第28話 研究計画二〇二号
それから、何日か同じように図書館に通う日々が続いた。今日も、その帰りだ。
宿に戻り着いた頃には、街の灯りが一つ二つとともり始めていた。
扉を開けると、いつものように香草を煮込んだスープの匂いが鼻をくすぐる。木製の梁に吊るされたランプの光が、店内を橙色に照らしていた。
「おかえり、お二人さん。今日も本の山だねえ」
女将がカウンター越しに笑いかけてくる。
エリシャは抱えていた本をぎゅっと持ち直した。
「女将。今日の夕食は軽めで頼む」
「はいはい、学者さま御一行は胃袋も繊細でいらっしゃいますね」
「別にそういうわけではないのだがな」
半ばからかう口調に、アルドは肩をすくめた。
自分では普通のつもりなのだが、最近はどうにもこういう言われ方をする機会が増えた気がする。
今日に限っては、ただ昼食にエリシャが入りたいと言った店に入ったら、やけに脂っこい料理しかなくて胃が持たれているだけなのだ。
そういう意味では繊細な胃袋かもしれないが、まあ仕方ない。冒険者暮らしをしている連中ほど強い胃を持ち合わせていないのは事実だ。
テーブルに借りてきた本の山を一旦置き、ふたりはいつもの席についた。
簡素だが温かいスープと、ハーブをまぶした焼き魚、黒パン。
こうして出されると当たり前の夕食も、学院時代の食堂のメニューを思い出す。だが、あのどこか味気ない均質さに比べれば、ここには作り手の癖と体温があった。
「……先生、何か考えてます?」
パンをちぎりながら、エリシャが首を傾げる。
「別に大したことではない。ただ、こうして普通に飯を食って、夜は紙と向き合って。……本来、魔導師の生活というのはこういうものだったはずだと思ってな」
「学院のときは、違ったんですか?」
「違ったな」
短く答え、スープをひと口すする。
多くを語るつもりはなかったが、エリシャはそれ以上無理に踏み込んでこなかった。
代わりに、スプーンを握ったまま、どこか柔らかい笑みを浮かべる。
「じゃあ、今の方が、先生らしい毎日ってことですね」
「……かもしれんな」
曖昧に返しながらも、胸の奥に小さな灯がともるのを感じる。
学院で失ったはずの日常が、少し形を変えて、別の場所で手元に戻ってきつつある──そんな感覚が、確かにあった。
自室に戻ると、エリシャは早速テーブルの上に借りてきた本を並べ始めた。
表紙に布張りの古い論文集、最新の詠唱理論書、古代語の辞典と索引用冊子……机の上は瞬く間に紙の匂いで満ちる。
アルドは窓際に腰を下ろし、昼間のうちに整理していた手帳を取り出した。さきほど図書館で書きつけた「世界の階段」と、その下に記した三つの目標。ページの中で、インクの筋はもう乾いている。
当面の目標は三つだ。
一つ目は古代語=神代語の実例収集。
二つ目は自分の無詠唱がどこまでその意味構造に近いのかの検証。
三つ目はノア=セリアの封印構造を、安全に解きほぐせるかどうかの試み。
時間を置いて改めて考えてみると、抽象的だった思考に輪郭が与えられていく感覚があった。
「先生。そのページ、もう一回見せてもらってもいいですか?」
エリシャが身を乗り出してきた。昼間から何度も覗き込んでいたはずなのに、それでもなお目を輝かせている。
「……何に使うんだ? 散々見せただろうが」
軽口を叩きつつ、手帳を差し出す。
エリシャは両手で大事そうに受け取ると、自分のノートを開いた。新しいページの一番上、ペン先が迷いなく走る。
「……何を書いている?」
「先生の研究計画を整理してるんです。ええと──」
くるりとノートをこちらに向けて見せてくる。そこには大きな字で、こう書かれていた。
『先生の研究計画二〇二号』
アルドは思わず眉を顰めた。
「……一九九号まではどこへ行った?」
「なんとなくです。これまで、それくらいの先生は頭の中で計画を考えてきたんだろうなって思って。今まで誰にも言えなかっただけで。違いますか?」
悪戯っぽく笑う顔に、からかい半分、本気半分の気配がある。
「随分と勝手な仮説だな」
「仮説って、そうやって立てるものですよね?」
弟子に言い返されて、アルドは思わず苦笑した。確かに、仮説の出発点は多くの場合、証拠ではなく「こうかもしれない」という感触から始まる。
「……で、その二〇二号とやらの中身は?」
「はい。一つ目の目標は『神代語の足跡集め』。二つ目は『先生の途中式探し』。三つ目は『ノア=セリアの橋渡し計画』」
エリシャは短くわかりやすい言葉に置き換えながら、項目を読み上げていく。
少し子どもっぽい命名だが、核心から外れてはいない。
暫く彼女がノートを書いている様を眺めていると、文字ではない何かをノートの片隅に描き始めた。片手に杖を持った、髪がぼさぼの棒人間の落書き。下に小さく『せんせい』と添えてある。
「……その落書きは消せ」
「えー? こういうのあった方が、後で読み返したとき楽しいですよ?」
「研究ノートは遊び場ではない」
口ではそう言いながらも、アルドはわざわざ消させることはしなかった。
ああやって誰かに整理された自分の思考を見るのは、悪い気分ではない。
(途中式を、誰かが一緒に書いてくれるというのは、こういう感覚なのかもしれんな)
学院にいた頃、孤立無援で紙に向かっていた時間を思い出す。
あの頃は、誰も隣でノートを写してはくれなかったし、落書き混じりのタイトルをつけて笑う人間もいなかった。
エリシャはノートを書き終えると、感嘆の息を吐いた。
「こうやって見てると、順番に階段を上っていく感じがしますね。いきなり神様の領域に飛び上がるんじゃなくて、一段ずつ上ってるような」
「飛び上がって落ちたくはないからな」
自嘲混じりに返すと、エリシャは不満そうに頬を膨らませた。
「落ちませんよ。そうならないように、私がいるんですから」
言い切る声音に、冗談めいた軽さはなかった。
全く。どれだけこの弟子は師匠の面倒を見るつもりなのだろうか。いや、それともアルドがただ師として頼りなさすぎるのか? 弟子がしっかりし過ぎていると、そんな錯覚に襲われてしまう。
アルドは目を逸らすように手帳を取り戻し、ペン先でページの端をとんとんと叩いた。
「なら、綱を握っている方も、足を滑らせないようにしておけ」
「はい。だから、このノートもちゃんと丁寧に書きます」
そう言って、エリシャはきれいに線を引き、日付を書き込んだ。
走り書きではない、ゆっくりとした筆致。彼女なりに、この研究を自分のものとして抱え込もうとしているのだとわかる。そして、また『せんせい』と書かれた棒人間が描き足されていた。
「ほら、少し目が近いぞ」
ノートと目の位置が少し近かったので、すっと額に手を当てて離してやる。
エリシャがむすっとした顔でこちらを見上げてきた。
「……先生。私、子供じゃないです」
「子供でなくても、注意はする。目は学者にとって大切だからな。気をつけろ」
「はぁい」
出来の悪い生徒みたいな返事をして、エリシャは再度ノートを書き始めた。もちろん、しっかりと姿勢は改善されている。
その夜、宿屋の一室には、遅くまで紙をめくる音と、ペン先が走るかすかなかすれた音だけが響いていた。
一生懸命にノートを書くエリシャの横顔は活き活きしていて、そんな彼女を見ているだけで、こちらもしっかりせねばと思い直させられる。
師匠と弟子というのは、不思議な関係だった。




