第34話 味方
リーヴェの港は、いつもとは違う緊張に包まれていた。
海から吹き込む風は変わらない。帆布と魚と塩の匂いもいつも通りだ。だが、桟橋の付近には、いつもより多くの衛兵が配置されていた。王都から派遣されたらしい紺色のマントの兵士たちが、船と陸との間に人の壁を作っている。
アルドとエリシャは、港を見下ろすことのできる坂道の途中に立っていた。
石畳の傾斜がゆるやかに続き、その両側には倉庫兼住宅が並んでいる。三階建ての建物の窓からは、物見高い市民たちの顔がちらほらと覗いていた。
「凄い人ですね……」
エリシャが、坂の下を見下ろして呟く。
〝封印核〟がどういうものか知らなくとも、「王都から特別な荷物が届く」と聞いただけで、これだけの人が集まる。好奇心と、不安と、噂好きの市民魂とが混ざったざわめきが、港の一角を満たしていた。
「見ろ」
アルドが顎で示した先。
大きな帆船の影から、ゆっくりと姿を現した。吊り下げられているのは、金属で補強された大きな木箱だ。その周囲には、白いローブを着た数人の学者風の人間が取り巻いている。
額の中央に金属製の細い輪を嵌めた男が、箱の側面に手を当てている。指先からは僅かな魔力のゆらぎが漏れ、そのたびに箱の表面の刻印が淡く光った。
「王立考古学会、か……」
アルドは、目を細めた。
箱の全面に刻まれた術式は、見覚えのある系統のものだった。ノア=セリアで見た封印構造の外縁部に使われていた『固定』や『遮断』の符号が、いくつも重ねられている。ただし、それはあくまで『外側』から付け足されたものだ。
(本来の封印は、もっと深いところにある。これは、切り出された断片を無理やり押さえ込むための、応急処置に過ぎん)
視線をさらに凝らすと、箱の隙間から、かすかに青白い光が漏れているのが見えた。
それは、どこか生物の呼吸のように、ゆるやかに明滅している。
世界の深部と浅層とが、微かに軋り合う音がしたような気がした。
「先生? 大丈夫ですか?」
隣で、エリシャが不安そうにこちらを見た。
「……ああ。問題ない」
アルドは、意識的に呼吸を整えた。
遠目から見ているだけでは、封印が今すぐ破綻する兆候はなさそうだ。箱の表面に刻まれた術式も、それなりに熟練した魔導師の手によるものだろう。
それでも、違和感は拭えなかった。あの遺跡は、本来なら世界の奥にこそあるべきものだ。外界から隔絶され、誰にも触れられない場所に。それが今、こうして街の喧噪の真ん中に移動してこようとしている。
違和感というより、嫌な予感が近かった。
「……行こう」
アルドは、坂道を背にして踵を返した。
「これ以上見ていても、得るものはない。〝封印核〟がどこに運ばれるかは、明日の朝になればギルド経由で情報が入る」
「はい」
エリシャも、名残惜しそうに港の方を振り返りつつ、彼の後を追った。
その後ろ姿を、遠くから見ている者がいることを、この時のふたりは知らない。
港の別の高台から、望遠鏡のような魔道具越しに彼らを見下ろしていた別の視線──王都から派遣された学術局の誰か──は、まだ物語の表舞台には上がってこない。
ただ、〝封印核〟がリーヴェに足を踏み入れたという事実だけが、静かに街の空気を変え始めていた。
*
その夜のことだった。宿の二階にあるいつもの部屋の窓は、半分だけ開け放たれていた。
外からは、石畳を行き交う人々の足音が遠く聞こえる。酒場から漏れ出る笑い声と、屋台を片付ける木箱の軋む音。昼間の喧噪に比べれば、ずっと柔らかい夜のざわめきだ。
アルドは、テーブルに向かっていた。
昼間ギルドで受け取った通達の写しと、封印核の護衛に関する補足書類。それらを手帳の脇に並べ、ノア=セリアのページに新たな見出しを追加していく。
〝封印核〟──ノア=セリアの封印構造の中心部と推定される結晶体。
王立考古学会の管理下で、リーヴェの城壁内倉庫に一時保管。
護衛はギルドと王都方面から来た軍警備隊の共同。
紙に情報を写し取ることで、頭の中のざわつきを一つずつ外へ追い出していく。
窓辺には、エリシャが腰掛けていた。
窓枠に両手を軽く置き、外の夜空を見上げている。街の灯りの向こう側に、星のいくつかが顔を覗かせていた。
そういえば、いつからか同室が当たり前になっている。空き部屋もあったはずだが、お互いにこの方が都合が良いことの方が多かった。
まあ……男女であるが故に、気を遣うことも結構あるのだが。
「先生が認められるの、嬉しいです」
エリシャが、ぽつりと呟いた。
アルドはペン先を止めて、彼女の顔を上げる。
彼女はは振り向かなかった。窓の外を見たまま、小さく笑うような吐息を漏らす。
「王立考古学会とか、王都からの通達に先生の名前が挙がってるとか……当たり前のことのように言われてますけど、本来凄いことじゃないですか。でも、先生は今まで、そういう場所からは全然違う扱いをされてきたんですよね?」
「まあ、『異端』とか『危険人物』とか、そういうラベルだな」
アルドは苦く笑う。
学院での査問会の光景が、ふと脳裏に蘇る。
長机の向こう側で互いに顔色を伺い合いながら、『規定に反する実験』『未承認の術式使用』『学生への悪影響』という言葉を並べ立てていた教授たち。ノリキンの顔も、その端にあった。
彼らにとって、アルドは『使うだけ使って、後で切り捨てればいい駒』でしかなかったのだ。
「ただ、もう利用されるだけされて捨てられるのは、御免だがな」
思わず、本音が口を突いて出る。
