第26話 高位詠唱と通常詠唱
「次は……高位詠唱についてですね」
エリシャがページをめくる。新しい小見出しが現れた。
『三 高位詠唱・圧縮詠唱と神代語の断片性』
高位詠唱──それは、学院においてもごく一部の上級魔導師や、教科書の中でしか見ないような英雄の領域に属するものだった。
「一般に、高位詠唱あるいは圧縮詠唱とは、本来長大な詠唱文を、極端に短い表現に圧縮して魔法を発動させる技法を指す」
エリシャが読み上げると、紙面には具体的な例がいくつか挙げられていた。
通常なら十行に渡るはずの炎の大規模魔法を、二行の詠唱で発動した英雄魔導師の記録。
四属性を複合した防御障壁を、たった一節の詠唱で展開した王都防衛戦の逸話。
いずれも、事実かどうかを完全に確かめようのない話ばかりだが、その中には筆者自身が目撃したと主張するものも含まれていた。
「これらの圧縮詠唱は、単なる省略ではなく、神代語の〝断片〟を人間の詠唱語の中に部分的に取り戻した行為なのではないか、という仮説を本稿では提示する……とあります」
「断片か」
アルドは、エリシャの横顔をちらりと見た。
彼女が戦闘で見せた短縮詠唱──既存の長い呪文を徹底的に構造分解し、意味を壊さないぎりぎりのラインまで削ってしまうやり方が頭に浮かんだ。
エリシャは音読を続けた。
「詠唱とは、本来神代語の意味を人間語で『丁寧に説明している』行為であるとすれば、圧縮詠唱は、その説明の中から本質的な部分だけを抜き出し、短いフレーズに再構成したものと見做せる」
エリシャが、まるで自分のことを評されているかのようにうんうんと頷く。
「すなわち、圧縮詠唱を用いる上級魔導師とは、神代語そのものを聞き取ることはできないにせよ、その意味構造の〝輪郭〟をより鮮明に掴んでいる術者である……とのことです」
その一節を読み終えたところで、エリシャは堪えきれないというように顔を上げた。
「ここは私が取り組んでいることですね。詠唱を削りつつ、意味を壊さないギリギリまで圧縮するのって……結構楽しいんです」
その言い方があまりにも自然で、アルドは思わず苦笑した。
楽しいと言い切るあたり、やはりこの弟子も十分化け物だ。大抵の学生にとって、詠唱を弄る作業は恐怖に近い。意味を間違えて世界の側から拒絶されれば、その場で魔力暴発という最悪の結果に繋がりかねないからだ。それこそ、ノリキンが禁呪を暴発させて、事故を起こしたように。
それを楽しいと笑って言えるのは、才能と、少しの狂気がなければできない芸当だ。
「……お前の場合は、遊びじゃなくて研究としてやっているところが救いだな」
「もちろんです。ちゃんと意味ごとに区切って、どの語を消したら成立しなくなるか、一つずつ確かめてます」
「その実験に巻き込まれた教師たちの胃痛のことも、少しは考えてやれ」
揶揄すると、エリシャは「うぅ」と短く呻いて肩を竦めた。どうやら、心当たりは山ほどあるらしい。実際に、アルドもエリシャが詠唱を短縮させて云々という話は同僚から聞いたことがあった。
アルドは手帳を再び開き、先ほどの無詠唱のメモの下に、今度は高位詠唱についての印象を書き加えた。
『高位詠唱・圧縮詠唱とは、本来長い詠唱を、意味の核だけを残して短く組み直したもの。
使用者は上級魔導師に限られ、訓練と才能により、神代語の意味構造の輪郭を把握していると考えられる。
詠唱を圧縮することは、翻訳文を短くすることに等しいが、その短縮の仕方によっては“元の言葉”に近づく可能性がある。
イメージとしては、「炎よ」という短い呼びかけで、炎の理そのものを呼び出すようなもの』
文章にしていくうちに、頭の中で一本の線が見え始める。
神代語──無詠唱──高位詠唱──通常詠唱。
同じ現象を呼び出すために、どれだけ遠回りをしているか。その差を測る物差しとして、『言葉の長さ』や『説明の丁寧さ』があるのだとしたら……?
