第42話 弟子の幸せ
食堂にて簡単な夕食を済ませたあと、アルドたちはすぐに部屋へ戻った。
窓際に並んだ二つの寝台。壁際には小さな丸机と椅子が二脚。洗面台の上には、さっき宿の女将が新しく替えてくれたタオルと貸し出し用のローブが畳んで置かれている。
エリシャは寝台の端に腰掛けていた。
治癒魔法で表面的な傷はほとんど消えているが、まだどこか力の入らない座り方だ。
「腕を見せろ」
アルドが言うと、エリシャは素直に袖をまくった。
暴走波に焼かれた箇所は、もう完全に治っていた。傷跡が残っておらず、思わず安堵の息を吐く。
「痛みは?」
「もうありません。すっかり元気です」
言葉通りではあるのだろう。だが、魔力の気配は相変わらず静かだ。
井戸が空になったあと、底に残った石の冷たさだけを手探りしているような、そんな感触。
(……このまま寝かせてもいいが)
アルドは少しだけ考えてから、椅子を引き寄せてエリシャの前に座った。
「少し俺の魔力を送ってみるか」
「えっ。いいんですか?」
目を丸くする弟子に、アルドはあっさり頷いた。
「枯渇した状態から少しでも戻しておいた方が、身体も楽になる。……手を出せ」
「はい」
エリシャがおずおずと両手を差し出す。
その小さな手のひらを、自分の手で包み込むようにして握った。
ひやりとした感触。魔力を失った人間特有の冷たさだけが残っていた。
「目を閉じて、楽にしていろ」
「……はい」
エリシャの睫毛が、すっと伏せられる。
アルドは深く息を吸い込み、意識を内側へと沈めていった。
自分の魔力の流れを捉え、掌からそっと押し出していく。穏やかな水流を、細い管へと注ぎ込むようなイメージで。
指先から、微かな温もりが染みていく。エリシャの魔力回路へと、自分の魔力が流れ込んでいく──はずだった。
しかし、その管の先に水の溜まる気配がない。いくら注ぎ込んでも、底に吸われてしまうような感覚だった。
魔力を受け取る器そのものが、まだ目を覚ましていないのだ。
しばらく様子を見ていたが、流れは一向に変わらなかった。
アルドは、やがて静かに息を吐いて、手を離す。
「……うむ。ダメか」
呟くと同時に、エリシャがぱちりと目を開けた。
「やっぱりしばらく休むしかないですね……すみません、先生の魔力を送って頂いたのに」
「いや、構わん。これまで魔力を枯らしたことは?」
「ありません。今回が初めてです」
だろうな、とアルドは大きく溜め息を吐く。一度でも枯渇したことがあれば、枯れる直前に無意識にセーブしてしまいそうなものだ。
ただ、先ほど彼女の魔力回路に触れてわかったことだが、広い回路と同時に膨大な魔力量を貯蔵する器を併せ持っていた。普通なら、まず枯渇することなどない量だ。
「まあ、今は土台を起こすだけで手一杯という感じだな。こういう時は無理に水を流し込むより、地下水が戻ってくるのを待った方が早い」
「地下水ですか」
「井戸だと思え。今日のお前は、底まで全部汲み上げた。今は、石と土しか残っていないだけだ。しばらく経てば、その隙間からまたじわじわ湧いてくる」
「……なんだか、想像すると余計に疲れた気がします」
エリシャがくすっと小さく笑った。
その笑い方が、妙にいつもの調子と変わらないのが、逆にアルドの胃をきりきりさせる。
あの丘の上で吹き飛ばされた時の光景が、脳裏に貼り付いていた。黒い奔流と跳ね上げられた華奢な身体。もし落ちどころが悪ければ、首の骨が折れていてもおかしくない。
「頼むから……本当にもう、ああいう無茶はやめてくれ」
思わず、声が低くなる。
エリシャが驚いたように瞬きをした。
「先生?」
「弟子が吹っ飛ぶ様を見なきゃいかん身にもなってくれ。正直、気が気でなかったぞ」
さっきの繰り返しにはなってしまうが、それでも言わざるを得ない。
だが、当の本人は、申し訳なさそうにするどころか──少しだけ、困ったように笑っただけだった。
「先生に助けて頂いた命ですから。先生のために、使いたいんです」
柔らかく、けれど揺るがない声音でそう言って、エリシャは瞳をゆっくりと閉じた。
「だから、たぶんまた無茶しちゃうと思います」
「開き直るな」
即座に突っ込むと、彼女は「ですよね」と肩をすくめて笑った。
困った弟子だ。本当に。だが、その言葉の裏にあるものを思うと、頭ごなしに否定する気にもなれない。
