第38話 師弟の絆
暴走する魔力の渦の中で、封印核の文字列はさらに加速していた。
まるで、自分自身で自分の命令を上書きし続けているかのような、不安定な動き。
『集え』『開け』『解き放て』──攻撃的な命令文が、基底にある『護れ』『鎮めよ』の文字列を、じわじわと侵蝕している。
(このままでは、いずれ『護れ』の層が完全に剝がれてしまうな)
そうなれば、都市の魔力網は丸裸だ。
外部からの干渉に対する防壁を失い、侵略の対象になってしまう。魔物の巣窟になるのも時間の問題だ。
(俺が、止めてみせる)
アルドは、核との距離をさらに詰めた。
エストファーネたちが作った楔形の通路を通り抜け、暴走領域のぎりぎりの内側へ足を踏み入れる。
皮膚の表面がひりひりと焼けるようだ。
空気の密度が変わり、呼吸ひとつにも抵抗がかかる。無防備のままなら、数秒も持たないだろう。
「かの者を守れ──」
エリシャの〈防護膜〉が、背後から飛んできた。薄く透明な膜が、アルドの肌と暴走する魔力の間に挟まる。ぴしり、と膜の表面にひびが走るたびに、彼女の方で別の魔法陣が光った。
エリシャは前衛の援護から完全に役目を切り替えていた。今の彼女の魔法は、すべて『アルドと核の間の空間を保つ』ことに集中している。
「前は任せたぞ、魔導師殿!」
エストファーネが声を張って、続けた。
「ここから先は、魔導師殿の領分だ! 私たちは、何としても周囲の魔獣の侵入を防ぐぞ!」
「おう!」
「一匹もあのふたりに近づけさせるな!」
冒険者たちが、アルドたちと核との間に、半円形の防衛線を作る。
彼らの背中に守られながら、アルドとエリシャは、暴走の中心へとさらに踏み込んでいった。
苦しそうな弟子の顔が視界の隅に入る。アルドは言った。
「エリシャ、辛かったらここまででいいぞ」
「嫌です! ご一緒します……最後まで」
魔法障壁を用いて魔力の暴走を跳ね除けて、エリシャが答える。
(全く──)
強情な弟子に、ふっと笑みを浮かべたその時だった。
突如として、核の表面のひび割れから異様に濃い魔力の塊が噴き出した。先ほどまでとは質の違う、黒みがかった奔流だ。空間そのものを巻き取りながら、周囲へと押し広がっていく。
「ええい、鬱陶しい!」
反射的に、アルドは防御の術式を組もうとした。
だが、核に近づき過ぎていたせいで、その暴走波はアルドの想定よりも遥かに速く、強かった。
視界が、青白と黒の光で満たされる。耳鳴りが再び鋭くなり、足元の感覚が失われかけた。
(しまった、タイミングが──)
思考が白く飛びかけた、その刹那。
「先生ッ!」
エリシャの叫びがどこか遠くから聞こえたかと思えば、エリシャはアルドを押しのけるように一歩前へ出た。
両手を広げた。魔法陣も詠唱も、ほとんど簡略化された「反射」に近い動き。
「──はあああああああッ!」
気合の声とともに、彼女は〈魔法障壁〉を発言させた。
圧縮も詠唱も省いた、ほとんど気持ちだけの声。
そう──それは、無詠唱だった。それでも彼女の魔力は瞬時に形を成し、六角形の紋が次々と重なって壁と化す。黒い奔流が、それに叩きつけられた。
轟音とともに、〈魔法障壁〉が一瞬で亀裂に覆われ、そのまま粉々に砕け散った。無詠唱で発現させてしまったがために、未完成だったのだ。
砕けながらも、エリシャの身体を通して暴走波の勢いが削られる。削りきれなかった分が、その華奢に直撃した。
「────ッ!!」
息を呑む音が、耳のすぐそばでした。
エリシャの身体が後ろへ弾き飛ばされる。
「くっ……!」
アルドは反射的に〈風魔法〉を叩きつけ、彼女の身体が地面に叩きつけられる前に、衝撃を和らげた。
それでも、完全には受け止めきれない。
エリシャは土の上を数メートル滑り、土煙を上げて止まった。
「エリシャ!」
アルドは、思わず声を荒げた。
胸の奥が、嫌な冷たさで一気に締め付けられる。
駆け寄ると、彼女はうつ伏せのまま、肩を大きく上下させていた。
ローブの袖が裂け、その下から白い肌が覗いている。そこには、暴走波に焼かれた赤い痕が走っていた。唇の端から、うっすらと血がにじんでいる。
「だ、大丈夫……です。これくらい」
エリシャは、無理に笑おうとしていた。
痛みで震える声の中に、それでも「まだ戦える」と言いたげな意志が混ざっている。
(くそ……くそッ! 俺は何をやっている!)
アルドは歯を噛みしめた。
胸の奥で、何かが激しく揺れる。目の前で傷ついた弟子を見て、怒りとも恐怖ともつかない感情が一気にせり上がり──同時に、その感情が、自分の魔力の制御を乱しかねないことも、理解していた。
(抑えろ……!)
