第36話 南の戦場と紅の鷹
南門へ向かう道は、すでに街ではなく戦場の手前と呼ぶべき空気に変わっていた。
空から見下ろせば、その違いは一目瞭然だった。
中央通りは、人の流れが完全に二分されている。市壁の内側に向かって押し寄せる避難民の列と、逆向きに南へ走る武装集団。馬車を放棄して荷台だけ押している商人、泣き叫ぶ子どもを抱えて走る母親、肩を貸し合いながら歩く負傷者たち──そうした人波の間を、ギルドの紋章を付けた冒険者たちがすり抜けていく。
通りの脇の広場には、簡易の治療所が設けられていた。
白い法衣をまとった神官たちが、地面に寝かされた負傷者の上で次々と光の術式を展開する。〈治癒〉の淡い光が血と泥にまみれた肌を照らし、焼け焦げた布と薬草の匂いが風に混ざって立ち上っていた。
(もうここまで被害が出ているのか)
アルドは〈飛行魔法〉の高度をほんの少し上げた。
エリシャが隣で身体を固くしているのが、視界の端でわかる。街のあちこちから、魔導ベルの音がまだ鳴り続けていた。規則的であるはずのその音が、今は不安を煽る鼓動のように聞こえる。
「先生……あれ」
エリシャが、掠れた声で囁いた。
指さす先。南の空。そこに、それはあった。
青白い光が、地平線から空へ向かって一本の柱を成している。
ただ真っ直ぐ伸びているのではない。ゆらぎ、ねじれ、時折、内側から何かが暴れたように膨らんでは収縮する。海底から沸き上がる熱水のような、不規則な脈動。
その周囲の空は、色そのものが歪んでいた。青空のはずの場所に、薄いガラス越しに見ているような亀裂が走り、光の屈折がおかしくなっている。雲一つないはずなのに、雷鳴にも似た低い唸りが、風を伝って耳に届いた。
(魔力の柱……いや、魔力網が引き攣っていると言うべきか)
世界の浅層に張り巡らされた魔力の線が、あの一点を中心に強引に引き寄せられている。そうイメージすると、この光景の異常さがよりはっきりと伝わってきた。
皮膚の下を、冷たい棘がひとつずつ這い上がってくるような感覚。あの柱の根元にいる者たちが、どれほどの圧力に晒されているかを想像するだけで、喉がひりついた。
「……こいつはよくないな」
思わず、口の中で呟きが零れる。
リーヴェの南門が近づくにつれて、地上の風景はさらに混沌を増していった。
城壁の内側には、盾を構えた衛兵隊が整列し、その背後で神官たちが防御結界の準備をしている。城門の前には、急ごしらえの指揮所と、矢や魔導薬が積まれた補給所。怒号と命令が飛び交い、人の声と金属音が重なり合っていた。
「エリシャ、降りるぞ。城門を越えたら歩きだ」
「はい!」
ふたりは飛行魔法の高度を下げ、城門近くの空き地に降り立った。
足裏に石畳の硬さが戻る。門の向こう側には、土と血と焦げた匂いが混ざった空気が漂っていた。
「南門外に出る隊列はどこだ!」
アルドが声を張ると、すぐ近くの衛兵が振り向いた。
「B級以上の冒険者は、こちらです! 第三隊と合流して城門を抜けてください!」
指示に従い、既に集結していた冒険者たちの列に加わる。
鎧やローブの擦れる音。誰かの息遣い。緊張でこわばった肩。だが、その中に、わずかな高揚も混ざっているのがわかる。命懸けの仕事に向かう者たち特有の、あの奇妙な熱だ。
城門が開いた。
外の光が差し込んだ瞬間、内側と外側の空気の密度の違いが、肌でわかった。
土の匂い。焦げた木の匂い。そこに、嗅ぎ慣れたもののはずなのに、どこか異様に濃くなった魔力の匂いが混ざっている。湿った鉄と雷の前触れの匂いを足して、さらにそれを濃縮したような。
門を抜けた先、少し緩やかに盛り上がった丘が広がっていた。
その中腹に──戦場があった。
荷馬車は、もはや荷馬車の形をほとんど留めていなかった。
