表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍化決定】追放された最強魔導師は、弟子の天才美少女と世界を巡る。~無詠唱魔法で無双しながら弟子とゆったり研究旅行~  作者: 九条蓮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/50

第30話 図書館でラブコメをするな

 その日も、朝一番から図書館にいた。

 まだ外気の冷たさが石壁に残っている時間帯で、学術資料室の窓には薄く曇りがついている。高い天井から落ちてくる魔導灯の光は柔らかく、机の上の紙面だけを静かに照らしていた。

 アルドとエリシャは、すっかり「いつもの席」と呼べる場所を手に入れている。窓から少し離れた中ほどの閲覧卓。左右に本棚があり、背の高い書架に囲まれて、ちょうど小さな一角だけが切り取られたような場所だった。


「先生、この棚の上の段、神代語仮説ってラベルのついた論文が固まってるみたいです」


 午前の作業配分を終えると、エリシャがそう言って立ち上がった。

 指さした先──学術資料室の奥まった一角には、『言語史・魔導言語学』と札の下がった書架が並んでいる。最上段には、古い背表紙の本がずらりと並び、革の色は黒から茶まで微妙に異なっていた。


「脚立を借りてくる。お前は下で待っていろ」


 そう言って椅子を引いたのだが、すぐに制止の声が飛んできた。


「大丈夫です。取りに行くだけなら私もできますよ。軽い方が上の段には向いてますって」

「軽いかどうかと、危険かどうかは別──」


 言い終える前に、エリシャは素早く脚立を引き寄せていた。

 図書館備え付けの小さな木製の脚立。段は三段で、一番上まで上がればかなりの高さになる。エリシャはそれを本棚の前にきちんと据え置くと、ひょいひょいと身軽に上がっていった。


「ほら、ちゃんと真ん中踏んでますから。大丈夫ですよ」


 そう言って笑ってみせる顔は、どこか得意げだった。

 アルドは僅かに眉をひそめたものの、その場から無理に引きずり下ろすような真似はしなかった。脚立の側に立ち、手だけは届く距離を保つ。


「せめて、片手は棚か脚立を持っていろ。両手を本に使うな」

「はーい。……ええっと、この辺りですね。『神代語仮説補遺』『創世言語の位相』、それから──うわっ、意外と重い……」


 上段の本はどれも分厚く、背表紙の革も固くなっている。エリシャは片方の手で棚の端を掴み、もう片方の手で慎重に本を引き抜こうとした。

 その瞬間だった。

 ぎ、と脚立の足が小さく鳴り、ぐらりと木の感触が揺らいだ。


「──ッ」


 呼吸の音もない一瞬。エリシャの身体が、ほんのわずかだが後ろに傾ぐ。

 視界の端で、ローブの裾がふわりと浮き上がった。

 考えるより先に、身体が動いていた。

 アルドは脚立のわきに踏み込むと、その細い腰を片腕で支える。重さというほどのものはない。だが、支えなければ、そのまま後ろに倒れていただろう。


「っと……!」


 エリシャの身体が、腕の中にすっぽりと収まる。

 香草と紙とインクが混じったような匂いが、ふと鼻腔をかすめた。髪がさらりと頬に当たり、わずかにくすぐったい。


「せ、先生!?」


 頭のすぐ上から、裏返った声が落ちてくる。

 アルドは「動くな」と短く言い、脚立の縁を片手で押さえながら、ぐらつきを静めた。ギシ、と木が軋み、やがて元の位置に落ち着く。


「だから言っただろう。片手は棚か脚立を持てと」


 わざと淡々とした口調で告げる。

 しかし、腕の中で僅かに震えている身体までは、どうしようもない。


「す、すみません……っ。でも、本が思ったより重くて、つい……」


 エリシャはまだ最上段に立ったまま、下を見下ろす形でアルドを見ていた。

 視線が、近い。いつも読み上げた文献から顔を上げるときよりも、ずっと。

 緑がかった瞳の縁に、かすかな涙の光のようなものが溜まりかけている。


(……怖かったのは、こっちもだ)


 アルドは心の中で苦く笑った。

 脚立がきしんだ瞬間、過去の別の事故が一瞬よぎったからだ。

 学生時代、似たような事故を学院の図書館で見たことがある。重力に引かれて崩れ落ちる身体、間に合わなかった手。あの時とは違い、ここには高さも緩衝材も十分にあるというのに。


「とりあえず、その本を俺によこせ。片手で弄ぶな」

「は、はい」


 エリシャは、抱えかけていた古い論文集をそろりと差し出した。

 アルドは空いている方の腕でそれを受け取り、脚立の下にそっと置く。


「よし。ゆっくり降りろ。急ぐ必要はない」

「……はい」


 エリシャは一段ずつ、慎重に脚を移動させていった。

 その間も、アルドは腰のあたりを支えたまま手を離さなかった。図書館の静寂の中、その程度の布ずれの音など、誰も気に留めてはいないだろう。

 一番下の段に足がついたところで、エリシャの身体がわずかに力を抜いた。そのまま降りてくる勢いで、胸元がアルドの胸に軽く当たる。


「……っ」


 互いに、息を呑んだ。

 接触と呼ぶにはあまりにささやかな一瞬。けれど、図書館のひんやりとした空気の中では、そこだけが妙に生々しく感じられた。

 エリシャが慌てて一歩下がる。

 ようやく、腕の中から体温がするりと逃げていった。


「す、すみません!」

「……別に謝らなくていい」


 努めて落ち着いた声で応じる。

 だが、手のひらの内側には、さっきまで掴んでいた細い腰の感触が、まだ微かに残っていた。


「……とにかく、上段の本を取る時は、今後は俺が上がる。お前は下で受け取れ」

「で、でも先生の方が重──」

「体重の話をしているのではない。俺の方がバランス感覚がいいからな」


 それに、アルドの場合は無詠唱で〈飛行魔法(レビテーション)〉が使える。仮にこの高さで足を滑らせたとしても、落下する心配がないのだ。


「……はい。わかりました」


 エリシャは肩を竦めてから、控えめに頷いた。

 黙り込んだままの弟子の横顔を見ると、先ほどまでの血の気の引いた蒼白さは薄れてきていた。代わりに、頬のあたりにじわじわと赤みが戻ってきているが。


「それよりも」


 アルドは、わざと話題を変えた。


「さっきの本だ。『創世言語の位相』とあったな。タイトルだけ見るとそれなりに期待が持てるが、中身はともかくとして」

「あ、はい。じゃあ、他の神代語仮説ってラベルのも……上から順に渡しますね」


 そう言って、エリシャは一段目だけに足を乗せ、棚の中段の本を一本ずつ引き抜いていった。今度は、片手でしっかりと脚立の支柱を掴んだまま。

 さっきの出来事は、そこから先はあくまで注意事項のひとつとして、「上段の本は師匠が担当」という規則に変換されていった。だが、アルドの腕の中に一瞬だけ収まった体温の記憶は、簡単には変換されなかった。


(……研究者生活というのは、本来もっと無味乾燥なものだったはずなんだがな)


 心のどこかで、そんな感想を覚えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