第25話 神代言語と無詠唱魔法
ページが、静かな音を立てて開かれた。
章の冒頭には、太字で簡潔な見出しが記されている。
『第三章 神代言語と人類魔導言語の階層構造について』
そのすぐ下に、論文らしい密度の高い文章がぎっしりと並んでいた。
文字の黒が紙の上でかすかに滲み、筆者の熱量が行間に染み込んでいるようにすら見える。
「えっと……」
エリシャが小さく喉の奥で声を整え、抑えた声量で読み始めた。完全な音読ではないが、隣に座るアルドには十分聞き取れる程度の、囁きに近い調子だ。
「本章では、神代語──すなわち創世期に神々が用いたとされる言語──と、人類が用いる魔導言語との関係を、階層構造という観点から論ずる」
そこで一度息継ぎをし、指先で次の行を追う。
「筆者は、言語のレベルが異なれば、魔法発動の〝即時性〟及び〝説得の度合い〟が異なる、という仮説を提示する。上位の言語に近づくほど、発話と現実改変との距離は短くなり、世界に対する説明の必要も薄くなる」
「即時性と説得の度合い、か」
アルドは、その一節を反芻した。
魔法を発動させる時、どれだけすぐに世界が動いてくれるか。そして、その前にどれだけの言葉を費やして世界を説得しなければならないか。そう言い換えれば、理解しやすい。
「つまり、上に行くほど『言った瞬間に起きる』、下に行くほど『お願いして納得してもらう』ってことですかね」
エリシャが、自分なりの解釈を添える。
アルドは小さく頷いた。
「そういうことだろうな。続けてくれ」
「はい」
エリシャはまた視線を紙面に戻す。
「神代語は、最上位に位置する言語と仮定される。続いて、ごく稀に報告される〝無詠唱魔法〟、次に高位詠唱・圧縮詠唱、そして最下層として一般的な長文詠唱がある。これらは、同じ魔法現象を別々の距離から呼び出す異なるルートである……だそうです」
「別々の距離ときたか」
アルドは心の中で、いくつかの術式の詠唱を思い浮かべてみた。
学院で教えていた基礎魔法の長い詠唱、英雄譚に出てくるような二、三行で山を吹き飛ばす高位の呪文、そして──アルド自身がやっている、言葉すら口にしないやり方。
確かに、それは『同じ場所へ向かうための、距離の違う道』だと言えなくもなかった。
「ここから、神代語の説明に入っていきますね」
ページをめくる音が、静まり返った資料室を行き交う風のように小さく響いた。
「神代語とは何か……」
次の小見出しを読み上げながら、エリシャの指が欄外の注釈をなぞる。そこには、いくつかの古い神話書からの引用元が細かい字で連ねられていた。
「古き神話において、神々は言葉をもって世界を創ったと語られる。陸よ、海よ、光あれ──そうした言葉が発せられた瞬間、それらは即座に存在を得た、と」
エリシャが少し目を瞠った。
そこから先は、完全な音読になっていた。
「神代語とは、この創世期に用いられた言語を指す。そこでは発話と現実改変の間に〝説得〟のプロセスは存在しない。言葉は説明ではなく、規定そのものであり、一語一語が概念そのものとして世界に刻まれる」
エリシャの声に耳を傾けつつ、アルドは目を閉じてみた。瞼の裏で、遥かな昔の光景を思い描く。
『存在せよ』
その一言だけで、空が生まれ、大陸が隆起し、海が満たされる。
あまりにも大仰で、絵空事のようなイメージだ。だが、論文はそこからさらに一歩踏み込んでいく。
「神代語においては、世界の側が先にその言葉を前提としている。すなわち、言葉が世界を説明するのではなく、世界が言葉をなぞって存在している状態だと考えられる……難しいことを言いますね、この人」
エリシャが苦笑混じりに呟いた。
アルドはページに目を落としながら、心の中で言葉を転がした。
(……言葉の前に意味があるのは、俺の感覚に近いな)
アルドが魔法を使う時は、詠唱文を思い浮かべるより前に、意味が先に形になっている。この現象が欲しい、この力が要る、と意志を固めた瞬間、頭の中に〝理の形〟が広がるのだ。その形に沿って魔力を流し込めば、詠唱を挟まなくとも世界の方が先に頷いてくれる。
それは、まさに『言葉より意味が先にある』感覚だった。
「詠唱どころか、単語一つで世界が変わるなんて……規格外どころじゃないですね」
エリシャが、感嘆とも呆れともつかない声で漏らした。ページの端には、伝承として『神が一言発しただけで海を割った』とか『星々を並べ替えた』といった逸話が引用されていた。
もちろん、それが史実かどうかは別問題だ。だが、アルドはこの論文を単なる神話学として読み捨てる気にはなれなかった。
神代語──世界がそれを前提としている言葉だ。言葉に合わせて世界が動くのではなく、世界の骨格の方が先にそこにある。そこに、後から人間が詠唱という形で触れているだけ。
(もし本当にそういう言語があったのだとしたら、古代語はその影、遺跡に刻まれた文字列はその残響となる。だとすれば、俺がやっていることは……その残響を、直接触ろうとしている行為、ということになるのか?)
