第29話 最近の日中のルーティン
翌朝。まだ外が薄暗い時間帯に、アルドはふと目を覚ました。
鼻先をくすぐるのは、出汁の匂いと、焼いた何かの香ばしい匂い。
横を見ると、隣の寝台はすでにもぬけの殻で、畳まれた毛布だけがきちんと置かれている。
(……また先に起きているのか)
肩を回しながら身を起こし、簡素な服に着替える。
扉を開けると、ちょうど廊下の向こうからエリシャが両手に盆を抱えて歩いてくるところだった。
「あ、先生。おはようございます」
「おはよう。……その盆は?」
「朝食、持ってきました。女将さんにお願いして、部屋で食べさせてもらえるようにしたんです。朝からノート広げたいかなって」
盆の上には、薄く焼いた卵を挟んだパンと、野菜のスープ、小さな果物。
それとは別に、布でくるんだ包みがいくつか並んでいる。
「その包みは?」
「お弁当です。お昼用と、予備用と……あ、これは先生が途中で糖分切れを起こしたとき用の甘いパンです」
「……俺は中毒患者か何かか?」
「図書館の机に突っ伏して気絶されると困るので」
悪びれもなく言いながら、エリシャは盆を机に置いた。
包みのひとつを軽く持ち上げて見せる。
「今日は野菜のキッシュと、ハーブソーセージと、昨日の残りの魚をほぐして混ぜたサラダです。パンも少しあります」
「朝っぱらからずいぶん張り切ったな」
「これも、弟子の仕事ですから。先生にちゃんと研究してもらうには、まずお腹を満たさないと」
言葉通り、彼女の顔はどこか得意げだった。
アルドはパンをひと口かじり、きちんと塩気の効いた卵の味を確かめる。
「……悪くない」
「やったっ」
小さなガッツポーズが視界の端で跳ねた。
こうして誰かと朝食を分け合うのも、学院での共同生活とはまた違った種類の温度がある。
「先生、今日の予定なんですけど」
スープを飲みながら、エリシャが真面目な声色に切り替える。
「午前中は昨日借りた本の中から、神代語に近い古代語の例を抜き出していく作業をして。午後は、先生の無詠唱の言い換えノートを進めませんか? 高位詠唱との対応表づくりも」
「勝手に計画を立てるな。……とはいえ、それが妥当か。それでいこう」
「はい。『先生の研究計画二〇二号』の一日目、スタートです」
彼女は、ノートのそのタイトル部分を指先で軽く叩いた。
何気ない朝の始まりに、ひとつのラベルが貼られていく。
日中の図書館では、ふたりの居場所がほぼ固定されつつあった。
窓からの直射日光がぎりぎり当たらず、魔導灯の光も邪魔にならない中ほどの席。
周囲の本棚からは、古びた革装丁の背表紙がずらりと並んでこちらを見下ろしている。
「この論文、たぶん神代語じゃなくて旧王国語だと思います」
エリシャが、書きかけのメモから顔を上げた。
「何故そう思う?」
「この辺りの単語です。語尾が神代語仮説とは違ってて……えっと、昨日まとめた共鳴パターン表の、この列と、この列が一致してなくて」
彼女はぱらりとページをめくり、昨日の夜に書いた表を指差す。
そこには、アルドが口頭で説明した意味の塊と、古代語の断片的な単語が、簡単な線で結び付けられていた。
「……確かに、そこがずれているな」
アルドも身を乗り出し、書かれた単語の並びを目で追う。
こうして第三者の手で整えられた情報を見ると、自分の頭の中だけで組み立てていた仮説の歪みが、意外とくっきり浮かび上がる。
「この論文の著者、多分わざと曖昧にしてますよね。神代語って言い切るには証拠が足りないけど、それっぽい雰囲気を出したくて」
「学会ではよくあることだ。曖昧なものに立派な名前を与えたがる。……だが、そのおかげでこうして足場に使えることもあるんだがな」
