第35話 超緊急依頼
数日後の図書館は、相変わらず静かだった。
高い天井から吊られた魔導灯が、淡い光を落としている。窓の外では、春とも初夏ともつかない柔らかな日差しが石畳を撫でているはずだが、学術資料室の空気はひんやりとしていた。インクと紙と革表紙の匂い。それらが混ざり合った、いつもの匂いだ。
アルドとエリシャは、いつもの閲覧卓に陣取っていた。
机の上には、古語辞典と写し取り用のノート、それから王国史の分厚い資料が何冊か積まれている。今日は、神代語候補の拾い出しよりも、旧王国語の地名の語源を洗う作業が中心だった。
「……ここ、やっぱり旧王国語が混ざってますね。『リーヴェ』って、『分岐』とか『分かれ道』って意味なんじゃないかなって」
ページの端にメモを走らせながら、エリシャが小さく呟く。
アルドは、「そうかもしれん」と短く相槌を打った。
世界の骨格に触れるためには、まず足場になる言葉を固める必要がある。そんな理屈を弟子に説明したのは、もう何度目だろうか。それでも彼女は飽きる様子もなく、むしろ楽しそうに、地図と文字の間を行き来していた。
──その時だった。
図書館の静寂の底を、灼けた鉄でひっかいたような音が貫いた。
最初の一打は、遠かった。耳の奥をかすめる程度の振動。だが、二打目、三打目と重なるにつれて、その音は明らかに近づき、厚い石壁を震わせる。
耳に覚えのある魔導ベルの音。だが、日常で聞くものとは音程も、鳴らし方も違う。
「な、なんですかこれ!?」
エリシャが顔を上げ、目を見開いた。
ペン先から黒いしずくが紙の端に落ちる。彼女はそれに気付くこともなく、窓の方へ身体を向けた。
「警報だな。何か起こったらしい」
アルドは椅子から立ち上がりながら、短く答えた。
図書館の重い空気に、ざわりと波紋が広がる。周囲の閲覧者たちも顔を見合わせ、次々に立ち上がって窓際に歩み寄っていた。
「何かって……ワイバーンが襲ってきてた時もこんな警報なかったのに」
「それ以上のことが起こったということだ」
そう言った瞬間、学術資料室の扉が勢いよく開いた。
革鎧を着込んだ若い衛兵が、息を切らせて駆け込んでくる。胸の前にはギルドの紋章。どうやら、ギルドからの連絡係らしい。
「大図書館利用者各位! 落ち着いて聞いてください!」
張りのある声が、石造りの室内に響いた。
「南門近くで魔力暴走が発生! ギルドより、冒険者全員に出動要請が出ています! 一般市民の方は、司書の指示に従って建物の奥へ避難してください!」
司書長がすぐさま立ち上がり、落ち着いた声で応じた。
「わかりました。皆さん、慌てずに。窓から離れてください。閲覧を中止し、手荷物を持ってこちらに」
ざわめきが一気に膨れ上がる。
椅子が引かれ、ページが閉じられる音。誰かのペン先がインク壺を倒し、叱責の声が飛ぶ。それでも、全体としては秩序だった動きだ。さすがは学術都市の大図書館、とアルドは一瞬だけ場違いな感心を覚えた。
「先生……」
エリシャが、不安そうにこちらを見上げた。
「冒険者全員に出動要請だそうだ。のんびりここにいるわけにもいかないだろうな」
アルドはノートを閉じ、最低限の荷物だけを掴んだ。
机の上に開かれている書物は、司書たちが後で整えてくれるだろう。今は、ページを揃える余裕すら惜しい。
「まずはギルドに行くぞ」
「はい!」
エリシャも慌ててノートとペンを鞄に押し込み、アルドの後に続いた。
図書館を出ると、街の空気そのものが変わっているのがわかった。
いつもなら露店の呼び声と馬車の車輪の音が混じり合う広場が、今日は妙にざらついている。魔導ベルの音は、まだ遠くで鳴り続けていた。一定の間隔で、街全体に警告を刻み付けている。
