第33話 封印核
「今日は、あんまりインクの匂いが残ってない気がしますね」
石畳を歩きながら、エリシャが自分の袖口をくんくんと嗅いで言う。
今日も、午前中は図書館で紙と向き合い、昼には中庭で簡素な弁当を広げた。午後の早い時間に区切りを付けると、ふたりは冒険者ギルドへ足を向けていた。
「昨日ほど詰め込みはしなかったからな。今日は『神代語候補』よりも、『旧王国語の抜き出し』が中心だった」
「旧王国語、思ったより生き残りが多くて驚きました。街の名前にちょこちょこ紛れ込んでるのが面白くて……あ、先生。明日までにこの辺りの地図を写していいですか? 語源を調べたいです」
「好きにしろ。だが、道に迷うなよ。図書館の地図と現実の地図がズレていることもある」
「はーい」
そんな他愛もない話をしながら、ふたりはギルドに着いた。
リーヴェの冒険者ギルドは、昼下がりの時間帯がいちばん騒がしい。午前中の依頼を終えて戻ってきた冒険者たちと、これから夕方にかけての討伐に出る連中とがごった返しているからだ。
重たい扉を押し開けると、いつものざわめきと、酒と汗と革の匂いが押し寄せてきた。掲示板の前では、数人の戦士が依頼書の取り合いでちょっとした口論をしている。カウンターの向こうでは、アリアたち受付嬢が忙しく書類を捌いていた。
「今日も盛況ですね……」
エリシャが小さく呟く。
「リーヴェは交易都市だからな。周囲の街のギルドに比べれば、依頼の数も種類も多い」
アルドは、ひとまず掲示板の近くまで歩み寄った。
最近は「依頼を受けるため」ではなく、「危険度の高い依頼が出ていないか」を確認するために来ていると言っていい。ノア=セリアに近い森で異常があれば、真っ先にこの掲示板に情報が上がるからだ。
ざわつく人垣の隙間から、紙片がびっしりと貼られた板が見える。その上、いつもとは違う位置に、ひときわ目立つ大きめの羊皮紙が貼られていた。飾り気のない黒いインクで、しかしきっちりとした役所の書式に倣って文面が整えられている。
「……うん?」
アルドは、人の流れの切れ目を見計らって一歩前に出た。
羊皮紙の上部には、小さく王国の紋章。次いで、『王都より、ギルド本部および支部各所に向けての通達』とある。
目線を下へ滑らせていくと、ある一文で視線が止まった。
「遺跡?」
思わず、声に出ていた。
隣で同じように覗き込んでいたエリシャも、小さく息を呑む。
『古代遺跡ノア=ローアより回収された特別物資に関するお知らせ』という題目で、張り紙が貼られていたのだ。
アルドは、全文を読み直した。
要点を掻い摘むなら、こうだ。
──王都方面にて進行中の古代遺跡ノア=ローア調査の一環として、遺跡内部より〝特別封印物〟が回収された。その一部、すなわち〝封印核〟と称される結晶体が、王立考古学会の監督のもと、リーヴェに一時保管されることになった。
保管場所は市壁内の特定倉庫であり、その護衛および周辺警戒について、ギルドに協力を要請する──。
「〝封印核〟って何でしょう?」
エリシャが、文面を指でなぞりながら首を傾げた。
「さあな」
アルドは、短く返す。
正直なところ、その単語はアルドにとっても初耳だった。
あの遺跡で見た封印構造について、アルドが図書館で調べ続けてきたのは事実だ。だが、それはあくまで『術式の構造』『神代語との関連』といった言語・魔導理論側からのアプローチであり、『遺跡そのもの』の実地考古に関する資料は、意図的に後回しにしていた。
まずは、世界の階層構造を固める。遺跡の解釈は、そのあとでも遅くはない──そう判断したのだ。
だから、その〝封印核〟なる物体についても、文献上の記述をまだ目にしていない。
封印の中心に据えられる核そのもの、という意味なら理屈としてはわかる。しかし、それが実際に遺跡から切り出され、都市部に持ち込まれている──という事実には、言いようのない違和感があった。
(封印は、本来なら触らずに済むならそれに越したことはないはずだが……)
古代遺跡に派遣された王都の連中は、いったいどういう判断を下したのか。それに、ノア=ローア遺跡とはどこにあった遺跡なのだろう?
