第30話 図書館でラブコメをするな
その日も、朝一番から図書館にいた。
まだ外気の冷たさが石壁に残っている時間帯で、学術資料室の窓には薄く曇りがついている。高い天井から落ちてくる魔導灯の光は柔らかく、机の上の紙面だけを静かに照らしていた。
アルドとエリシャは、すっかり「いつもの席」と呼べる場所を手に入れている。窓から少し離れた中ほどの閲覧卓。左右に本棚があり、背の高い書架に囲まれて、ちょうど小さな一角だけが切り取られたような場所だった。
「先生、この棚の上の段、神代語仮説ってラベルのついた論文が固まってるみたいです」
午前の作業配分を終えると、エリシャがそう言って立ち上がった。
指さした先──学術資料室の奥まった一角には、『言語史・魔導言語学』と札の下がった書架が並んでいる。最上段には、古い背表紙の本がずらりと並び、革の色は黒から茶まで微妙に異なっていた。
「脚立を借りてくる。お前は下で待っていろ」
そう言って椅子を引いたのだが、すぐに制止の声が飛んできた。
「大丈夫です。取りに行くだけなら私もできますよ。軽い方が上の段には向いてますって」
「軽いかどうかと、危険かどうかは別──」
言い終える前に、エリシャは素早く脚立を引き寄せていた。
図書館備え付けの小さな木製の脚立。段は三段で、一番上まで上がればかなりの高さになる。エリシャはそれを本棚の前にきちんと据え置くと、ひょいひょいと身軽に上がっていった。
「ほら、ちゃんと真ん中踏んでますから。大丈夫ですよ」
そう言って笑ってみせる顔は、どこか得意げだった。
アルドは僅かに眉をひそめたものの、その場から無理に引きずり下ろすような真似はしなかった。脚立の側に立ち、手だけは届く距離を保つ。
「せめて、片手は棚か脚立を持っていろ。両手を本に使うな」
「はーい。……ええっと、この辺りですね。『神代語仮説補遺』『創世言語の位相』、それから──うわっ、意外と重い……」
上段の本はどれも分厚く、背表紙の革も固くなっている。エリシャは片方の手で棚の端を掴み、もう片方の手で慎重に本を引き抜こうとした。
その瞬間だった。
ぎ、と脚立の足が小さく鳴り、ぐらりと木の感触が揺らいだ。
「──ッ」
呼吸の音もない一瞬。エリシャの身体が、ほんのわずかだが後ろに傾ぐ。
視界の端で、ローブの裾がふわりと浮き上がった。
考えるより先に、身体が動いていた。
アルドは脚立のわきに踏み込むと、その細い腰を片腕で支える。重さというほどのものはない。だが、支えなければ、そのまま後ろに倒れていただろう。
「っと……!」
エリシャの身体が、腕の中にすっぽりと収まる。
香草と紙とインクが混じったような匂いが、ふと鼻腔をかすめた。髪がさらりと頬に当たり、わずかにくすぐったい。
「せ、先生!?」
頭のすぐ上から、裏返った声が落ちてくる。
アルドは「動くな」と短く言い、脚立の縁を片手で押さえながら、ぐらつきを静めた。ギシ、と木が軋み、やがて元の位置に落ち着く。
「だから言っただろう。片手は棚か脚立を持てと」
わざと淡々とした口調で告げる。
しかし、腕の中で僅かに震えている身体までは、どうしようもない。
「す、すみません……っ。でも、本が思ったより重くて、つい……」
エリシャはまだ最上段に立ったまま、下を見下ろす形でアルドを見ていた。
視線が、近い。いつも読み上げた文献から顔を上げるときよりも、ずっと。
緑がかった瞳の縁に、かすかな涙の光のようなものが溜まりかけている。
(……怖かったのは、こっちもだ)
アルドは心の中で苦く笑った。
脚立がきしんだ瞬間、過去の別の事故が一瞬よぎったからだ。
学生時代、似たような事故を学院の図書館で見たことがある。重力に引かれて崩れ落ちる身体、間に合わなかった手。あの時とは違い、ここには高さも緩衝材も十分にあるというのに。
「とりあえず、その本を俺によこせ。片手で弄ぶな」
「は、はい」
エリシャは、抱えかけていた古い論文集をそろりと差し出した。
アルドは空いている方の腕でそれを受け取り、脚立の下にそっと置く。
「よし。ゆっくり降りろ。急ぐ必要はない」
「……はい」
エリシャは一段ずつ、慎重に脚を移動させていった。
その間も、アルドは腰のあたりを支えたまま手を離さなかった。図書館の静寂の中、その程度の布ずれの音など、誰も気に留めてはいないだろう。
一番下の段に足がついたところで、エリシャの身体がわずかに力を抜いた。そのまま降りてくる勢いで、胸元がアルドの胸に軽く当たる。
「……っ」
互いに、息を呑んだ。
接触と呼ぶにはあまりにささやかな一瞬。けれど、図書館のひんやりとした空気の中では、そこだけが妙に生々しく感じられた。
エリシャが慌てて一歩下がる。
ようやく、腕の中から体温がするりと逃げていった。
「す、すみません!」
「……別に謝らなくていい」
努めて落ち着いた声で応じる。
だが、手のひらの内側には、さっきまで掴んでいた細い腰の感触が、まだ微かに残っていた。
「……とにかく、上段の本を取る時は、今後は俺が上がる。お前は下で受け取れ」
「で、でも先生の方が重──」
「体重の話をしているのではない。俺の方がバランス感覚がいいからな」
それに、アルドの場合は無詠唱で〈飛行魔法〉が使える。仮にこの高さで足を滑らせたとしても、落下する心配がないのだ。
「……はい。わかりました」
エリシャは肩を竦めてから、控えめに頷いた。
黙り込んだままの弟子の横顔を見ると、先ほどまでの血の気の引いた蒼白さは薄れてきていた。代わりに、頬のあたりにじわじわと赤みが戻ってきているが。
「それよりも」
アルドは、わざと話題を変えた。
「さっきの本だ。『創世言語の位相』とあったな。タイトルだけ見るとそれなりに期待が持てるが、中身はともかくとして」
「あ、はい。じゃあ、他の神代語仮説ってラベルのも……上から順に渡しますね」
そう言って、エリシャは一段目だけに足を乗せ、棚の中段の本を一本ずつ引き抜いていった。今度は、片手でしっかりと脚立の支柱を掴んだまま。
さっきの出来事は、そこから先はあくまで注意事項のひとつとして、「上段の本は師匠が担当」という規則に変換されていった。だが、アルドの腕の中に一瞬だけ収まった体温の記憶は、簡単には変換されなかった。
(……研究者生活というのは、本来もっと無味乾燥なものだったはずなんだがな)
心のどこかで、そんな感想を覚えた。