通りには、人の流れが二つに分かれていた。
ひとつは、中央通りを外側へ向かう流れ。武装した冒険者や衛兵たちだ。もうひとつは、その反対側。市壁の内側へ、より安全とされる地区へ避難する市民の列だった。
「こっちだ」
アルドは、避難の流れを避けながらギルドの方角へと足を速めた。
すれ違う冒険者たちの顔には、緊張と興奮が半々に浮かんでいる。中には、見覚えのある顔もあった。
「南門だってよ! 街の外で暴れてるらしい!」
「また魔獣か? それとも魔導事故か?」
「知らねえよ! とにかく、ギルドマスターが全員集合ってさ!」
断片的な声が、風に乗って耳に届く。
ギルドの扉を押し開けると、いつもの喧噪とは質の違うざわめきが、内部を満たしていた。
受付前の広間には、既に何十人もの冒険者が詰めかけている。ランクも装備もまちまちだが、皆、腰に武器を下げ、緊張した表情で掲示板の前を見つめていた。
掲示板の前には、ギルドマスターが立っていた。
筋骨たくましい中年男。胸元まで伸びた茶色の髭を片手で撫でながら、もう片方の手で地図の貼られた板を叩く。
「──繰り返す。南門の外で、荷馬車が襲撃された! 運んでいたのは、王立考古学会の連中が調査していた『特別封印物』の一部だ」
ざわ、と空気が揺れた。
「特別封印物って、あれか?」
「ノア=ローアとか何とかいう遺跡の……」
「この前港で下ろされたって噂になってたな」
小声のさざめきがあちこちで上がる。
ギルドマスターは、それらを一喝で押し潰した。
「黙って聞け! その荷馬車が、南門の外、街道から少し外れた丘で何者かの襲撃を受けた。詳細は不明だが、護衛隊が一部壊滅し、〝封印核〟が露出したそうだ。その瞬間から、周囲の魔力が暴走を始めた!」
〝封印核〟という単語に、アルドの背筋がわずかに硬くなった。
「〝封印核〟が都市部の魔力網と共鳴し、封印が部分的に解除・暴走状態に陥った。周囲の魔獣が引き寄せられ、魔力の嵐も発生している。このまま放置すれば、暴走は市壁のこっち側にまで波及する恐れがある!」
その説明を聞きながら、アルドの頭の中には、自然と簡略図が浮かび上がっていた。
都市部の魔力網──街全体に張り巡らされた魔力供給のライン。それと、外部から持ち込まれた〝封印核〟の力が共鳴すれば、当然、歪みが生じる。
(やっぱり〝封印核〟が原因か……)
心の中で毒づく。
未解明なものを街中に持ち込めば、こうなる可能性は想像できたはずだ。王都の連中は、どこまで計算して動いていたのか。それとも、計算した上で、大したことはないと踏んだのか。どのみち、学会の連中には一度説教をくれてやらないと気が済まなかった。
「南門には既に王都の軍警備隊も向かっている! お前たちの役目は三つだ!」
ギルドマスターが、地図の上を指で叩く。
「第一に、市壁外に集まりつつある魔獣の迎撃。第二に、暴走した魔力の影響で発生した魔導事故の鎮圧。そして──〝封印核〟そのものへの対処だ!」
〝封印核〟への対処、という言葉が再び出た瞬間、広間のざわめきが一段階静まった。
その「第三」の役目が、どれだけ危険かを、本能的に理解しているのだろう。
「〝封印核〟の扱いについては、王立考古学会の連中から詳しい説明がある。ただし、奴らは戦えん。守るのはお前たちだ。各自、自分のランクと適性に応じて配置につけ! C級以下は市壁内の防衛と避難誘導! B級以上は南門周辺に集合だ!」
号令が飛ぶと同時に、冒険者たちが一斉に動き出した。
受付前には、仮設の仕分けカウンターが設置され、受付嬢たちがてきぱきと担当区域を書き込んだ紙を配っている。
喧噪の中から、アリアの声が飛んできた。