かつて車輪であったものは、黒く焦げた木片と金属片の塊となり、傾いた車台の片側は地面にめり込んでいる。荷台を覆っていたはずの分厚い木枠は粉々に砕け、その破片の間から、古代文字の刻まれた石片がいくつも転がり出ていた。
石片には、見覚えのある文字列が刻まれている。
ノア=セリアで見たものと同じ系統の神代語と、旧王国語が混じった……いや、これは別系統か。ノア=ローアという遺跡に特有の、少し癖のある書体。そういったことを分析しようとした意識は、次の瞬間には吹き飛んだ。
荷馬車の中心部。そこに、それはあった。
大人の背丈ほどもある結晶体が、半分ほど地面から露出していた。
形は完全な球ではない。削り出された痕跡と、自然形成されたままのような凸凹が混在している。表面には細かな亀裂が走り、その隙間から──青白い光が、息をするように吹き出していた。
光はただ漏れているだけではない。
周囲の魔力を巻き込みながら、渦を作っている。地面の砂と石片がふわりと浮かび上がり、核の周囲をゆっくりと回転していた。その速度がときおり跳ね上がり、砂粒が弾丸のように飛び散っては、近くの岩を抉る。
空へ伸びる魔力の柱は、まさにその核から立ち上っていた。
核の周囲の空気は、水のように揺らいでいる。世界の深部と浅層とが、強引に繋がれてしまったかのような、不快な軋み。
(あれが〝封印核〟か)
理論上は想像していた存在が、今こうして視界の中心にある。
言葉では何度も触れてきた概念と、現物として目の前に露出しているそれとのギャップが、脳の処理を追い越していく感覚。胸の奥がざわりと波打った。
核の周囲には、魔獣が群れていた。
森に棲むはずの狼型の魔獣が、涎を垂らしながら唸っている。その毛並みはところどころ逆立ち、青白い火花が毛先から飛び散っていた。巨大なイノシシのような魔獣の皮膚には、黒い斑点のような焼けが浮かび上がり、そこから煙が立ち上っている。
さらに、見慣れない異形もいた。人の背ほどもある蜥蜴に蝙蝠の羽が生えたようなものや、頭部が半分溶けたように崩れた鹿の魔獣。それらは、まるでどこか別の場所から無理やり引きずり出され、形を整える途中のまま、この場に固定されてしまったかのような歪さを持っていた。
核の周囲の空間に、時折、ひび割れのような線が走った。そこから黒い霧が滲み出て、数秒後にはそれが四つ足の獣の輪郭を取る。その輪郭に、核から吹き出した光が絡みつき、肉と骨が形を成していった。生まれたばかりの魔獣が咆哮を上げ、すぐさま周囲の何かに飛びかかる──。
(生成、か。いや、これは別層からの引き寄せか?)
どちらにせよ、封印核が〝魔獣の巣〟と化しているのは間違いなかった。
その外側で、冒険者たちが必死に耐えている。
剣と盾を構えた前衛たちが列を作り、魔獣の突撃を受け止めていた。背後からは魔導師たちの炎や氷の魔法が飛び交うが、その多くは押し寄せる数に飲み込まれ、決定打になりきれていない。
「前列、下がるな! 下がれば後ろが押し潰されるぞ!」
「負傷者を後方へ! 神官、こっちだ!」
「核に近づきすぎるな! 皮膚が焼けるぞ!」
怒号があちこちから飛び交う。
すでに何人もの冒険者が地面に倒れていた。その傍らで、汗だくの神官が必死に〈治癒〉を繰り返している。だが、彼らの顔色も悪い。周囲の魔力の暴走に当てられ、通常よりも術の効きが悪いのだろう。
「……防戦一方、だな」
アルドは周囲を一望し、短く呟いた。
彼らは必死に戦っている。だが、その戦いは核を止めるための戦いではなく、溢れ出る被害を押し留めるための戦いだ。このままではじりじりと削られ、いずれ防衛線は崩壊するだろう。
「援軍だ! B級だ!」
城門から駆け出してきた冒険者たちに、既に戦っていた者たちが声を上げた。
その中のひとり、盾を構えた金髪の女騎士が、ちらりとこちらに視線を向け──目を見開く。
「あなたたちは!」
金属の擦れる音を立てて、女騎士が駆け寄ってくる。