そんなことを考えていると、不意に背後から軽い声が飛んできた。
「ちょうどいいところに来たわ。これについて話したかったのよ」
振り向くと、アリアがそこにいた。
いつものように緩く巻かれた赤い髪がふわりと揺れ、片手には書類の束。だが、その横顔はどこか普段よりも真剣な色を帯びている。
「忙しそうだな」
「忙しいわよ。こういう通達が来ると、真っ先に騒ぐのは依頼人じゃなくて冒険者の方なんだから」
アリアは肩を竦め、それから少し身を乗り出してふたりの耳元に声を寄せた。
「あなたたちも、遺跡の件で名前が挙がってるわよ」
「……俺たちが?」
アルドは思わず眉を上げた。
彼女はにやりと口の端だけを上げ、手に持っていた書類の一枚を指で叩いた。
「王都からの書簡の末尾にね。『ノア=セリア遺跡における現地対応に貢献した者のリスト』っていうのがあって。その中に、あなたたちの名前があったの。『A級冒険者・アルド=グラン』『補助者・エリシャ=リュミエール』って」
「補助者、ですか……」
横でエリシャが、小さく自分の肩を抱くようにして呟いた。
声の色は、半分はくすぐったさ、半分は緊張だ。
「『今後、正式な調査隊を編成する際には、現地事情に詳しい冒険者への協力要請を検討すること』──まあ、要するに、そういうこと。ノア=セリアに関わった冒険者のうち、何人かは『候補』としてリストアップされてる」
アリアは、そこで一応周囲を見回した。
脇で依頼書を眺めている戦士たちは、〝封印核〟の通達の表面的な部分──つまり「王都から何か高級そうなものが来る」という事実と、「それを護衛すると高額報酬がもらえるかも」という期待──にばかり気を遣っているようだ。こちらの会話には、誰も耳を傾けていない。
「特に、あの遺跡の守護獣をどうにかして戻ってきた冒険者、っていう条件だと、該当者はかなり限られるからね」
「……なるほど」
アルドはあの石の獅子の姿を思い出す。
神代語と思しき命令文を上書きし、その行動原理そのものを書き換えた日のことだ。あれは、明らかに普通の冒険者の仕事ではなかった。
「だから、なのかな。王立考古学会の方から、ギルド経由で『現場顧問になり得る人物』として推薦を求められててね。うちとしても、王都とのパイプは太くしておきたいじゃない?」
アリアは悪びれもなく言った。
「ギルドとしては、王都に貸しを作っておきたい。王立考古学会としては、遺跡内部で何が起きたのか詳しく知っておきたい。利害は一致してるってこと。その何とかっていう核が何なのかはわからないけど、ノア=セリアの遺跡探索には有用らしいわ。それを使ってノア=セリアの探索を進めたいってことでしょうね」
アリアの説明は、あまりに実務的で、あまりに率直だった。
利用価値のある者を、利用価値のあるうちに囲い込んでおく。それはギルドの、いや、組織というもの全ての生存戦略だ。
「私たちが、王都公式の遺跡調査隊に……?」
エリシャが、思わずといった風に呟く。
目の色は、不安と期待が半々。学院時代、公式の調査隊の話は何度も耳にしてきたのだろう。それは選ばれる側ではなく、常に選ぶ側、評価する側の口からだとは思うが。
「まだ決まったわけじゃない。だが、ありえない話でもないな」
アルドは、努めて平静な声で返した。
事実として、あの遺跡で「何があったか」を詳細に説明できる人間は少ない。王都の魔導師たちは遠巻きに見ていただけで、封印構造に手を出そうとした者はほとんどいなかったはずだ。
それをやらかした自分と、その作業を隣で見ていたエリシャ。
現場を知る者として名前が挙がるのは、むしろ当然の帰結と言えた。
「そういえば、あいつらはどうした?」
「あいつら?」
「俺たちが助けた連中だ。ええっと……〝紅鷹〟だったか?」
その名前を出すと、アリアは「ああ……」と何かを思い出したような声を漏らした。
「〝紅鷹〟なら解散したわ。自分たちの非力さを痛感したって言ってね」
「そんな……せっかく助かったのに」