アルドは、問題の論文に小さく印をつけた。
「とりあえず、神代語候補からは外しておこう。旧王国語として改めてリストに入れておく」
「了解です。旧王国語リストのページ、増やしておきますね」
エリシャは、ノートの別ページに新たな見出しを作った。
ページの端には小さく、『先生が嫌いなタイプの論文』と棒人間の絵とセットで自分用のメモまで付け加えられる。
「それ、わざわざ書く必要があるか?」
「あります。後で読み返すとき、きっと楽しいので」
「楽しい研究ノートというのも、なかなかに珍しい概念だな」
そんなやり取りをしながら、午前中はあっという間に過ぎていった。
ときどきエリシャが伸びをし、窓の外の空をちらりと見る。その度に、光の角度が少しずつ変わっていて、時間の経過を感じた。
昼になれば、一階の小さな中庭に出て、石の縁に腰かけて弁当を広げる。図書館の静謐さとはまた違う、柔らかいざわめきと土の匂い。
「卵焼きの味、昨日より少し甘くしてみたんですけど」
「昨日の配分でも充分だったが……ふむ。これはこれで悪くない」
「やった! じゃあ、明日は……」
「明日は普通に戻せ」
もっと甘くする、と言われる前に訂正した。
もちろん、彼女は不満そうな顔をしていた。
「えー? なんでですか」
「研究中に過剰な糖分を摂ると、頭が変に冴えて眠れなくなる」
「それはそれで楽しそうじゃないですか?」
「楽しいかどうかと、研究の質は別だ」
そんな取るに足らない会話も、奇妙に心地よかった。
孤独な机上作業では決して得られない、テンポの良い呼吸のリズム。こんな時間、研究職に就いていた頃にはなかった。
午後は、無詠唱と高位詠唱の交点を探す作業に移る。
エリシャが高位詠唱の呪文書を読み上げ、アルドがそれを意味の塊に分解していく。
同じ魔法でも、詠唱する場合としない場合で、どの部分の意味が削ぎ落とされているのかを探る作業だ。
「……なるほど。この部分は完全に接頭句だな。『神々への呼びかけ』の飾りに過ぎない。意味的には要らん」
「えっ。でもこれ、教科書では『最も重要な一節』って……」
さすがは学院主席の優等生。教科書の一節も覚えているとは、大したものだ。
「教科書の著者は、神学者寄りの魔導師だったのだろう。神に縋る文句を入れないと、落ち着かなかったのかもしれん」
「先生、完全に喧嘩売ってますよそれ」
「事実を述べているだけだ」
軽口を叩き合いながら、ページのあちこちに線が引かれていく。
エリシャのノートには、詠唱文の全文と、その横に『本当に必要な意味素子』だけを抜き出した簡略版が並んだ。
「こうやって見ると……高位詠唱って、先生の無詠唱の遠回りバージョンみたいですね」
「遠回りというより、途中式を声に出して読んでいるようなものだ。無詠唱は、その途中式を全部頭の中で同時に思い浮かべて、一気に結果だけ世界に叩きつける」
「あの、先生。普通に言ってますけど、それってかなりとんでもないことですからね?」
「自覚はしている」
そう言いながらも、アルドの声色には過剰な自慢も卑下もなかった。
できるのだから、できる。それだけなのだ。
ただ、こうして答えの途中式を逆算して分解していく過程は、それはそれで楽しかった。
夕方になって、図書館が閉館時間を告げる小さな鐘を鳴らす頃、ふたりはまた本をまとめて外に出た。
「今日は、ギルドに顔を出していくか」
「はい。アリアさん、きっと『また本?』って言いますよ」
「言うだろうな」
石畳を歩いて冒険者ギルドへ向かうと、受付の前は相変わらず混み合っていた。
魔物討伐の依頼書を巡って押し合いへし合いしている連中を横目に、ふたりはカウンターの端に近付く。
「あら、アルドさんとエリシャちゃん。こんばんは」