思考が、いつもの悪い癖で一気に先走り始める。アルドは、首を小さく振って自分を制した。
論文は次の段落で、少し冷静な調子に戻っていた。
「もちろん、神代語そのものの実在は証明されていない。本論で扱うのは、あくまで言語階層としての便宜的な仮説であり、神話的表現をそのまま事実とみなすものではない……一応、自分でブレーキはかけてるみたいですね」
「いい学者ほど、自分で自分の首根っこを押さえるものだ」
アルドは口元に僅かな笑みを浮かべた。
神代語と創世言語。世界の方がそれに合わせてある。そのイメージだけ頭に残して、先を読むよう促した。
ページの中ほどまで進んだところで、文体がわずかに変わった。
「ここからは、『無詠唱魔法』についての記述みたいですね」
エリシャが指先で小見出しを差した。
『二 無詠唱魔法と神代語の関係について(試論)』
アルドの背筋に、ほんの少しだけ別種の緊張が走った。意識して、呼吸をゆっくりと整える。
「近代以降の記録において、ごく稀ではあるが、詠唱を介さずに魔法を発動させたとされる術者の証言が存在する……」
エリシャが読み上げる間、アルドは自分の手のひらを静かに見つめた。
指先に残っている感覚──詠唱をせず、ただ理を思い描くだけで世界が答えた瞬間の温度が蘇る。
「これらの記録は、多くの場合“英雄譚における誇張”や“目撃者の錯誤”として退けられてきた。しかし、本稿では敢えてそれらを仮説の材料として扱う」
論文は、いくつかの事例を挙げていた。
古戦場で突如、詠唱なしに広範囲の結界を展開したとされる無名の魔導兵の話。地方の伝承に出てくる『手を振っただけで村を炎から守った女』の話。いずれも、信頼度は決して高くない。
だが、筆者はそこに共通する要素──『詠唱なし』『瞬時』『術者本人はそれを当然のようにやっていた』という三点を抽出していた。
「無詠唱魔法の使用者は、神代語を完全に知っているわけではない。しかし、神代語が持つ意味構造の一部を、直感的に〝聴き取っている〟のではないかと考えられる……聴き取る?」
エリシャが思わず顔を上げる。
アルドは自らの中に昂るものを感じつつも必死にそれを押し殺し、続きを読むように促した。
「えっと……すなわち、彼らは詠唱文を構成する前段階──世界の内部に既に存在している〝根源の言葉〟の意味だけを先に理解し、その理解を通じて魔法を発動させているのではないか、というモデルである」
エリシャはここで一度読み上げるのを止め、紙面とアルドの顔を交互に見比べた。
「……先生が昨日、言ってたこととほとんど同じじゃないですか」
確かに、昨日の夜、アルドは彼女にそんなような説明をした記憶がある。
論文はそれを別の言葉で言い直していた。理解した瞬間に現象が起きる。理解そのものがトリガーになっている、と。
アルドは指先で机の縁を軽く叩き、次の行を黙読した。
「……ここから先は、説明が少しややこしくなるな」
「読みますね。ええと、『このモデルに基づけば、無詠唱魔法とは〝翻訳を省略した状態で神代語を聴いている〟術者にのみ許された技能であると言える』……リスニングだけできる人間、みたいな表現ですね」
エリシャが、わざと少し砕けた言い方で言い換える。
アルドは、鼻の奥で小さく息を吐いた。
(神代語のリスニング、か。ずいぶんと洒落た言い回しだな)
だが、言わんとしていることはわかった。もし世界の奥深くに神代語という〝根源の言葉〟が刻まれているのだとしたら、その一部に、たまたま耳が慣れてしまったような人間が生まれてもおかしくない。
その場合、彼らは翻訳作業が要らない。神代語で流れている意味を、そのまま自分の理解に結びつけるだけでいいからだ。その理解に合わせて魔力を動かせば、詠唱という橋渡しがなくとも現象が起きてしまう。
「先生が昨日言っていた〝世界を説得する前に、もう頷かれている〟状態ですね」
エリシャが静かに言う。アルドは短く頷いた。
「論文に、そこまで書かれているわけではないが、近いことを言おうとしているのは確かだな」
ページの最後には、慎重な一文が添えられていた。
『無詠唱魔法に関する記録は少なく、その多くは伝説と異端視の狭間にある。本稿の仮説は、これらを一つの理論の下に位置づけようとする試みであり、実証には程遠いことを改めて強調しておく』
その注意書きが、かえって筆者の真剣さを物語っているように思えた。
アルドは、そっと懐から革表紙の手帳を取り出した。長年使い込んだそれは、角が少し丸くなり、革の表面に細かな傷が刻まれている。
ペン先にインクを含ませ、紙の上を静かに走らせた。
『無詠唱魔法とは、詠唱を挟まずに魔法を発動させる現象である。
使用者は一握りの異常値。過去の記録を含めても例は少数。
仕組みは、〝意味の理解〟による直接の共鳴。詠唱という翻訳を介さず、世界の内部にある言葉の意味を直感的に掴んでいる状態と考えられる。
イメージとしては、「こうだろう」と理解した瞬間に世界が頷く。灯れとわざわざ口にする前に、灯るべき理が先に立ち上がっている』
言葉にはしづらかった自分の感覚を、一つひとつ、慎重になぞっていく。書きながら、自分自身の内側を鏡で覗き込まれているような、奇妙な落ち着かなさを覚えた。
横からエリシャが、こっそりと手帳を覗き込んだ。
「……こうして文字になると、凄く納得感がありますね」
彼女はそう言ってから、ふと顔を上げた。
「完全に先生のことです」
「……そうだな」
ペンを置き、そっと手帳を閉じる。革表紙の感触が、手のひらに重みとして残った。
(伝説や異端扱い、か)
ページの上に書かれたその言葉を思い出し、アルドは目を細めた。
学院でも、同じような評価だった。理解されないものは、たいてい二つに分けられる。神話か、異端か。そのどちらにしても、まともな研究対象とは見做されない。だからこそ、アルドは無詠唱魔法を正面から研究できなかったのだ。
(今はまだ、それでいい)
心の中で静かに呟き、視線を再び論文に戻した。




