第27話 ふたりの目指すべき場所
神代語という仮説。無詠唱という異端。高位詠唱という変則。通常詠唱という多数派。
それらが頭の中でぐるりと一周したところで、アルドはそっと手帳を引き寄せた。
さっきまで細かいメモで埋めていたページをめくり、新しい余白を開く。紙の上には、まだ何の線も刻まれていない。そこに、インクを含んだペン先をゆっくりと落とした。
論文の末尾に載っていた簡素な図を思い出しながら、アルドは上から順に文字を書きつけていった。
神代語(創世言語/神々)
無詠唱魔法(意味直接共鳴/ごく少数)
高位詠唱(圧縮詠唱/上級魔導師)
通常詠唱(一般魔導師)
四つの段が、縦に並んだ。紙の上に、それだけで一つの『世界の階段』が形作られていく。
ペンを止めた瞬間、隣から小さく息を呑むような気配が伝わってきた。
「……こうして見ると、先生って、神代語に一番近い位置にいるってことですよね?」
エリシャが、言いづらそうにしながらも口を開いた。
自分でもその言葉の重さをわかっているからこそ、慎重に選んだ声音だ。
アルドは、一瞬だけ目を伏せた。
「近いのか、危うい橋の上に立っているのかは、まだわからんがな」
それは半分は冗談めかした返答であり、半分はそのままの本音でもあった。
そう。これは、人間が踏み込んでいい場所かどうかもわからない領域だ。
紙の上では『神代語のすぐ下』という綺麗な位置づけになっているが、もし本当にそうだとすれば……無詠唱使いとは、『神々の領域』に片足を突っ込んでいる存在だとも受け取れる。
学会が無詠唱を忌避し、ろくに研究対象として認めようとしなかった理由が、改めて理解できた気がした。
単に危険だから、というだけではない。思想的に危ういのだ。
人間が神に近づこうとしている、自分は神に選ばれたのだと錯覚する連中が出てくるかもしれない。或いは、その逆に、『神の言葉に触れた異端』として排斥する側も現れるだろう。
崇めるか。恐れて殺そうとするか。どちらに転んでも、まともな研究としての道は閉ざされる。
アルドは手帳を開いたまま、周囲に視線を走らせた。近くの閲覧席には、分厚い資料に顔を突っ込んだ老人がひとり、遠くの机では司書らしき女性が静かに索引を整理しているだけだ。すぐ近くには誰もいない。
そのことを確認してから、声をさらに落とした。
「……いいか、エリシャ。この話は絶対に外に漏らすなよ。無詠唱を『神代語に近い力』だと捉える連中がいれば、ろくなことにならないからな」
言葉の端に、わずかな棘を混ぜた。脅しではなく、現実の可能性として。
エリシャはびくりと肩を震わせ、それから表情を引き締めた。
「……私、誰にも言いません。先生のことも、この研究のことも。絶対に、です」
真っ直ぐな声音だった。軽さも虚勢もない、ただの誓いの言葉。
その言葉を受けて、アルドは小さく息をついた。
(……ここで「面白そう」と笑えるタイプじゃないのが、この弟子の救いか)
好奇心を強く持ちつつ、危険の匂いを嗅ぎつけた時には、きちんと身構えることもできる。本当に優れた生徒だ。
無詠唱と神代語の関係を、軽々しく口にしていい話ではない。神学者や狂信者の耳に入れば、それだけで火種になりかねないからだ。
(人が神に並ぼうとする思想は、どの時代でもろくな結末にならんからな)
だからこそ、自分のやっていることにどこか後ろ暗さを覚えてしまうのだ、とも思った。
だが、隣にいる少女の瞳は、その暗がりを覗き込んだうえで、なお前に進もうとしている光を宿している。
「先生?」
エリシャが、不意に真面目な声で呼びかけてきた。
「どうした」
「……こういう階層の話とか、神代語の仮説とか、無詠唱とか。全部含めて、ちゃんと理解したいです」
彼女の緑の瞳が、真正面からアルドを見据えていた。
「ただ『先生がすごい』って憧れるだけじゃなくて。どういう理屈で、どういう場所に立っているのか、ちゃんと自分の頭で追いつきたいって思いました。……その上で、私にできることがあるなら、手伝いたいです」
「エリシャ……」
その言葉に、一瞬だけ胸の奥が熱くなった。
学院では、誰もそうは言ってくれなかった。だが、今、目の前にいる弟子は違う。
