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【書籍化決定】追放された最強魔導師は、弟子の天才美少女と世界を巡る。~無詠唱魔法で無双しながら弟子とゆったり研究旅行~  作者: 九条蓮


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第32話 図書館でラブコメをするな③

 どれくらい時間が経っただろうか。

 窓の外の空はすっかり茜色から群青色へと変わり始め、魔導灯の光がひときわ際立ってきた頃、学術資料室の奥で静かな鐘の音が鳴った。

 閉館時間を告げる合図だ。


「……エリシャ。そろそろ起きろ。閉館時間だ」


 アルドはそっと名前を呼んだ。

 ローブに包まれた肩が、ぴくりと震える。


「え……? あれ?」


 かすれた声がローブの内側から漏れる。

 エリシャはゆっくりと顔を上げ、瞬きをした。眠りから覚めたばかりの瞳が、焦点を探すようにぼんやりと揺れる。


「あの……もしかして私、寝てました?」

「見事に」


 簡潔に返すと、彼女の頬がみるみるうちに赤くなっていった。


「す、すみません! ちょっとだけ目を閉じるつもりだったのに……」

「図書館での居眠りは犯罪ではない。安心しろ。……ただ、ペンは落としそうになっていたがな」

「うぅ……今日の私、ダメダメじゃないですか」


 エリシャは机に頬を押し当てるようにして、情けない声を漏らした。

 そのまま俯いていたら顔半分が真っ赤になっただろうが、ちょうどその上にローブの裾が被さっているので、外からは見えにくい。


「あれ?」


 そこで、自分の肩にローブが掛かっていることに気付いたらしい。


「ローブ、かけてくださったんですか?」


 少し間を置いてから、こそっと聞いてくる。


「寒そうだったからな。風邪を引かれても困る」

「ありがとうございます……」


 短く礼を言ってから、エリシャはローブをきちんと畳み直し、椅子の背に掛け直す。その仕草ひとつにも、どこか照れと安堵が混ざっていた。


「ローブなしで寒くなかったですか?」

「お前よりは耐性がある。年季が違うからな」

「なんかその言い方、ちょっとずるいです」


 不満そうに唇を尖らせながらも、彼女の声にはどこか嬉しそうな響きが混ざっている。

 図書館の静かな空気の中、そのささやかなやり取りは、他の誰の耳にも届かないまま宙に溶けていった。


「さあ、閉館だ。今日拾った足跡は、宿に戻ってから整理するとしよう」

「はい。私は『図書館で寝落ちしないこと』って書き足しておきます……」


 余程堪えたのだろう。

 どころなく落ち込んでいるのが伝わってくる。


「それはいいが、最初から守れると思わない方がいいぞ」

「ええっ?」

「研究というのは、時に睡眠と引き換えに進むものだ。……ただ、その交換を誰とどこまで共有するかは、よく考える必要があるがな」


 さっきローブを掛ける時に見た、静かな寝顔を思い出しながら、アルドはぼそりと言葉を継いだ。


「少なくとも、無理な引き換えはさせない。そう決めた」


 エリシャは目を瞬かせ、小さく息を飲んだ。


「……じゃあ、私は先生の決めた範囲内で、精一杯居眠りを我慢します」

「妙な解釈をするな」


 肩を竦めつつ、アルドは机の上の本とノートを手早くまとめた。

 脚立の下に戻しておいた論文集も、きちんと元の棚に戻す。今度は自分が脚立に上がり、エリシャは下で本を受け取る側だ。


「先生、脚立、気をつけてくださいね」

「言われなくても」


 さきほど自分が彼女を支えた時と同じ距離感で、今度はエリシャが脚立の脇に立つ。

 片手で脚立の支柱を押さえ、もう片方の手を本の受け取り口に差し出している。その姿を見下ろしながら、本を一本ずつ渡していった。

 棚に本を戻し終える頃には、学術資料室の灯りが徐々に落とされ始めていた。

 廊下からは、閉館を告げる司書の静かな声が聞こえる。

 ふたりで閲覧卓に頭を下げ、最後に椅子をきちんと押し込んでから部屋を出た。