「アルドさん、エリシャちゃん! 探してたのよ。この問題に対処できそうなの、実質あなたたちくらいしかいなさそうだから……」
振り向くと、赤い髪の受付嬢が息を切らせながらこちらに駆け寄ってくるところだった。いつもは余裕の笑みを浮かべている彼女の顔には、明らかな焦りが滲んでいる。
「俺たちくらいと言われても、俺たちが行ったのはノア=セリアだ。ノア=ローアの遺物なぞ全く知らんぞ」
アルドは冷静に返した。
どんなに似たような言葉を持つ遺跡であっても、構造がまったく同じとは限らない。守護獣を倒したからといって、別の遺跡の封印核まで対応できると見なされるのは、少々飛躍が過ぎる。
「わかってるわよ、そんなことは」
アリアは、苦笑とも歪みともつかない表情を浮かべた。
「あの〝封印核〟はもともとノア=セリアの封印・防衛機構の安定化に使う予定だったらしいのよ。ノア=セリアのものと造りは似てるはずよ」
「似てるはずって……私たち、〝封印核〟を見たこともないんですよ? そんなの、無茶苦茶じゃないですか!」
エリシャが思わず声を荒げた。
普段は遠慮がちな彼女にしては珍しい抗議だった。ギルド側の言い分に、若干腹を立てているのだろう。気持ちはわかる。アルドも同意見だ。
責任を押し付けられるにしても、あまりに無茶が過ぎる。
「無茶を承知で頼んでるのよ! 学者連中も頼りにならないし、今はあなたたちくらいしか頼れないのよ。お願い……リーヴェを助けて」
アリアの声が一段階低くなる。
ギルドの受付嬢としてではなく、一人の街の住人としての叫びが、その言葉には含まれていた。
「半ば押し付けてるのは私も重々承知してる。でも、他に頼れる人がいないのよ。あなたたちには、報酬は破格にするってギルドマスターも言ってた。王立考古学会からの正式な謝礼も出るわ」
「待て。そもそも、何で〝封印核〟をこの街に持ってきた?」
アルドは、そこでようやく問いを挟んだ。
根本的な疑問だ。封印の核を切り出すこと自体、危険な賭けだというのに、それをわざわざ人の多い都市部に持ち込んだ理由がわからない。
「詳しくは私も知らないけど……ノア=セリア内部に持ち込む予定だった、と聞いているわ」
アリアは、眉間に皺を寄せて答えた。
「ノア=セリアに持ち込むつもりだった、だと?」
「ええ。ノア=ローアから切り出した〝封印核〟を、ノア=セリアの封印構造の安定化に使うつもりだったみたい。そうすれば、内部の調査がしやすくなる……っていうのが、学者連中の目論見らしいわね。だから、一度王都に集めて調整してから、ノア=セリアに運び込むための中継地点として、この街が選ばれたの」
理屈はわからなくはない。
ノア=セリアの封印は、現状、きわめて不安定だ。周囲の魔力網との接続が甘く、外部からの干渉にも弱い。その安定化に、似た系統の封印核を使おうという発想は、発想としては理解できる。だが──。
(都市のすぐ外に、そんなものを野晒しにしておくのが正気の沙汰かどうかは、別問題だ)
アルドは、舌の奥に鉄の味を感じた。
封印構造を弄るのなら、本来ならば、その近傍で、最低限の被害で済む場所で行うべきだ。街の魔力網と連結した状態で暴走が起きれば、その影響は都市全体に波及する可能性がある。最悪、リーヴェが「魔力災害の震源地」として地図から消えることだってあり得た。
それでも……今それを責めても意味はない。〝封印核〟は既にここにあり、今この瞬間にも暴走を続けているのだから。
「……状況はわかった」
アルドは短く息を吐いてから、エリシャの方を向き直った。
「エリシャ。今回は、これまでに比べて危険も大きい。街の防衛の方に回ってくれてもいいんだが……」
南門外で〝封印核〟に直接触れる役目は、明らかに高リスクだ。