世界の骨格に触れようとする危うい試みに対しても、怯えるのではなく、むしろ自分の足でそこまで歩いていこうとしている。
(……本当に、良くできた弟子だよ。お前は)
アルドは、ほんの僅かに視線を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
この先を見る地図を広げるなら、隣にいるのはこの弟子でいい──そんな考えが、自然と胸に浮かんだ。
そんなことを考えている自分に呆れつつ、手帳を再び開く。
「……さて」
さきほど書いた四段階の図を見下ろす。神代語、無詠唱、高位詠唱、通常詠唱。
それぞれの前に、数字を振った。
一、神代語。
二、無詠唱。
三、高位詠唱。
四、通常詠唱。
「当面の目標は三つだな」
自分に言い聞かせるように呟く。エリシャが「三つ?」と首を傾げた。
「まず一つ目は──古代語=神代語の実例を、もっと集めたい。遺跡でも文献でもいい。ノア=セリア以外の例を探して、共通点を洗い出す」
ノア=セリアは、ひとつの巨大な標本に過ぎない。そこだけを見ていても、全体像は掴めないだろう。世界のどこかに散らばっているはずの同じ系統の封印や似た文構造を持つ遺物を探し出す必要がある。
「二つ目は、俺のコレが、どこまで神代語の〝意味構造〟に近いのかを検証することだ。自分の感覚だけを頼りにしていては、そのうち足を踏み外すからな」
守護獣の時のように、偶然噛み合った結果として上手くいっただけという可能性も、捨てきれない。自分の中にある『理が立ち上がる感覚』が、古代語や神代語の構造とどこまで一致しているのか、冷静に照合する必要があった。
「三つ目は、その知識で、ノア=セリアの封印構造を安全に解きほぐせるかどうかを試すことだ」
あの遺跡で見た光の回路。命令文がそのまま守護獣の存在を規定していた構造。それを、少しずつほどいていけるかどうか。
支配するのでも、破壊するのでもなく、構造を理解したうえで書き換えることができるか。
口に出してみると、思った以上に道のりの長さが際立った。だが、不思議と重さだけではない。目の前にやるべきことが段階付きで並んだ分、その先の景色もぼんやりと見える気がする。
「三つ目は、人類と遺跡の橋渡しですね」
エリシャが目を輝かせて言った。ノア=セリアという存在を、『危険な禁忌の箱』から『正しく扱える知識の対象』に変えていく──そんなイメージを浮かべているのだろう。
「それから……一つ目と二つ目は、先生の途中式探しでしょうか」
どこかからかうような彼女のその言い方に、アルドは思わず目を瞬かせた。
「途中式?」
「だって、先生はもう答えを持ってるじゃないですか。無詠唱っていう、世界が頷いてくれる答え。それが神代語に近いってことも、なんとなく見えてきました。あとは、そこに至る途中の式を、自分でちゃんと埋めていくだけかなって」
彼女は、以前の会話でアルド自身がこぼした言葉を思い出しているのだろう。
途中式を探す……まさにその通りだった。
アルドの場合、世界の側から何故か先に「そうだ」と頷かれてしまった。その結果として無詠唱というやり方に行き着いた。だが、その過程を説明する式は、長いこと空欄のままだ。
「ああ。研究者ならば、一路ずつ積み上げていかないとな」
アルドは小さく笑い、頷いた。
ひとつひとつ式を埋めていって、神代語という仮説に、古代語の痕跡を当てはめていく。無詠唱の感覚を、言葉の構造に言い換えて、高位詠唱という別ルートとの交点を探す。
面倒で地道で、魔法とは関係ないように見える作業の積み重ねだ。
(だが、そういう作業をするのは……嫌いじゃない)
学院にいた頃も、本来はこういう地味な机仕事をしながら、少しずつ理論を整えていきたかったのだ。だが現実は、研究としての土台が置き去りにされてしまっていた。
今度こそ、順番を間違えないようにしなければならない。
ふと気づけば、窓の外の光が少し傾いていた。魔導灯が灯るにはまだ早いが、陽差しの色が昼の白から、夕方の黄金に移り変わりつつあった。
「……そろそろ、閉館か?」
アルドが呟くと、エリシャが慌てて壁の時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間だったんですね」