 廊下に出ると、重たい本と紙の匂いに代わって、少し冷たい石の匂いが鼻をくすぐる。階段を降り、大図書館の大扉を押し開けると、外はすでに夕闇に包まれかけていた。

 オレンジ色の街灯がぽつぽつと灯り始め、石畳の道に淡い光の輪を落としている。


「ふぁ……」


 外気に触れた途端、エリシャが小さく欠伸を噛み殺した。

 手で口元を隠しながら、気まずそうにアルドを見る。


「まだ眠そうだな」

「い、いえ! 夕ご飯食べたら目が覚めます!」


 ご飯を食べたら眠くなるのではないだろうか。

 そんなツッコミが一瞬浮かんだが、控えておいた。


「その前に、研究ノートの『図書館で寝落ちしないこと』の項目を、少し現実的な文言に修正しておけ」

「じゃあ、『寝落ちしたら先生がローブを掛けてくれる』に……」

「却下だ」


 即座に否定すると、エリシャは「ですよね」と苦笑した。


「でも、嬉しかったです」


 ふと、真面目な声でそう付け加える。


「先生って、いつも『自己責任でやれ』って言うじゃないですか。でも、ちゃんと見てくれてて、何かあったら手を貸してくれるっていうか……」

「それが、師匠の仕事だからな」


 アルドはそう言って、夕暮れの石畳に視線を逃がした。

 足元の影が、ふたり分。街灯の灯りに伸ばされた影が、ぴたりと並んでいる。

 弟子は師匠に甘いし、師匠は弟子に甘い。何だか、互いに甘やかし合っている気がしなくもないが、どうなのだろうか。

 そんなことを考えながら、図書館を背にして歩き出す。

 リーヴェの街は、夕刻から夜へ向かう境目の時間帯で、店の扉が一つ、また一つと開き始めていた。屋台の香ばしい匂い、行き交う人々の話し声。その合間を縫うように、ふたりは宿への道を辿っていく。


「先生」


 ふと、不意に呼び止められた。


「なんだ」

「……今日のこと、ノートに書いてもいいですか?」

「脚立から落ちかけた件か」

「それもですけど……それは『反省事項』のページに書きます。そうじゃなくて」


 エリシャは少しだけ歩を緩め、空を見上げた。

 夕焼けの名残が、まだ西の端に薄く残っている。その下で、街灯の光がひとつ、またひとつと増えていく。


「『先生と一緒に、世界の骨格を覗きに行く日々』っていう見出しで。今日の脚立事件も、図書館で寝落ちしたのも、全部、そこに含めたいなって」

「見出しにするには、少々気恥ずかしい文言だな」

「ですよね。でも、全部忘れたくないんですよ。どんな小さなことも、全部」


 エリシャは笑って、胸の前でそっと自らの手を重ねた。


「いつか、この研究が終わったあとで、『あの頃はこんなふうに毎日図書館に通ってたんだな』って、ちゃんと思い出せるように。先生と一緒に危ない橋を渡りながら、でもちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝落ちして、ちゃんとローブもかけてもらってたって」

「最後の一文はいらん」


 ひとつひとつ否定し始めればきりがないが、今更細かく訂正する気にもなれなかった。

 むしろ、そうやって誰かが記録してくれるという事実の方に、少しだけ救われている自分がいる。


(途中式を、誰かが横で書いていてくれる、か)


 数日前に抱いた感想が、また胸の奥で反芻される。

 孤立無援で論文と向き合っていたかつての自分と違い、今の自分は、同じ図面を覗き込み、同じように首を傾げる弟子と並んでいる。


「でも、ローブを掛けてもらうイラストって難しいですね。棒人間でどう描けばいいんでしょう?」

「イラストはやめろ」


 そんなやり取りを続けながら、ふたりの影は夕闇の中にゆっくりと伸びていった。

 図書館でのささやかな出来事。

 脚立の上でぐらりと揺れた一瞬と、机に突っ伏して訪れた短い眠り。

 どちらも、世界の骨格とは何の関係もない、取るに足らない日常のひとコマだ。

 だが、その小さな波紋が、やがて大きな流れの一部になることを──この時のアルドは、まだ知らない。

 ただ、ローブを肩に掛けた弟子の横顔と、腕の中で支えた体温の感触だけを、静かに胸のどこかに仕舞い込んでいた。

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