受付嬢のアリアが、書類から顔を上げた。
赤い髪をきゅっとひとつに括り、相変わらず隙のない笑みを浮かべている。
「今日は依頼の相談? それともまた、本の山と戦ってきました報告?」
「後者だな。一応、生存報告と、生活費が尽きていないという報告も兼ねている」
「こっちとしては、早く生活費に困って依頼を受けてほしいんだけどね」
アリアは肩を竦めつつも、ちらりと視線をふたりの腰のあたりへ滑らせた。
「でも、あんまり長く現場から離れてると、勘が鈍るわよ? 久々に依頼を回して、それで死なれたらこっちも責任感じるんだから」
「それは自覚している。適当なタイミングで、軽い依頼をひとつ挟むするよ」
「その時は、ちゃんと私のところに来なさいよ? いい依頼、残しておくから」
悪戯っぽく目を細めるアリアに、アルドは曖昧に頷いた。
彼女の言う『いい依頼』は決して冒険者にとっていい依頼ではないように思うのだが、実際のところはどうなのだろうか。
横で黙っていたエリシャが、ふと小さな声で付け加える。
「先生は今、『研究者モード』なので。冒険者のお仕事は暫くお受けにならないのではないかと思います」
「研究者モード? ふふ、それはまた珍しい冒険者さんね」
アリアは興味深そうに目を瞬かせたが、それ以上突っ込んでくることはなかった。
ギルドという場で、あまり深入りした説明をするつもりは、アルドにもなかったからだ。
夜、宿に戻ると、また机の上に本とノートが広がる。
エリシャはその日集めた『神代語候補』『旧王国語』『高位詠唱の共通素子』といった項目ごとに付箋を貼り、見出しを付けていく。
「先生、ここ、ちょっとだけ書き足してもいいですか?」
「どれだ」
「ノア=セリアの封印構造のところです。『安全に解きほぐす』って書いてあるところ」
彼女は、アルドの手帳のその一文の下に、自分のノートを重ねた。
そして、さらさらと小さく文字を添える。
『決して〝壊さないこと〟』
書き終えてから、エリシャは一瞬だけ気まずそうにペンを止めた。
「あの、その……余計だったら消します」
「いや」
アルドは、その小さな一文をじっと見つめた。
封印を〝解く〟ことばかり考えていて、その先にある〝壊してしまう可能性〟を、無意識に遠ざけていたのかもしれない。
「……いい補足だ」
それだけ言って、手帳とノートを閉じる。
夜は更けていき、窓の外の街灯がひとつ、またひとつと消えていく。
──そんな日々が、いくつか積み重なった。
そんな繰り返しのうちに、アルドはふと気付いた。
自分の中で、冒険者としての時間と研究者としての時間の比重が、ゆっくりと後者に傾いていることに。
(……これが本当にやりたかったことだとしたら)
紙の上に並ぶ文字列を見下ろしながら、考える。
神代語という危うい仮説に、無詠唱という異端の力。
その両方を材料にして、世界の〝骨格〟に手を伸ばそうとしている。
本来なら、ひとりで抱えるには大きすぎる荷物だ。
だが、今はその隣に、同じ図を覗き込み、同じように眉を顰める弟子がいる。
(共犯者、か)
数日前の夜に半ば冗談で浮かんだその言葉が、今、少しだけ重みを増していた。
危うい橋の上にふたりで立ち、同じ方向を見ている。
エリシャは、ページの端に小さく日付を書き込んだ。
その数字がひとつずつ増えていくたびに、『先生の研究計画二〇二号』は、ゆっくりと形を持ち始めていく。
こうして、冒険者らしくない、だがアルドにとっては何より自分らしい日々が、静かに積み重なっていった。
その穏やかな日々の水面に、やがて小さな波紋を投げ込む出来事が近付いていることなど──この時のふたりは、まだ知らないままに。




