第31話 図書館でラブコメをするな②
午前中の脚立騒動は、ひとまず今後の教訓として処理され、午後の作業に支障をきたすことはなかった。
エリシャは、さっきの失敗を取り返すかのように黙々とノートを取り続け──いや、いつも以上に集中していたと言ってもいいだろう。
神代語仮説を掲げた論文から古代語の断片を抜き出し、昨日までに作った一覧表に追加していく。似た意味を指すとされる単語ごとに色を変え、小さな矢印で結び直し、時には唇の動きだけを動かして発音を確かめている。
一方のアルドは、無詠唱での魔法発動と高位詠唱を対比させたメモに、補足の注釈を加えていた。
高位詠唱を用いた英雄たちの逸話の中には、『発動までに時間がかかったが、詠唱自体は極端に短かった』という記述が多い。即時性の面では無詠唱に及ばずとも、意味の圧縮度合いでは限りなく神代語に近づいている可能性がある。
(世界とどの段階で握手しているか、という話だな)
アルドは、手帳の中に簡略図を描いた。
起点に術者、その先に世界。通常詠唱は途中にいくつも小さな丸を挟み、そこに「説明」と書き込む。高位詠唱は、その丸を極限まで減らした線。無詠唱は、ほとんど直線に近い。神代語に至っては、起点と終点が半ば重なっているような図形だ。
「……先生、その図、ちょっと可愛いですね」
「可愛いとか言うな。真面目な図解だぞ」
いつの間にか隣から覗き込んでいたエリシャが、くすくすと笑う。
「でも、すごくわかりやすいです。あ、ここに『説得』って書き足してもいいですか? 通常詠唱の途中の丸のところに」
「好きにしろ。あまり遊び過ぎるなよ」
「はーい」
ペンを借り受け、彼女は小さく「説得」と書き込んだ。
丸い字が、図の端にちょこんとくっつく。
そんなふうに、ふたりして紙の上に世界の構造を書き込んでいく時間は、いつまででも続けられるように思えた。
──だが、肉体の方には限界がある。
夕刻に差し掛かる頃には、魔導灯の光が少しだけ光量を変え、窓硝子の向こうの空が淡い橙色に染まり始めていた。
学術資料室の中も、午前中に比べて人影は少し減っている。長時間座っていた研究者が一度席を立ち、伸びをしに廊下へ出ていく姿がちらほら見える。
アルドはインク壺の蓋を閉じ、一度肩を回した。軽く首を傾けると、こき、と小さな音が鳴る。長時間うつむいていたのだろう、肩から背中にかけて、鈍い重さが張り付いていた。
「エリシャ。そろそろ一旦休憩を──」
いつものように声をかけようとして、ふと言葉が止まった。
隣の席で、エリシャがペンを握ったまま、微妙な角度で前に傾いていたからだ。
ノートの上に置いた手の甲に、額がそっと触れている。その上から落ちてきた前髪が、ページの余白にふわりとかかっていた。
机の上には、読みかけの論文集と辞典が広がっている。その真ん中で、彼女はきれいに沈没していた。
「……寝たな」
思わず、小さく呟いてしまう。
最初に気づいたのは、ペン先がインク壺の縁を掠めるような不自然な止まり方をしていたからだ。いつもなら、書き終えたあときちんとペン置きに戻すか、少なくともノートの端に退避させる。だが今は、書きかけの文字の上に中途半端にとどまり、そのまま力を失っていた。
近くで覗き込むと、エリシャの肩が規則正しく上下しているのがわかる。
呼吸は穏やかで、目元の力も完全に抜けている。唇が、寝言とも言えない小さな動きでなにかを形作っているが、音にはならない。
(……無理もないか)
朝からここまで、一度も「疲れた」と口にしなかった。
脚立の一件の後は、むしろいつも以上に集中していた。慎重さと張り詰めた緊張、その両方を抱えたまま、紙に向かい続けていたのだろう。
アルドは静かに立ち上がり、周囲を見回した。
近くの卓には、今は誰も座っていない。少し離れた場所に年配の男がひとり背を丸めて本を読んでいるが、こちらに注意を向けている気配はない。司書の姿も、今はカウンターの方で別の閲覧者に応対している。