「せっかく助かったからこそ、なのかもね。そういえば、あなたたちにも御礼を伝えておいてって言われてたんだっけ。あんまりにも来ないもんだから、すっかり伝えそびれていたわ」
「そうですか……残念です。少しお話したかったのですが」
エリシャが寂しげな声を漏らした。もしかすると、同世代の女子と仲良くなりたかったのかもしれない。
実際、確かに辞めるのは勿体ないなとアルドも思った。
守護獣には勝てなかったかもしれないが、彼女たちの対処は完璧だった。勝てないなら勝てないなりに、生き残るための最善を尽くしていた。彼女たちなら、きっとA級も夢ではないと思ったのだが……諦めてしまったか。
「まあ、今のとこあなたたち以外に適任はいなさそうなのよね。続報はちょっと待ってってことで。そのうち、正式に依頼を出すわ」
アリアは、そこでいつもの調子に戻った。
軽く片目を瞑ってみせる。
「王立考古学会名義になるか、ギルド名義になるかはまだ調整中。いずれにしても、『ノア=セリアに関する諸々の相談に乗ってください』って依頼が、ここに貼られることになると思う」
「ギルド経由で来てくれるなら、こちらとしても話は早い」
アルドは小さく頷いた。
「学会経由で来られるよりは、ずっとな」
「そう言うと思った」
アリアは、くすっと笑った。
その笑いには、アルドの経歴をそれとなく知っている者だけが持つ、微妙なニュアンスが混ざっていた。
「ともかく。〝封印核〟の件で、街の中も少し騒がしくなると思うわ。護衛の追加募集もかかるだろうし、『何か危険なことがあったら困る』って騒ぐ商人たちも出てくる。あんまり面倒事に巻き込まれたくないなら、港の方には近づかない方がいいかもね」
「〝封印核〟は、港経由で来るのか?」
「ええ。今日の夕方には、港の外れに臨時の荷下ろし場が設けられるって話よ。そこから市門を通って、城壁内の倉庫まで運ばれるみたい。見ておきたいなら、通り沿いの高い場所から眺めるくらいはできるんじゃない?」
アリアは、意味ありげに片眉を上げた。
「まあ、あまり近づきすぎると、王都から来た偉い人たちの警備隊に睨まれるでしょうけどね。彼ら、石一つでも『学術的価値』がどうとかって騒ぐから」
その口ぶりには、明らかな皮肉が混じっていた。
ギルドと学術機関との距離感は、どこの街でも似たようなもののようだ。
「何かあったらまた知らせるわ。あなたたちのこと、勝手に『推薦する側』に回しちゃったのは申し訳ないって思ってるけど……」
「別に構わん。俺からも頼んだしな」
アルドは肩を竦め、それに、と続けた。
「こちらも調べたいことがあるのは事実だ。遺跡の封印構造について公式の調査記録に触れられるなら、それに越したことはない」
「でしょ? そう言うと思ったのよ」
アリアは満足そうに頷く。
「じゃあ、続報を待ってて。──ああ、それと」
去り際に、ふと足を止めた。
「護衛の募集が出たからって、好奇心だけで〝封印核〟の側には近づかないこと。あれが本当に『核』なら、何かあった時に危ないのは、たぶん一番近くにいる人たちだから」
それだけ言うと、アリアはすぐさま別の冒険者に呼ばれてカウンターへ戻っていった。
残されたふたりは、しばし掲示板の前で言葉を失う。
「……先生」
エリシャが、不安そうにアルドを見上げた。
「私たち、どうします? 〝封印核〟、見に行きますか?」
「いや、面倒そうだし、近づくのはやめておこうか。まあ、視界の端で見るくらいなら特に問題なさそうだが」
アルドは掲示板から目を離し、ギルドの出入口の方角を見やった。
港から市門までの道筋を、頭の中で描き直す。荷車が通るなら、どのルートを選ぶか。どこに見物人が集まり、どこに衛兵の列が張られるか。
「〝封印核〟がどんな形をしているか、どんな術式で囲われているか。遠目でも、何かしらの情報は拾えるはずだ」
そう告げる声の中に、自分でも気付くほどの硬さが混じっていた。
封印の「核」を切り出すという行為。それ自体が、世界の骨格に対する露骨な介入だ。
安全な距離を取りながら、その介入の痕跡だけは目に焼き付けておく必要がある──そう感じていた。