王都からの通達に名前が挙がるのは、名誉なことだ。確かに『認められた』と言えることかもしれない。だが、そこにどれだけの誠意が含まれているのか、アルドには判断がつかなかった。
学院での経験が、素直な喜びを邪魔している。
「そう、ですね……」
エリシャは小さく頷いた。
窓枠に置いた手に、少し力がこもる。
「王都の人たちが先生をどう見てるのかまでは、私にはわかりません。でも、少なくとも、リーヴェのギルドや、この街の人たちは、ちゃんと先生に『助けられた』って思ってると思いますよ?」
ノア=セリアから戻った夜。ギルドで向けられた視線。
行方不明になっていた冒険者たちを助け、帰還の道を確保した者としての評価。それは、学院で向けられていたものとは、明らかに違う色をしていた。
「その上で、王立考古学会が先生に助けを求めてくるなら……利用されるんじゃなくて、ちゃんと『頼られる』ってことなんじゃないかなって、私は思います」
「頼る、か」
アルドは、ペンを置いた。
窓辺のエリシャの横顔を、静かに見つめる。
彼女の言う『頼られる』は、きっと『一方的に使われる』とは違う意味を持っているのだろう。支え合うこと。互いに必要とし合うこと。
学院での自分は、明らかにそうではなかった。
あそこでは、アルドは異端の技術を提供するための装置でしかなく、その人間としての意志や感情は、ほとんど考慮されていなかった。
だから今、王立考古学会からの通達に自分の名前が記されていると聞かされても、その内実が『前と同じ』なのか、それとも違うのかの判断ができない。
その不安が、ついさきほどの言葉に繋がったのだ。
「でも……もし、また先生が利用されて捨てられたとしても」
エリシャが、ふとした物言いで言った。
「その時は私も一緒です。私はずっと、先生の味方ですから」
窓から差し込む灯りが、彼女の横顔の輪郭を柔らかく縁取る。瞳には、街灯の光と、遠くの星の光が小さく映っていた。
あまりにも、さらりと。「先生が利用されそうになったら、私が許しません」とでも言うような軽さで。
だが、その一言は、アルドの胸の奥にずしりと響いた。
(……味方、か)
味方という言葉が、こんなにも重く、こんなにも温かいものだとは。
学院にいた頃には、考えたこともなかった。
あの場所での味方は、せいぜいが研究室内の同僚同士の利害一致であり、「査問会で庇ってくれるかもしれない」という程度の期待でしかなかった。
今、目の前にいる少女は、そのどれとも違う。
彼女の『味方』は、研究の是非や利益の有無ではなく、もっと単純で、もっと個人的なところに根を下ろしているように思えた。
「そんなに簡単に言うな」
アルドは、わざと声音を軽くした。
「味方でいる、というのは、想像しているより面倒なことだぞ。特に、俺のような面倒事を呼び寄せる人間の側に立つというのはな」
「もう今さらですよ」
エリシャは、振り向いて笑った。
「ノア=セリアで先生と一緒に守護獣と戦った時点で、もう相当面倒な橋は渡ってますし。これからちょっとぐらい増えたって、誤差の範囲内です」
「誤差で片付けるな」
肩を竦めながらも、その言葉に、どこか救われる自分がいる。
そういえば、数日前にも『危うい橋を渡るなら、一緒に渡る』と似たようなことを言われた気がする。共犯者、と自分で口にした言葉が、また胸の奥で反芻された。
「私は……先生の傍で、ずっと魔法を学んでいたいんです」
エリシャは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「怖いことも、危ないことも、きっといっぱいあると思います。でも、先生ひとりで全部抱え込んで、利用されて、疲れて、捨てられるのなんて、絶対に嫌です。そんなの私が許しません」
そこだけ、少しだけ声が強くなった。
「だから、先生がどこまで世界に手を伸ばすのか、ちゃんと一緒に見ていたいんです。危ない時には止めますし、進めそうな時には背中を押します。そういう意味での『味方』です」
アルドは、しばし言葉を失った。
窓の外から、遠く誰かの笑い声が聞こえる。
夜風が、ほんの少しだけ部屋の中に流れ込んでくる。紙の端がかすかに揺れた。
「お前は……本当に、よくできた弟子だな」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
他に、適切な言葉が見つからなかったのだ。
師としての立場から見れば、「弟子にそこまで言わせている時点で、こちらの方が頼りないのではないか」と自己嫌悪も湧いてくる。
だが、その自己嫌悪すらも、今はどこか遠くに感じられた。
「先生の一番弟子ですから」
エリシャは、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、思わず胸がどきりと跳ね上がる。
美しい、と思ってしまったのだ。
これ以上ないくらいに。
確かに、不穏な前兆を感じなくもない。
自分たちが進もうとしている道が、静かな図書館の机の上だけでは終わらないことを告げる、小さな波紋。
だが、同時に──この弟子とならば、どんな困難でも乗り越えられるのではないか。
先ほどのエリシャの言葉からは、そんな確信を感じてしまった。
しかし、自分の選んだ道を、自分の判断で進むことができるなら。隣に、同じ図を覗き込んでくれる弟子がいるなら。
その先に待っているものが、たとえ危うい橋であっても、きっと渡り方はある。
そう、思えた。