しばしの沈黙の後、ふと何かを思い出したように、エリシャがおずおずと切り出した。
「そういえば」
「ん?」
「さっきギルドで学会の話が出てましたけど……先生はあの人たちのこと、あまり信用していないんですよね」
「……まあ、な」
アルドは小さく嘆息して、椅子にもたれかかった。
否定はしない。いや、実際に信用をするつもりはなかった。
「学院でも似たような連中は山ほど見てきた。机の上で〝わかったつもり〟になって、実際に何かを動かしてもいないのに、理屈だけで物事を語る奴らだ」
かつて、学院で行っていた禁呪の研究。
誰からも理解はされなかった。狂っている、とさえ言われたこともある。危険性だけを騒ぎ立てた者もいた。そのくせ、立場と嫉妬をこじらせて、偽証まで仕立て上げた者もいる。挙句に除籍だ。まさに踏んだり蹴ったりな学者生活だった。
「結局、ああいう連中が封印やら古代の遺物を触りたがる。自分たちは賢いから扱いを誤らない、と思い込んでな」
今回の管理核にしたってそうだ。
文献上は『封印の補助』『守護』と読めるからといって、実物を完全に理解したわけでもないのに、街の中まで運び込んだ。
その結果があの光の柱であり、魔獣の氾濫だ。愚かにも程がある。
「ですね……今日だって、先生がいなかったら、リーヴェは滅んでいたかもしれません。あの人たちも、〝封印核〟の本当の怖さに気づかないままだったと思います」
エリシャの言葉には、さほど誇張がない。
実際、あのまま暴走が続いていれば、この街は地図から消えていた可能性だってあっま。その場合は、学者連中が〝封印核〟の怖さに気付く機会すらなくなっていただろうが。
「わかってくれたらいいんだがな」
「これでわからなかったら、救いようのないバカ組織ですよ」
エリシャはそう言って、くすりと笑った。
その物言いの容赦のなさが可笑しくて、アルドもつられて口元を緩める。
「言うようになったな」
「先生の影響です」
「それは心外だ」
軽口を交わしたあと、部屋にふっと静けさが降りた。
学院を追われた身としては、学問の看板を掲げる組織そのものに、どうしても冷ややかな視線を向けてしまう。だが、フィルのような真面目な若い研究者もいることは確かだ。
今日の一件が、彼らの目を少しでも開いてくれればいいのだが──。
そう思って、アルドはふと視線を窓の方へと向けた。
窓の外では、リーヴェの街灯りが穏やかに瞬いている。さきほどまで死と隣り合わせだった街が、何事もなかったかのように、いつもの夜を取り戻していた。
エリシャも同じ方角を見て、ぽつりと呟いた。
「大変でしたけど……この街を守れたのは、ちょっと誇らしいですね」
「……そうだな」
エリシャの言葉に、アルドは小さく同意した。
守ったのは街であり、人々であり──そして、目の前の弟子でもある。そのうちのどれが欠けても、おそらく今のこの静けさは得られなかっただろう。
視線は窓の外ではなく、自然と彼女の横顔へと向いていた。
窓の外の灯りが、その柔らかに微笑む横顔を淡く縁取る。その横顔を見ていると、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
(……本当に、厄介な弟子だ)
守りたい対象が、街でも学問でもなく、目の前の少女ひとりになってしまいそうで。それが少しだけ、怖かった。
アルドは、気持ちを切り替えるように軽く咳払いした。
「そういえば……また、褒美を与えねばな」
「褒美? 私にですか?」
エリシャがぱちくりと目を瞬かせた。
「ああ。お前、今日無詠唱魔法を使えていたじゃないか」
「ええ!?」
がたん、と寝台が軋む音がした。
エリシャが勢いよく立ち上がりかけ、そのままふらりとよろける。
「わ、私がですか!? いつ!?」
「落ち着け」
結局アルドに肩を押さえられて、慌てて座り直すはめになっている。
やはり、自覚はまるでないらしい。
「俺を守ってくれた時だ。無詠唱で〈魔法障壁〉を使っていたじゃないか」
「え、ええ……?」
エリシャの視線が宙をさまよう。
あの、黒い奔流が押し寄せた瞬間。エリシャは咄嗟に腕を伸ばし、詠唱もなしに障壁を展開した。
未完成だったがゆえに暴走波の全てを受け止めきれなかったものの、発動そのものは確かに成功していた。
「ぜ、全然覚えてないです……」
エリシャは説明を聞き終えた途端、がっくりと肩を落とした。
