でごとに少しだけ力が抜けるのか、時折ふらりと上体が揺れた。
「無理なら、今日は結わずにそのままでも──」
「嫌です。これくらい、ちゃんとさせてください」
こちらの言葉を遮るように、エリシャは小さく首を振る。
その頑固さに、小さく息を吐いた。
ほどなくして、銀髪はいつものように整えられた。
窓から差し込む朝の光が、髪の筋に沿って淡く反射する。
洗面台で顔を洗い、簡単に身支度を整える。
アルドはローブの襟元を正し、エリシャもいつもの学生用ローブを羽織ろうとして──袖を通した瞬間、少しだけ肩を竦めた。
「……やっぱり、身体が重いですね」
「当然だ。昨日一日で、数日分以上の魔力と体力を使ったんだ。今日一日どころか、数日は無理は禁物だぞ」
「はぁい」
素直な返事だけはいい。
問題は、その素直さが、そのまま「頑張りすぎ」に繋がるところだが。
ふたりは部屋を出て、一階の食堂へ降りていった。
朝の食堂は、すでに数組の客で賑わっていた。
行商人風の男がパンをかじりながら書き付けを読み、子連れの夫婦が慌ただしくスープを掻き込んでいる。昨夜遅くまで飲んでいたのか、カウンターの端ではうつらうつらしている冒険者もひとり。
厨房からは、焼いた肉と玉ねぎの匂いが漂ってきていた。
女将が手早く皿を運び、忙しなく動き回っている。
「あんたたち、こっちおいで」
アルドたちが姿を見せると、女将は手を振って二人を隅のテーブルに案内した。すでにパンとスープと、薄く焼いた卵とハムが二人分並べられている。
「さ、冷めないうちに食べな」
「いつも世話になる」
アルドは軽く礼を言い、席についた。
エリシャも向かい側に腰を下ろし、パンを手に取る。
まだ動きはどこかぎこちないが、スープをひと口飲んだ瞬間、「あっ」と小さく声を漏らした。
「おいしっ⋯⋯」
「冷たい朝に熱いものを胃に入れるのが、一番の薬だ」
そう言いながら、アルドもスープを啜る。
素朴な味だが、出汁の旨味が効いていて、疲れた胃に優しかった。
ハムを一切れ口に運び、パンをちぎった頃。厨房から一仕事終えた女将が、ふたたびこちらの卓へと近づいてきた。
「あ、そうだそうだ。忘れるところだったよ」
皿を拭いていた手を止め、腰に手を当てる。
「そういえばあんたたち、今朝ギルドから通達が来てたわよ。できれば今日来てほしいって」
「ギルドが?」
アルドはパンを持ったまま、女将を見上げた。
わざわざ宿に通達とは。
昨日の報告会は一通り済んだはずだ。報酬だって受け取った。急ぎの追加依頼という線も……なくはないが、さすがにあの翌日にまた危険度の高い仕事を投げてくるとは思いたくない。
「書き付け、預かってるよ。ほら」
女将はエプロンのポケットから、小さく折られた紙片を取り出して、テーブルに置いた。
ギルドの紋章入りの封蝋で簡単に留められている。
アルドはそれを取り、封を切った。中にあったのは、ごく短い一文。
『本日中に一度ギルドまで。できれば午前中を希望』
差出人は、アリアの名前だった。
(……依頼ではなく、連絡事項か)
アルドは一度紙を畳み、指先でとんとんとテーブルに押し付ける。
ちらりと視線をエリシャへ向けると、彼女はパンを持った手を止めて、こちらを見返してきた。
「何かあったんでしょうか」
「少なくとも、緊急の討伐ではなさそうだ。そんな用件なら、わざわざ『できれば午前中』なんて書かん」
「ですね。よかったです」
エリシャは、ほっと安堵の息を吐いた。戦いそのものよりも、街が再び危険に晒されている可能性を心配していたのだろう。
アルドは紙を畳んだまま、もう一度、弟子の様子を観察した。
スープの器を持とうとして、指先がほんのわずかに震える。パンをちぎる時も、力の入り具合が不安定だ。魔力だけでなく、体力そのものもまだ戻りきっていなかった。普段なら、これだけで「今日は一日寝ていろ」と命じるところだ。
だが、ギルドがわざわざ宿にまで通達を寄越してきたのは引っかかる。昨日の件で、何か追加で確認したいことができたのかもしれない。
アルドがちらりとエリシャを見ると、彼女はぱっと顔を上げた。
「私なら大丈夫ですよ。行くくらいなら、ですが」
困ったように笑って、肩を竦めた。
戦闘は無理だと自覚しているのだろう。「行くくらいなら」という但し書きが、その線引きだ。
(まあ、行くだけ行くか……)
ギルドの舗道までは、大した距離ではない。
万が一、途中でふらつくようなら、途中で引き返すなり、ベンチで休ませるなりすればいい。
「わざわざ宿に通達を出したのも気になる。一旦、食後に行ってみることにしよう」
「はい」
エリシャは素直に頷き、残りのパンを少し大きめにちぎって口に運んだ。
まだ食欲の方は十分残っているらしい。その様子を見て、アルドは内心で少しだけ肩の力を抜く。
女将がふっと笑った。
「ギルドも忙しいねえ。あんたたちみたいな腕のいいのがいると、そりゃ頼るのも分かるけどさ」
「ほどほどにしてもらえると助かるな。弟子がこの有様だ」
アルドが肩越しに弟子を示すと、エリシャは「有様って言い方はひどいと思います」とむくれながらスープを飲んだ。
そんなやりとりに、女将は「仲がいいこと」と呟いて、別の客の相手に戻っていった。
朝食をゆっくりと終え、食器をまとめる。
エリシャが立ち上がるとき、アルドは反射的に手を伸ばし、椅子の背に添えた。彼女がふらついて倒れないよう、支えるために。
──だが、エリシャは自分でぐっと足に力を込め、まっすぐ立ち上がった。
「もうっ、先生ったら。大袈裟ですよ?」
そう言って、軽く笑う。
その笑みは、まだ本調子とは言えないが、昨夜よりはいくらか血色が戻っていた。
「倒れる前に言えよ」
「倒れる前に言います。……たぶん」
「『たぶん』をやめろ」
小さく叱りつけると、エリシャは「はぁい」と気のない返事をした。
どうにも頼りない返事だが、何も言わないよりはマシだ。
会計を済ませ、宿の扉を押し開ける。
外の空気は、ひんやりとしていて気持ちが良かった。
昨夜の煤煙の匂いはほとんど消え、代わりにパン屋や露店から漂う香りが街路を満たしている。
東の空はすでに高く、陽光が石畳を明るく照らしていた。
行き交う人々の表情も、いつもの朝と変わらない。荷物を抱える商人、果物籠を下げた少女、兵士たちは門へ向かって歩いていく。
ほんの一日前まで、この街に滅びかけた未来があったなど、誰も想像しないだろう。
「行くぞ」
「はいっ、先生」
アルドはギルドの建物がある方角へ歩き出す。
新しい一日の始まりだ。




