第40話 戦いの終焉
どれくらいの時間、そうしていたのかは定かではない。
腕の中の温もりと呼吸の上下だけを確かめていると、やがて、遠くから甲冑の擦れる音と、簡潔な号令の声が近づいてくるのが聞こえた。
「負傷者の優先度を確認しろ! 重傷者からだ!」
「ここにも手当てを! 焼け跡が深い!」
振り向けば、丘の下から新たな一団が駆け上がってきていた。
純白の法衣に金糸の縁取りを施した神官たち。その後ろには、書類を詰め込んだ鞄を抱え、やたらと分厚い本を小脇に抱えた学者風の集団が続く。
後続の神官隊と──おそらく、王立考古学会の連中だろう。
「……ようやく来たか」
アルドは、腕の中のエリシャをそっと横たえ直した。
代わりに自分の外套を解き、まだ温もりの残る布を彼女の肩にかける。
「神官をひとり、こっちへ」
近くを通りかかった法衣の男に声をかけると、彼ははっと顔を上げた。
「あなたが、核の暴走を……?」
「後ででいい。まずは弟子を診てやってくれ。魔力枯渇と、火傷がいくつかだ」
簡潔に告げると、神官はすぐさま膝をついた。
淡い光の魔法陣が、エリシャの上に柔らかく広がる。〈治癒魔法〉と〈安息魔法〉の複合術式だろう。焼け跡に当たる光が、ゆっくりと赤みを和らげていく。
「意識は保っていますね。ですが、魔力を完全に使い切っています……しばらくは絶対安静です」
「わかっている。後を頼む」
アルドは、治療の手を邪魔しないよう一歩だけ後ろに下がった。
視線を上げると、少し離れた場所で、別の神官隊が前衛たちに駆け寄っているのが見えた。倒れていた冒険者の多くに光の輪がかかり、呻き声が安堵の吐息に変わっていく。
そんな中、やや場違いなほど細身で、眼鏡をかけた青年が、慎重な足取りで封印核に近づいていた。
長衣の裾を気にしながら、結晶体の周囲をぐるりと回る。その手には、走り書き用の板と、インク壺と羽ペン。
学者風、というより──紛れもなく学者だ。
青年は、核の表面に残る光の文字列を凝視していた。青ざめた顔で何度も瞬きをし、それから、アルドの方へと早足で近づいてくる。
「あ、あの──失礼します」
息を弾ませながらも、礼だけは忘れないあたり、育ちの良さが窺えた。
「王立考古学会、魔導遺物班所属の、フィル=ナルカスと申します。先ほど現場に到着したばかりですが……その、よくここまで抑えられましたね」
間近で見ると、本当に顔色が悪い。
核の残滓にあてられているのか、それとも、単純に見たものの規模に怯んでいるのか。
「あなたが、封印核の命令文を書き換えた魔導師殿で間違いありませんか?」
「……ああ」
アルドは軽く頷いた。
こういう手合いに経緯を説明するのは骨が折れるのだが、完全に無視するわけにもいかない。
「現物を確認させてもらった」
視線を核へと向ける。
ひび割れは残っているが、表層を流れる光は穏やかだ。『鎮まれ』『門を閉じよ』の文字列が、ゆっくりとした速度で循環している。
「それで、学会の見立ては?」
「は、はい。今回暴走したこの〝封印核〟ですが──」
フィルと名乗った青年は、やや震える声で説明を始めた。
「これは、ノア=ローアから回収された〝管理核〟です。ノア=セリアの制御祭壇に装填することで、防衛機構を安定化させる目的で運ばれていました。本来、こうした〝封印核〟のような危険物は〝現地保存〟が原則ですが、今回は、封印構造を模倣する研究のために、例外的に持ち出した形になります……しかし、その結果がこの有様でして」
「ノア=ローアからノア=セリアへ、か」
アルドは片眉をわずかに上げた。
両遺跡の名前は、つい最近まで紙の上でしか見ていなかったものだ。
実際に足を踏み入れてみれば、あの守護獣と古代の罠が待ち構えていた場所でもある。
フィルが言った。
「危険物であるため街の外で一時保管していたのですが……護衛隊が何者かに奇襲され、荷馬車が破壊されて核が露出、そのまま暴走状態に移行したらしいのです」