「肝心なところを覚えてなかったら、再現なんてできるわけないじゃないですか……」
「なに。成功したということは、お前の身体は正解を知っているということだ。意識していれば、いずれすぐにできるようになるさ」
アルドは慰めるというより、事実として告げた。
身体が先に動き、意識がそれに追いつくことは珍しくない。アルドだって、途中式を知らずに無詠唱魔法を扱えているのだから。
エリシャもここ数日、神代語や古代文字、それから魔法の原理に触れていた。ずっと考え続けていたからこそ、偶然とは言え、体現できたのだろう。
「そうでしょうか……?」
「ああ。それにしても、無詠唱魔法まで会得されてしまったら、いよいよもって俺が勝てるものがなくなってしまうな」
半ば冗談、半ば本音だった。
それを聞いて、エリシャはきょとんとした顔をしたあと、ぶんぶんと首を振る。
「そんなことないですよっ」
否定しているくせに、妙に言葉は弾んでいた。
褒められて嬉しいことには変わりないようだ。
彼女は言った。
「先生には、魔法以外のところでも絶対に追いつけないところがいっぱいありますし」
「たとえば?」
「……全部です」
即答されて、アルドは少しだけ言葉に詰まった。
こういうところで大雑把に褒めてくるのも、この弟子の悪い……いや、厄介なところだ。
「それで、褒美は何がいい?」
「え?」
「偶然とはいえ、成功したことには変わりないからな。師匠として、何か祝わせてくれ」
「ご褒美、ですか……」
エリシャは顎に指を当て、「うーん」と唸った。
高価な魔導書でもねだられたらどうしようかと、アルドは内心で構えていたが──。
しばらく考えた末に、彼女はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「では……今日のお風呂上りも、髪を乾かしてください」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「毎日やらされている気がするんだが」
アルドは、思わず怪訝に首を傾げて言った。
ご褒美でも何でもなく、毎日当たり前のようにやらされている。アルドももうそれを気に掛けなくなっていた。
「いいじゃないですか。私……先生に髪を乾かしてもらっている時が、一番幸せなんです」
何でもないことのように、エリシャはくすくす笑った。
その嫣然とした微笑が、夜灯りの中でゆっくりとほどけていく。
その笑顔を見て──アルドは、どきりと胸が高鳴るのを自覚した。視線が泳ぎそうになるのを、意識して押しとどめる。
「全く……無欲な弟子だ」
どうにかそれだけ言葉を搾り出し、立ち上がる。
「なら、風呂に入ってこい。いくらでも乾かしてやる」
誤魔化すように、少しだけ大袈裟に肩をすくめてみせた。
「はーい」
エリシャは嬉しそうに返事をすると、ふらつかないよう注意しながら立ち上がり、タオルと着替えのローブを手に取った。
「では、お風呂行ってきますね」
その言葉に、アルドは「行ってこい」とだけ返した。
間もなくして、扉が閉まる。
部屋にひとり残され、アルドは静かに息を吐いた。
(……一番幸せ、か)
さきほどの言葉が、耳の奥に残響のようにこびりついて離れない。
戦場で魔法をぶっ放していた時でもなく、極大魔法をを成功させた瞬間でもなく、ただ髪を乾かしているだけの、取るに足らない時間。彼女はそれを「一番幸せ」と言い切った。
その無欲さと真っ直ぐさが、どうしようもなく厄介で──同時に、妙にくすぐったかった。
ふと窓の外を見やる。遠く、ギルドの方向からは、打ち上げの笑い声が微かに聞こえてきた気がした。街の灯りは安定していて、先ほどまでの乱れはもうない。
(⋯⋯さて。俺も風呂に入ってくるかな)
アルドも立ち上がり、タオルと着替えに手を伸ばした。
弟子の長い風呂が終わった後にまた髪を乾かさせられるのだから、それまでにこちらも粗方済ませておかねば。
いや……本当はただ、彼女の髪を乾かしてやることを、どこか楽しみにしているだけなのかもしれない。彼女が幸せに感じていることに、自分も幸せに感じてしまっている気がして。そんな浮ついた自分を、どうにか誤魔化したかったのだろう。
弟子と師匠の旅は、これからも続く。
そんな自分の本心をそっと隠して。アルドも、部屋を出た。