握り込んだ手のひらの中で、魔力が暴れた。
破壊衝動に突き動かされそうになるのを、必死に抑え込んだ。
今ここで感情のままに力を叩きつければ、自分がこの暴走に拍車をかける側になる。それは、最も避けなければならない未来だ。
「俺が守りたいのは、誰だ」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
そう。アルドが守りたいのは、この弟子だ。この愚かしいまでに従順で、真面目で、お節介で、よく出来た弟子。今のアルドにとって、最も大切なものといっても過言ではない。ここで取り乱していては、その弟子を守ってやれなくなる。
深く息を吸い込んだ。肺に入ってきたのは、砂と血と焦げた匂いを含んだ空気。それでも、そのざらつきを意識的に飲み込み、魔力の流れをひとつひとつ整えていく。
「先生……」
エリシャが、不安そうにこちらを見上げていた。
アルドは短く頷き、彼女に背を向ける。
「すまん。もう少しだけ手伝ってもらえるか?」
「……もちろんです」
痛みをごまかすように、エリシャが微笑んだ
「まだやれます。〝足場〟を作ればいいんですよね?」
「ああ。頼む」
全く。こちらが言うまでもなくわかってくれる。彼女の理解の良さには、頭が上がらなかった。
エリシャはぐっと地面を押して身を起こした。傷ついた腕を庇いながらも、視線は核へと向けられている。
アルドは、再び封印核の表面を見据えた。
暴走する文字列。
『解放せよ』
『集え』
『開け』
攻撃的な命令たちが、ひっきりなしに表層を駆け巡っている。その下には、まだ『護れ』『鎮めよ』の層が残っているはずだ。
(やることは、守護獣の時と同じだ)
命令を書き換える。
ただし、今回は相手が『核そのもの』であり、すでに暴走状態にある分、難度は比較にならない。
だが、ここ数日の研究は、そのためにあったと言ってもいい。
神代語の階層構造。『基底命令』と『上位命令』の関係と管理命令による上書きの手順。ノア=セリアの石壁に刻まれていた断片が、今も脳裏に鮮明に残っている。
(基底構文に、上から別の命令を被せる。その『上から』の部分を、さらに俺の命令で押し流す)
世界の骨格に直接触れる、ということ。
そのイメージを、改めて手繰り寄せる。
アルドは、唇を閉ざしたまま、心の中で言葉の意味を紡いだ。
(解放ではなく、鎮静。集えではなく、離散。門をひらくのではなく──閉じ、固定しろ)
神代語の単語が、頭の中で並び替えられていく。
声には出さない。だが、無詠唱の本質は『言葉を捨てること』ではない。『言葉を概念として、世界の深層に直接送り込むこと』だ。
アルドの魔力が、それに応じて形を取り始める。
「──〈封鎖陣〉!」
背後から、エリシャの声が飛んだ。
短く削られた詠唱。それでも、その術式は見事な精度で組み上がっていく。
核の周囲の大地に、幾何学的な模様が浮かび上がった。
青白い線が四方へ広がり、やがて封印核を中心とした大きな円環を描いた。円環から伸びる四つの直線が、方角を示す杭のように地面へ突き刺さる。
「暴走域、固定できました……!」
エリシャが、歯を食いしばりながら呟いた。
核から吹き出していた魔力の渦が、円環の内側に縫い止められる。
完全に封じ込めたわけではない。だが、暴走の範囲と向きが限定されるだけでも、アルドにとっては足場がひとつ増えたのと同義だった。
「見事だ。そのままもう少し保てるか?」
「はい……保ちます! 先生が終わるまで、ずっと!」
背中越しに交わされる言葉は少ない。
だが、その短いやり取りの中に、互いへの信頼が詰まっていた。
エリシャの封鎖陣が〝足場〟を作る。
アルドの無詠唱の思念が、その足場を踏み台にして、中枢の命令文へと手を伸ばす。
核の表面に浮かぶ文字列に、自分の『別の命令』を重ね合わせるイメージ。攻撃的な命令文を、静謐と制限の言葉で上書きしていく。
世界の深部にある言語層が、わずかに軋んだ。
核の表面の光が、瞬きする。
「……ぐっ!」
アルドのこめかみを、鈍い痛みが刺した。
通常の魔法とは比べものにならないほどの集中と負荷が、脳と神経を焼いていく。それでも、意識を手放すわけにはいかない。
(まだだ──)
アルドは、さらに命令文を押し込んだ。
『解放せよ』の文字列に、『鎮まれ』という命令を重ね、『集え』の部分に『散れ』の概念を流し込む。
背後で、エリシャの〈封鎖陣〉が、何度もきしむ音を立てた。
彼女の魔力も、限界に近づきつつあるのがわかる。それでも彼女は、陣が崩れそうになるたびに圧縮詠唱で補強を入れ、そのたびに新しい光の線を走らせた。
「が、はっ……!」
咳き込む音。
それでも、詠唱は途切れない。
アルドの無詠唱と、エリシャの圧縮詠唱。
一方は言葉を飲み込み、一方は言葉を削って刻む。
そのふたつの魔法が、今この瞬間、ぴたりと噛み合っていた。
互いの呼吸と、魔力の流れが重なる。
図書館の静けさの中で積み上げた理論、それからノア=セリアでの実戦が、ここに収束されていた。
封印核の光が、一瞬、青だけになった。
赤みを帯びていた文字列が、かすかに薄れる。
(……届いた)
アルドは、握り込んだ手のひらの中で、確かな手応えを感じた。
暴走する魔力の柱が、わずかに細くなる。
魔獣の咆哮が、一瞬だけ揃って途切れた。
まだ、終わりではない。
だが──師と弟子の魔法は、確かにこの異常の『中心』に、手をかけつつあった。