「奇襲ときたか」
アルドは短く息を吐いた。
魔物の自然発生とは考えにくい。核そのものを狙ったか、あるいは運搬隊の存在が漏れていたか。
何やら、裏がありそうだ。
「学会側としては、文献上は『封印を補助し、安定させる核』と読めていました。ノア=ローアの碑文でも、封印の安定』『守護』という語が優勢で……まさか、今日のような規模の暴走が起こるなど、全く想定していませんでした」
言いながら、フィルの声がどんどん小さくなっていく。
自分たちの見立ての甘さを自覚している分、余計に言いにくいのだろう。
アルドは核に刻まれた文字列を一瞥し、ゆっくりと口を開いた。
「……そんな代物を、街の門のすぐ外まで運び込んでいたのか。結局のところ、まだ殆ど未解明なのだろう? よくもその程度の見識で『安全装置』などと呼べたものだな。少々楽観が過ぎるぞ」
言葉に、わずかな苛立ちがにじんだ。
実際、アルドやエリシャがいなければこの交易都市リーヴェは滅んでいただろう。それだけの事態だったのだ。
「も、申し訳ありません!」
アルドの怒気に、フィルはびくりと肩を震わせた。
「文献の解読では、封印を補助するものだったのです。まさかそれが、ここまで『解放側』に傾くとは……」
「安定と守護は、裏を返せば『門を開くための前提』にもなる」
アルドは、核から視線を外さないまま続けた。
「門をきちんと閉めておくための枠組みでもあり、いざという時にそれを外すための持ち手にもなる。扱いを誤れば、封印を弱める鍵にもなり得るんだ。……そのくらいは、覚えておいておけ」
静かな叱責。
感情をぶつけるというより、事実として告げる口調で彼に言った。
フィルは唇を噛み、深く頭を下げる。
「……再度調査します。管理核としての側面だけでなく、『鍵』としての機能も視野に入れて再検討します」
そして、顔を上げると、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「あの……もし可能であれば、解読資料を、改めて見ていただけませんか? 実地でここまで扱える方の視点が加われば、文献の読みも変わるはずで……」
「俺は冒険者だ。研究者ではない。依頼がある場合は、ギルドを通してくれ」
アルドは、そうとだけ言った。
このまま学会権力に取り込まれるのも面倒だ。あくまでも一線を引いておくのがいいだろう。
アルドの返答を予想していたのか、フィルは一瞬ぽかんとした顔になり、それから「あ、はい!」と慌てて頷いた。
「必ず、正式な依頼として出させていただきます。本当に、ありがとうございました」
礼を言い終えると、青年は再び核の方へ駆け戻っていった。
周囲の学者たちに何事か早口で告げ、皆一様に蒼白になったり、興奮気味にメモを取ったりしている。あれはあれで、彼らの戦場なのだろう。
(……まあ、現物を目の当たりにすれば、さすがに危険性も理解するだろうさ)
アルドは小さく息を吐き、神官隊の集まっている方角へ向かった。
あちこちで〈治癒魔法〉の光が瞬き、呻き声と安堵の笑い声が入り混じっている。血の匂いは残っているが、さっきまで漂っていた死にかけている空気は薄れていた。
エリシャは少し離れた場所で簡易の担架代わりに敷かれたシートの上に座らされていた。さきほどよりも顔色は幾分マシだ。額の汗も拭われ、焼け跡も薄くなっている。神官の光がまだ彼女の胸元で淡く揺れていた。
「大丈夫か」
声をかけると、エリシャはぱちりと目を瞬かせてから、いつもの調子を取り戻したように笑ってみせた。
「はい。怪我の方はもう平気です。魔力の方は全然なので、まだ変な感じですが」
そう言って、自分の手を握ったり開いたりしてみせる。
指先の感覚を確かめているのだろう。握り込んだ時の、内側から湧き上がるはずの魔力の感触が、今はほとんどない。
