第39話 信用と誓い
〝封印核〟の表層で暴れていた光の線が、不意に向きを変えた。
さきほどまで赤黒く瞬いていた命令文が、押し流されるように形を崩していく。『解放せよ』『集え』『開け』といった攻撃的な語が、青白い光の奔流の中で千切れ、細かな光の粒へと分解されていった。
代わりに浮かび上がってきたのは、別種の言葉だ。
『鎮まれ』
『眠れ』
『門を閉じよ』
低く澄んだ声が、世界の底から響き上がってきたかのような感覚。
アルドが押し込んだ命令文が、核の中枢で定着していくたびに、脈動のリズムが変わっていった。
狂った鼓動が、ゆっくりとした心拍へと落ち着いていく。
周囲の魔獣に、目に見える変化が起きた。
血走っていた瞳から、赤い光がすっと引いていく。
狼型の魔獣が一声うなり、牙を剥きかけた口をそのまま閉じた。次の瞬間、その輪郭がほどけるように揺らぎ、煙と光の粒へと変わっていく。
巨大なイノシシの魔獣もまた、前足を踏み出そうとした体勢のまま、ぴたりと動きを止めた。
黒い斑点のような焼け跡が、内側から青白い光に満たされる。その光が皮膚の下からあふれ出し、輪郭線を上へ上へと舐め上げ──そして、ふっと消えた。
蜥蜴に蝙蝠の羽を生やしたような異形も、頭の半分が溶けかけた鹿の魔獣も。
ひとつ、またひとつと、核から伸びていた見えない糸を断ち切られたように、その存在を霧散させていく。
咆哮が途切れ、地鳴りが止んだ。耳に残っていた、あの不快な擦過音のような魔力の軋みも、少しずつ遠のいていく。
空へ伸びていた魔力の柱が、細くなった。
さっきまで空そのものを裂いていた青白い筋は、今やただの光の筋に過ぎない。やがて、その筋もゆっくりと収束し、〝封印核〟の内部へと吸い込まれていった。
最後に、核全体がふわりと明滅する。深く息を吐いたような、静かな光の瞬き。
その後に残ったのは──嘘のような静寂だった。
風の音が戻ってきた。焼けた土の匂いと、血と汗の匂い。そんな戦場の匂いが、さっきまで覆いかぶさっていた魔力の臭気を押しのけて表に出てくる。
南門の方角から、遅れてどよめきが届いた。
「おい、見ろ……!」
「柱が……消えた?」
「魔物の気配が……薄くなってる……!」
門の上から見守っていた衛兵たち、市壁の陰から顔だけ出していた市民たち。その誰もが、半信半疑の顔で丘の上を見つめている。
冒険者たちの列からも、安堵と困惑が入り混じった声が漏れた。
「終わった……のか?」
「核が、落ち着いてやがる……」
「生きてるか、みんな!」
誰かが叫び、それに応えるように、あちこちから咳き込みと笑い声が上がる。さっきまで必死に魔獣の群れを押し留めていた前衛たちが、その場で膝をついたり、盾に縋りついて息を整えたりしていた。
アルドは、肺の底から息を吐き出した。
膝がわずかに笑いそうになるのを、意識して踏みとどまる。
まだ完全に終わったわけではない。〝封印核〟の経路を閉じ、残滓を整理する必要がある。だが──最悪の事態は、ひとまず遠ざけることができた。
(……よし)
こめかみに残る鈍い痛みを無視しながら、核の様子をもう一度確認する。
表層を流れる文字列は、すでに青と白だけになっていた。
その瞬間。
背後で、何かががくりと崩れる音がした。
振り向いた瞬間、視界の端で、エリシャの身体がぐらりと傾いた。膝から崩れ落ちるようにして、彼女は地面へと突っ伏す。
封鎖陣を保ち続けていた魔法陣が、その瞬間ふっと光を失った。円環を描いていた線が、砂の上に描かれた落書きのように、風にさらわれて消えていく。
「エリシャ!」
叫ぶより早く、身体が動いていた。
アルドは地面を蹴り、砂を巻き上げながら駆け寄る。
突っ伏したまま動かない弟子の肩を抱き起こすと、その体重が思った以上に重く感じられた。いつもは軽々と動いているはずの身体が、今はぐったりと力を失っている。
エリシャの顔色は、青白いというより色が抜けていると言った方が近かった。
唇はかすかに乾き、まつ毛に焦げた土煙が張り付いている。暴走波に焼かれた腕の痕は、さきほどよりも赤く浮き上がっていた。
「エリシャ、しっかりしろ」
肩を軽く揺さぶると、彼女の瞼がわずかに震えた。
「せ、んせ……?」
焦点の合わない深緑の瞳が、アルドの方を探すように揺れる。
「だ、大丈夫です。でも、ちょっと魔力を使いすぎました……」
エリシャは、かろうじて笑みらしきものを浮かべた。
いつものように笑おうとしているのがわかる。だが、唇の端は震えていて、声も掠れていた。