銀の胸甲と鎖帷子。その上から赤い外套を羽織り、肩には見覚えのある紋章。決して大きくはないが、目の奥に宿る炎は鋭い。
「あっ!」
先に声を上げたのは、エリシャだった。
「お前は、確か〝紅鷹〟の……」
アルドの記憶も、すぐに一致する。
ノア=セリアの遺跡で、守護獣に追い詰められていたパーティー。あの時、必死に仲間を守ろうとしていた盾役の女騎士。
「元〝紅鷹〟のエストファーネだ。ノア=セリアでは見苦しいところを見せた。救出、感謝する」
女騎士──エストファーネは、戦場のただ中だというのに、一瞬だけ膝を折って頭を垂れた。
乱れた前髪が額に貼りつき、鎧の隙間から覗く喉元が汗で濡れている。だが、その動きには騎士としての礼節が宿っていた。
「冒険者は引退したんじゃなかったのか?」
「私以外はな」
エストファーネは、短く答えた。
「パーティーは解散した。皆、を出て修行に出た。私もそのつもりだったんだが──」
彼女は顔を上げ、核の周囲で蠢く魔獣の群れを見遣る。
「こういう状況だと、そうも言っていられないだろう?」
その視線には、覚悟と僅かな自嘲が混ざっていた。
「この街には世話になっている。見捨てることはできん」
言葉と同時に、エストファーネの盾に魔獣の爪が叩きつけられた。
金属をひっかく甲高い音。彼女は一歩も退かずにそれを受け止め、剣を振るって獣の鼻先を切り裂く。血飛沫が地面に飛び散った。
周囲の冒険者たちの戦いぶりは、決して弱くはない。
むしろ、これだけの魔力異常の中で陣形を維持しているだけでも大したものだ。だが──やはり、決定打に欠けている。
「俺たちで突破口を作ろう」
アルドは魔法でエストファーネに襲い掛かっていた魔物を吹き飛ばし、手短に言った。
「連中を率いて、崩してくれ」
核に近づくためには、この魔獣の壁を切り裂かなければならない。
そのために必要なのは、ただ強い一撃ではない。開いた穴を、すぐさま通路に変え、その通路を維持するための指揮だ。
「心得た!」
エストファーネの瞳が、戦場の光を宿して輝いた。
彼女は素早く状況を確認し、周囲の冒険者たちに向けて声を張り上げる。
「聞け、諸君!」
澄んだ声が、騒音を切り裂いた。
「Aランクの魔導師師弟が道を切り開く! 私に続け!」
その一声に、近くにいた前衛たちが一斉に振り向く。
「〝紅鷹〟のエストか!」
「辞めたんじゃなかったのか!?」
「いいから私に従え! 死にたくなければな!」
短いやり取りの中に、信頼と皮肉とが同居している。
エストファーネは盾を掲げ、核の方角を示すように剣先を向けた。
「ここに楔を打つ! 魔導師殿の一撃に合わせて前進! 左右の列は側面から敵を押さえろ! 崩れるな、押し込め!」
「おおっ!」
それに呼応するように、周囲の冒険者たちが喉を鳴らした。
すでに疲労は濃い。だが、「突破口が開く」という具体的な指示が与えられた瞬間、その目に再び火が灯ったのがわかった。
アルドはその様子を確認してから、隣のエリシャに声を潜めて言う。
「俺はあの〝封印核〟を解析したい。援護を頼めるか?」
あの暴走を止めるには、核そのものの命令文──封印に刻まれた〝言葉〟にアクセスする必要がある。
ただ魔力をぶつけて破壊しようとすれば、最悪、封印の残骸が周囲の魔力網とさらに酷く噛み合い、街そのものを巻き込んだ大災害になる可能性があった。
必要なのは、あくまで鎮めることだ。そのためには、核に一定以上近づき、神代語で書かれた術式の輪郭を読む必要があった。
「わかりました。任せてください」
エリシャは迷いなく頷いた。
魔力を高めて、周囲にいくつもの魔法陣を同時に生み出していく。
早速弟子がいくつかの魔法を展開する後ろで、アルドは魔力を組み上げていった。
目指すのは、核そのもの。
暴走する魔力の嵐の中、師と弟子の戦いが、静かに──しかし確かに、始まった。