魔力は一度完全に使い切ってしまうと、しばらく元の感覚に戻らない。井戸を空にした後、地下水がまたじわじわと染み出してくるのを、ただ待つしかないように。
「暫くは特訓も依頼も休みだな」
アルドは、淡々と告げた。
エリシャが申し訳なさそうに眉を下げる。
「ですね。すみません」
「構わん。無理をさせたのは俺だ。悪かったな」
「さっきも言ったじゃないですか。私が好きでやっただけだって」
言って、彼女は嫣然として笑った。
先ほどまでぐったりしていたのが嘘のように、目元が柔らかくて生気に満ちていた。
その笑顔に、また無茶をしかねない予感を覚えながらも、アルドは苦笑いを飲み込んだ。
そんな時だった。
「魔導師殿」
低く澄んだ声が、横からかけられた。
「うん? ああ、〝紅鷹〟の……」
振り向けば、そこには鎧を──ほとんど──脱いだエストファーネの姿があった。
大きく歪んでしまった胸甲や、割れた籠手はすでに外されている。今は、下に着ていた鎖帷子と、その上に簡素な上衣を羽織っただけの姿だった。
金髪には土埃が絡み、まだ頬には細かな切り傷が残っている。治療の途中でこちらに来たようだ。
「此度の助力……いや、此度も、だな。感謝する」
エストファーネは頭を下げた。
「これも仕事のうちだ」
アルドがそう答えると、エリシャが隣でくすりと笑い、肩をすくめてみせる。ふたりで顔を見合わせると、エストファーネも釣られたように口元を緩めた。
エリシャは少し身を正して、エストファーネに訊いた。
「エストファーネさんは大丈夫ですか?」
「ああ、もちろんだ。頑丈なのが私の取り柄だからな」
エストファーネはぐっと片腕を曲げ、力こぶを作ってみせた。
鎧を外している分、線の細さは際立つ。だが、その腕には無駄のない筋肉がきちんとついているのがわかった。肩から前腕にかけての張り方が、日々の鍛錬を物語っている。
あれだけの盾と重い鎧を自在に操っていたのも納得だ。
「それと……私のことは、エストと呼んでくれ。歳も近そうだし、よかったら仲良くしてやってくれないか」
少し照れたように、しかしどこか期待を込めて、エストファーネは言った。
エリシャの顔が、ぱあっと明るくなる。
「もちろんです! では、私のことはエリシャと呼んでください」
「わかった。今後ともよろしく頼む。エリシャ」
「はい! よろしくお願いしますね、エスト」
ふたりは自然と手を差し出し合い、しっかりと握手を交わした。
戦場の只中で結ばれる、新しい縁。
血と土と汗の匂いにまみれた場所だというのに、そのやり取りだけは、どこか爽やかだった。
(やれやれ、呑気なものだな)
アルドは、小さくため息を吐いた。
もっとも──弟子に、信頼できる友人が増えるのは悪いことではない。
ノア=セリアで命を賭けて守り合った縁が、こうして別の場所でも繋がるのなら、尚更だ。
視線を上げる。
丘の上の戦場は、ようやく「片付け」の段階に入りつつあった。
倒れた魔獣の残骸──といっても、そのほとんどは霧散してしまっているが──を確認し、まだ息のある者には止めを刺し、危険な魔力の残滓がないかを神官と学者が見て回っていた。
南門の城壁の上では、衛兵たちが互いに肩を叩き合い、市民たちが座り込んだまま空を仰いでいるのが見えた。
先ほどまで空を裂いていた光の柱はもうない。あるのは、少し煤けたような夕空と、遠くで鳴き始めた鳥の声だけだ。
焼けた土の匂い、血の匂い、薬草の匂い。
それでも、胸の奥を締め付けていた「終わらない戦い」の匂いは、次第に薄れていく。
(……終わった、か)
改めて周囲をぐるりと見渡した。
エリシャは神官の光に包まれながら、エストファーネと何か楽しげに話している。
再び〝封印核〟は学者たちの管理下に移された。今度は、もう少しマシな扱いをしてもらいたいものだ──そんな苦い願いを胸の片隅に抱きながら、アルドは静かに息を吐いた。
こうして、リーヴェ南門前の緊急依頼は、ひとまず終わりを迎えたのだった。