問題ない。誰にも気づかれずにできるだろう。
アルドは、自分の椅子の背に掛けていたローブを手に取り、エリシャの肩のあたりにそっと掛けた。
彼女の上半身は机に寄りかかるようにして倒れているが、背中の半分ほどが露出していた。図書館の空気は冷えすぎてはいないものの、じっと座っていると、知らず知らずのうちに体温を奪っていく。
布がふわりと肩を覆うと、エリシャの指先がぴくりと動いた。
だが、完全に目覚めることはなく、ただ少しだけ寝返りを打つように顔の向きを変える。机の木目に押し付けられていた頬が、わずかにローブの方へ滑った。
「…………」
アルドは、しばらく黙ってその横顔を見下ろしていた。
起きている時とは少し違う表情。きっちりと整えていた前髪の一筋が、額の真ん中に落ちている。睫毛の影が頬に細い弧を描き、口元はわずかに緩んでいる。
ふと、のどかな比喩が頭をよぎる。午睡中の子猫──などと言えば、からかわれてしまうだろうか。
(……弟子の寝顔を眺めている師というのも、なかなか間抜けだな)
自嘲めいた思いを抱きながらも、視線はその場から離れなかった。
学院にいた頃、学生の居眠りなど珍しくもなかった。退屈な講義中にうとうととしている者を見つけては、黒板のチョークで机を叩いて起こしたこともある。
だが、今ここでそれをする気にはなれなかった。
この数日間、彼女がどれだけの勢いでノートを埋めてきたかを知っているからだ。神代語の痕跡を探す作業は、地味で面倒で、ほとんど報われない。多くの研究者が途中で投げ出してきた領域だ。
そんな作業に、エリシャは文句ひとつ言わず付き合っていた。いや、むしろ楽しそうに見える瞬間すらある。
ならば、この程度の眠りくらい、誰にも咎められる筋合いはない。
「……インクが乾く前に、ペンだけは何とかしておくか」
アルドは、彼女の指先をそっとつまみ、ペンを抜き取った。
握りしめているのではなく、半ば滑り落ちるように握りかけていたので、骨ばった指先に力を入れずに済む。ペン先についたインクは、まだ完全には乾いていない。
自分のノートの端の余白に、軽く線を引いてインクを落とす。黒い筋が一本、紙の端に増えた。
(……まあ、これくらいの汚れなら、後から見ても自分で何を書いたのか思い出せるだろう)
そう思って、ペンをペン置きに戻す。
ふと視線を戻すと、エリシャの指先が自分の方へわずかに伸びてきていた。夢の中で何かを探しているのだろうか。机の木目を、白い指が優しく撫でている。
「……安心しろ。どこにも行かん」
誰に聞かせるでもない声で呟き、アルドは席に戻った。
ローブを取られてしまったので、背中に直接当たる椅子の木の感触がいつもより冷たい。
手帳を開き、昼間のうちにまとめきれていなかった箇所にペンを走らせた。
時々、視界の端にローブの裾が揺れる。エリシャの肩が小さく上下する。そのたびに、意識の何割かがそちらへ引き寄せられるのを、無理やり文字の列の中に引き戻した。
ふと、目の前のページの余白に、つい先日エリシャが書き加えた一文が目に入る。
『決して〝壊さないこと〟』
ノア=セリアの封印構造に関する項目の下に、小さな字で添えられた注意書き。
世界の深部に手を伸ばそうとしている自分にとって、忘れてはならない一文だ。
(そうだな。こいつの睡眠も、できるだけ壊さないようにしておこう)
無茶な徹夜や、魔力の限界まで使い潰すような訓練は、彼女にはさせないつもりだった。
危うい橋を渡るなら、足場はできるだけ確かなものにしておく。それは、自分ひとりで危険な魔術に取りかかった結果、何人もの同僚や学生に心配をかけた過去を持つ身としての、せめてもの戒めだ。
ページに新たな文字列が並んでいく。
神代語らしき単語の共通パターン。無詠唱発動時の感覚の細かな違い。高位詠唱との対応関係。どれもまだ仮説の域を出ない断片だが、それでも書き留めておくことで、いつか線になる日が来るかもしれない。