「……先生?」
黙って書き続けていると、エリシャが不安そうに覗き込んできた。
「いや、少し整理していただけだ。気にするな」
手帳を閉じる前に、ペン先を紙の端に滑らせて小さく付け足す。
『高位詠唱は、無詠唱よりも一手間多い技術。神代語を直接聞き取れない代わりに、人間語の中で最短の道を探している行為』
書きながら、アルドはふと苦笑した。
(やっていることだけ見れば、無詠唱より高位詠唱の方が難しいと言ってもいいかもしれんな)
自分の場合、世界の方から勝手に頷いてくれる感覚が先にあって、それに理屈を後からつけている。だが、エリシャのようなタイプは逆だ。理屈から出発して、理を削って削って、最終的に世界が頷いてくれるぎりぎりのラインを探している。
出発点が違うだけで、目指している場所は同じだった。
「最後の節は……通常詠唱の位置づけ、ですか」
ページをまたいで、次の小見出しが現れた。
『四 通常詠唱魔法と“説明としての言葉”』
エリシャがそこを指差し、ゆっくりと読み進める。
「現代において、大多数の魔導師が用いるのは長文の通常詠唱である。本節では、この一般的な技法の位置づけを、神代語との距離という観点から整理する」
紙面には、教科書にも載っているような基礎魔法の長い詠唱文が、いくつも引用されていた。
炎を呼ぶ詠唱、水を操る詠唱、風を集める詠唱──どれもアルドにとって見慣れたものだ。
「通常詠唱とは、世界に対して理を丁寧に説明し、説得する行為である……って、断言してますよ」
エリシャが思わず笑ってしまう。だが、その笑いにはどこか納得の色も混じっていた。
アルドは心の中で、『炎の理よ、我が言葉に応えよ──』といった典型的な一節を思い浮かべた。
まず、炎という現象の理を説明する。燃焼の条件、熱と光と破壊の性質。それから、自分の魔力と術式の関係を説明する。最後に、『この理に従って、ここに炎を顕現させてほしい』という形で願いを述べるのだ。
詠唱全体が、確かに長いお願いで構成されている。
「この長い説明文は、神代語における〝炎〟という概念を、人間語で細かく翻訳し、世界に向かって読み上げているに過ぎない……って、さらっと書いてますね」
「さらっと言うな、と言いたくなるな」
アルドが肩を竦めると、エリシャはくすりと笑った。
論文は続けて、通常詠唱における即時性と説得の度合いの話に戻っていた。
「通常詠唱においては、発話と現象との間に一定の猶予が存在する。術者は長い詠唱の中で、段階的に世界を説得し、納得に至らせる必要がある。これは、神代語の意味が世界に既に刻まれているという前提に立てば、人間語による後付けの説明を積み上げているに等しい……うわぁ。ここ、ちょっと辛辣ですね」
「だが、的を射ているとも言える」
アルドは、自分がかつて学生に教えていた時の言い方を思い出した。『詠唱は世界への説明だ。お前が何をしたいのか、世界の側にきちんと伝わるように話してやれ』と。
その時は、神代語のことなど念頭になかった。ただ、世界を相手取る時には誠実であれ、という意味合いで言っただけだったのだが、まさかこんなところに繋がっているとは。
手帳の上に、ゆっくりとペンを走らせる。
『通常詠唱魔法とは、一般の魔導師が用いる、最も遠回りなルート。
使用者は圧倒的多数。詠唱文は教科書に載っている通りで、世界に対して理を一から説明し、お願いしている状態。
神代語との距離は最も遠い。だが、その分安全で、誰にでも到達しやすい。
イメージとしては、「炎の理よ、我が言葉に応えよ」といった長い文章で、世界に丁寧に事情を話し、協力を仰いでいる』