「ひとまず、今日はここまでだな。借りられる本は借りて、宿に持ち帰ろう」
「はい!」
エリシャは元気よく返事をすると、さっそく選別を始めた。古代語、詠唱理論、魔導言語史──分野ごとに机の上に積み上げていく。
その背中を横目に、アルドは手帳をもう一度だけ覗き込んだ。
神代語。無詠唱。高位詠唱。通常詠唱。
そして、その下に記された三つの目標。
紙の上に並んだそれらは、単なる思いつきではなく、『これからの日々の指針』のように見えた。
(……共犯者も、できたことだしな)
心の中で、ほんの少しだけ冗談めかした言葉を付け足す。
エリシャは、『先生の秘密を一緒に追う』というその事実だけで、どこか浮き立っているように見えた。だが、それは単なる憧れではなく、自分の頭で考え、自分の足で歩こうとしている弟子の顔でもある。
この先、どこまで一緒に行けるかはわからない。途中で足を止めざるを得ない地点が来るかもしれないし、もしかすると、彼女の方がアルドよりも先に進んでしまう日が来るのかもしれない。
それでも──。
今、この瞬間に限って言えば、この静かな図書館の一角で、世界の骨格に触れるための地図を二人で広げている。
その事実が、妙に心強かった。
図書館を出る頃には、外はもう夕暮れだった。
高い外壁の上、空は橙から薄紫へと色を変えつつある。街路の石畳は、沈みゆく陽に焼かれて柔らかく輝き、図書館の外壁も同じ色に染まっていた。
エリシャは腕いっぱいに本を抱えている。古代語辞典、封印術の概論、言語階層論の入門書──どれも分厚く、重量もそれなりだ。前が見えているのか怪しいほどの積み方だった。
「……持ちすぎだ」
さすがに見かねて、アルドは彼女の腕から半分を取り上げた。
「あ、すみません。でも、どれも必要そうで……」
「必要かどうかを見極めるのも、研究者の仕事だ。研究者が筋力をつけてどうする」
「うっ」
図星だったのか、エリシャは情けない声を出して俯いた。それでも口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいる。
図書館の階段を降りると、夕風が頬を撫でた。昼間より少し冷たい空気に、本の紙とインクの匂いが混じっている。
エリシャがふと立ち止まり、橙色の空を見上げた。
「……でも、嬉しいです」
ぽつりと落ちた声に、アルドは足を緩める。
「何がだ」
「先生の無詠唱が“世界の秘密”に近いことだってわかって。それを一緒に解き明かせるなんて、夢みたいです」
振り返ったエリシャの瞳には、沈みゆく光が映っていた。憧れだけでも、軽い好奇心だけでもない、強い意志と信頼。そういったものが、確かに映っていた。
アルドは照れ隠しで、ふんと鼻を鳴らした。
「夢で終わらんようにな」
そう返しつつも、自分の声がどこか楽しげになっているのを自覚する。
夢で終わる可能性はいくらでもあった。神代語仮説が完全な誤りだったと判明するかもしれないし、自分の無詠唱が単なる『偶然の産物』だと突きつけられる日が来るかもしれない。或いは、神に近づこうとした愚か者として、どこかで足を掬われる可能性もあるだろう。
(恐れと興奮、半々だな)
胸の奥で渦を巻いている感情を言葉にすると、そんな具合だった。
この先に何が待っているのかは、誰にもわからない。だが少なくとも今は、黄昏色の石畳の上を、同じ方向に向かって歩いている。
片腕には、重たい本の束。もう片方の腕には、さっき手帳に書きつけたばかりの『世界の階段』の感触。
世界の秘密に、ほんの少しだけ指先が触れたような気がして。それでもまだ、その全体像は遥か彼方の霞の向こうにある。
アルドは空を一度だけ見上げ、それから前を向いた。
「宿まで、落とすなよ」
「落としませんって!」
エリシャは抱えた本を抱き直し、少しだけ足取りを弾ませる。
夕暮れの街路に、ふたり分の影が長く伸びていた。その影は、重ね合わさったり離れたりしながら、ゆっくりと人混みの中へ溶けていく。
神々の言葉と人間の言葉。そのあいだに架かる、細く頼りない橋。
その橋の上に、ふたりは今、確かに足を乗せていた。