市壁内の防衛に回れば、危険度はぐっと下がるだろう。避難誘導と、万一の侵入に対する迎撃。それでも十分に重要な役目だ。
だからこそ、選択肢として口に出した。
師として、弟子を危険から遠ざけるという、ごく真っ当な選択肢を。しかし──。
「……先生。私がそれに納得すると思いますか?」
エリシャは、一瞬だけ怒ったように目を細めた。
それからすぐに、その表情を綻ばせる。
「ずっと先生の味方だって、この前言ったばかりじゃないですか」
その言葉は、まるでごく当たり前の事実を確認するかのように、さらりと口をついて出た。
宿の窓辺で交わした会話が、脳裏で鮮やかに蘇る。利用されるだけ利用されて捨てられるのは御免だと零した自分に、「その時は私も一緒です」と笑ってみせた少女の横顔。
「……そうだったな」
アルドは呆れたように笑った。
肩の力が、僅かに抜ける。
危うい橋を渡るとき、誰かの手を取るということは、その誰かを同じ危険に巻き込むということだ。
それでも、彼女は「一緒に渡る」と言っている。
ならば、こちらも覚悟を決めるしかない。
「ギルドマスターに伝えてくれ」
アルドはアリアに向き直った。
「〝封印核〟への対処役、俺たちが引き受けよう」
「……ありがとう」
アリアの肩から、目に見えない重荷がひとつ落ちたような気がした。
彼女はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから受付カウンターの方へ叫んだ。
「マスター! 例の件、アルドさんたちが引き受けてくれるって!」
「よし!」
掲示板の前から、太い声が返ってくる。
「アルド=グラン、エリシャ=リュミエール! お前たちは〝封印核〟の現場に直行してくれ! 王都から来た考古学会の連中と合流し、封印核の暴走を止める方法を探れ!」
ギルドマスターが、地図の南門近くを指で叩く。
「お前たちには、南門外の丘に向かう第一陣に同行してもらう。ここに緊急依頼書を用意した。内容と報酬は後で細かく調整するが──命を張るに足る額は出すと約束しよう」
カウンターの端に、一枚の羊皮紙が叩きつけられる。
行数は少ないが、そこには『最優先』『緊急』『危険度:特級』の文字が並んでいた。
「サインだけでいいわ」
アリアが、手早くペンを差し出す。
アルドはそこに名前を書き付けた。エリシャも、その隣に小さく自分の名を記す。
羊皮紙にインクが滲むのを視界の端で確認しながら、アルドは手のひらを握り込み、魔力を高めた。エリシャも、慣れた手つきでローブの内側に補助用の魔法具を装着している。
「南門への最短ルートは?」
「ギルドからなら、中央通りをまっすぐ南へ。途中の広場で王都軍の隊と合流するはずよ」
アリアが手短に告げた。
「くれぐれも気をつけて。戻ってきたら、ちゃんと報告を聞かせてちょうだい」
「報告書は嫌いなんだがな」
アルドは、口の端だけで笑った。
「口頭でなら、いくらでも話してやる」
「それで十分よ」
アリアも同じように笑い返した。
ギルドの扉を抜けると、街の空気はさらに張り詰めていた。
南の空の一角が、わずかに揺らいで見える。夕暮れには少し早い時間帯だというのに、その部分だけが不自然に暗い。魔力の濃度が上がった時に見える特有のゆらぎだ。
「行くぞ。くれぐれも無理はするなよ」
「はい!」
ふたりは同時に〈飛行魔法〉で宙に浮き、南門へと向かって空を翔けていく。
魔導ベルの音は、まだ鳴り続けていた。リーヴェの街の南側、その外れで、〝封印核〟の暴走は確かに進行している。
世界の骨格に触れることを望んだ者の前に、その骨が剝き出しのまま姿を現そうとしていた。