文章を書き終える頃には、インク壺の中身が少し減っていた。ペン先を丁寧に拭いながら、アルドはふと視線を上げる。
向かい側でエリシャが、手帳に書かれた文字を追いながら、しみじみと呟いた。
「ああ……言われてみれば、確かにって感じです。授業で習ってきた詠唱って、『世界にお願いしている感じ』でしたし」
彼女の緑の瞳に、昔の教室と教授陣の姿がちらりとよぎっているのが見えた気がした。
学院の講義室。長机にずらりと並んだ学生たち。前に立つ教師が黒板に詠唱文を書き、ひとつひとつ意味を解説していく。アルドも、そうした教師のひとりだった。
(……世界にお願い、か。俺は、あまりお願いが上手くない方だったな)
そう思うと、少しだけ胸の奥が苦くなる。頼ることが下手な人間は、世界に対しても、きっと頼り方が不器用なのだろう。
だからこそ、過去のアルドは別の道を模索してしまったのかもしれない。世界を説得するより先に、世界の方が頷いてくれるような、そんな関係を。
神代語・無詠唱・高位詠唱・通常詠唱。
論文が提示した階層構造は、単純に見えて、実際には多くの問いを孕んでいた。
本当に、神代語というものがあるのか。
無詠唱使いは、どこまで神代語に近づいているのか。
高位詠唱の達人たちは、無詠唱とどんな位置関係にあるのか。
そして、圧倒的多数の「通常詠唱使い」は、この階層構造の中でどんな意味を持つのか。
ページの末尾には、筆者自身による簡単な図解が添えられていた。もっとも、それは図と呼ぶにはあまりに素朴なもの──上から下へと矢印が伸びるだけの単純な図だ──だったが。
最上段に神代語、その下に無詠唱魔法。さらに下に高位・圧縮詠唱、最下段に通常詠唱。
それぞれの間には、「即時性↓」「説得の度合い↑」といった注釈が書き込まれている。
「……わかりやすいですね」
エリシャが苦笑を漏らす。
「神代語に近づくほど、言えばすぐ通じる。離れれば離れるほど、丁寧に説明してお願いしなきゃいけない、ってことですもんね」
「人付き合いにも通じそうな話だな」
「え?」
彼女は顔を上げて、意外そうにアルドを見た。
「察しのいい相手なら、ひと言で済む。そうでないなら、誤解されないように丁寧に説明する必要がある。……世界を相手にしている以上、その世界との関係性次第で、必要な言葉の量も変わるというわけだ」
その説明に、エリシャは一瞬ぽかんとしていたが、すぐにくすりと笑った。
「じゃあ、先生は世界と結構仲良しなんですね」
「どうだか」
アルドは肩を竦め、少しだけ視線を逸らした。
(仲が良いというより……喧嘩腰で押し込んでいるだけかもしれんがな)
こうだろう、と理を突きつけて、世界の側が渋々頷いている図。そう考えると、少し気恥ずかしい。
論文は最後に、穏やかな調子で章を締めくくっていた。
「本稿で提示した階層構造は、神代語仮説という不確かな土台の上に築かれた、ひとつの見取り図に過ぎない。しかし、魔法という現象を「言葉と世界の関係」という観点から俯瞰する試みとして、今後の議論の叩き台となることを望む……だそうです」
エリシャが読み上げ、静かに本を閉じた。
魔導言語学者の試み。その見取り図は、決して完成されたものではない。だが、アルドにとっては、ずっと自分の中で曖昧だった輪郭を、紙の上に浮かび上がらせてくれるだけの力を持っていた。
神代語という仮説。無詠唱という異端。高位詠唱という変則。通常詠唱という多数派。
それぞれが、図書館の天井から吊るされた魔導灯の光に照らされながら、ゆっくりと一枚の地図へと組み上がっていく。