アルドは、彼女の魔力の状態を確かめるために、軽く意識を触れさせた。
──そこは、からっぽだった。
魔力の流れが、ほとんど感じられない。
枯渇というより、削り取られた後の底を覗き込んでいるかのような感覚。普通の魔導師なら、とうに意識を失っていてもおかしくなかった。〈神罰雷霆〉の完全詠唱、封鎖陣の展開と維持、防護と援護。それらを、この短時間で立て続けにこなしたのだ。
しかも途中で──おそらく無意識ではあるのだろうが──無詠唱魔法までやってのけた。
師匠のために。
ただその一点のために、彼女は自分の身体の限界を無視し続けていた。
「この、バカ者が!」
口から飛び出した言葉は、怒鳴り声に近かった。
自分でも驚くほど、乱暴な声だ。何に対して怒っているのか、一瞬わからなくなるほどに、胸の中はぐちゃぐちゃだった。
さっき目の前で吹き飛ばされた光景が、脳裏に鮮明に蘇る。
黒い奔流に飲み込まれ、華奢な身体が空を舞った瞬間。あのまま防御が間に合わず、地面に叩きつけられていたら──最悪の想像が、嫌でも浮かぶ。
込み上げてくるものが、堰を切ったようにあふれ出た。
……気づいた時にはもう、エリシャを強く抱き締めていた。
腕の中で、その身体が小さく跳ねる。火傷と打撲で悲鳴を上げているはずの身体を、さらに締めつけている自覚はあった。それでも、この衝動は抑えられない。
「せん、せい……?」
エリシャが、戸惑いに震えた声を漏らす。
何が起きているのか分からず、ぽかんとしているのが、声だけで伝わってきた。
こういったことは、これまでしたことがなかった。この状況を、頭が理解しきれていないのだろう。
アルドは続けた。
「無理をするなと言っただろう……! もしものことがあったら、どうするんだ!」
自分でも抑えきれないほどの感情が、そのまま言葉になった。
怒っている。だが、その怒りの矛先は、彼女の無茶な行動だけに向いているわけではなかった。
自分自身に対しても、だ。
こんな状態になるまで、弟子に無理をさせてしまったこと。目の前で傷つけられるまで、〝封印核〟の解析を優先させざるを得なかったこと。
全ては、己の未熟さ故だ。
「……私がやりたくて、やったことですから」
エリシャは、少しだけ間を置いてから、そう答えた。
そして、そこでようやく自分がどういう体勢になっているのかを自覚したらしい。腕の中で小さく身じろぎし、それから──おそるおそる、という風に、アルドの背に腕を回した。
柔らかな笑みが、かすかに伝わってくる。
顔は見えない。だが、声の色でわかった。
「それに私、信じてましたから」
「何をだ」
思わず問い返していた。
自分への信頼だと分かっていても、敢えて問わずにはいられなかった。
「もし私がピンチになっても、絶対に先生が助けてくれるって」
エリシャはゆっくりと、そしてそれを噛み締めるようににして、続けた。
「だって……私のお師匠様は、世界最強なんですから」
それは、あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
戦火の中で、血と焦げの匂いにまみれながら、それでも彼女は迷いなくそう言う。
世界最強──そんな肩書きを、自分で名乗る気は毛頭なかった。だが、目の前の弟子だけは、本気でそう信じている。
「だからお前は、バカだと言うのだ」
アルドは、絞り出すように呟いた。
罵倒の言葉とは裏腹に、その腕はさらに強くエリシャを抱き締める。
決して彼女を傷つけないように、それでいて二度と離さないと言わんばかりに。
エリシャが、くすりと小さく笑った気配がした。
痛みで震えているはずなのに、その笑いは不思議と柔らかくて──アルドの胸の奥で、固くこわばっていた何かが、ほんの少しだけ解けていくのを感じた。
(……もっと、強くならなければ)
アルドは、静かに目を閉じた。
〝封印核〟の命令文をねじ曲げられたのは、神代語の知識を積み上げてきたからだ。
だが、まだ足りない。世界の構造を、もっと深く知らなければならない。どんな状況でも、どれだけ理不尽な暴走が起ころうとも、瞬時に対応できるだけの技量が必要だ。
この愚かな弟子が、無謀な信頼を向けてくるのなら。
その信頼に、応えなければならない。
(もっと魔法の深みに潜る。もっと広く、もっと遠くまで見通せるようになってみせる。この、バカ弟子を守り切るために)
腕の中の温もりを確かめながら、アルドは、誰にも聞こえないところでそう誓った。




