第24話 新たな手掛かり
昼時になると、学術資料室の空気も少しだけゆるみ始めた。何人かの研究者風の男たちが外に出ていき、代わりに新たな閲覧者が数人入ってくる。
「一旦、休憩にするか」
アルドが言うと、エリシャはぱっと顔を上げた。
「はい。お弁当ですね!」
その声に、朝包みを抱えていた時と同じ弾みが戻る。
図書館の中庭は、学術資料室の脇から出られるようになっていた。半円形の中庭に石畳が敷き詰められ、その中央には小さな噴水がある。水面には陽光がきらきらと跳ね、周囲には香草や低木が整然と植えられていた。
図書館の高い壁に囲まれているせいか、街路の喧噪はほとんど届かない。聞こえるのは、水の落ちる音と、時折ページを捲るような風の音だけだ。
ベンチに並んで腰掛け、エリシャが布包みをほどいた。
「じゃーん。といっても、朝の残りですけど」
中から出てきたのは、軽く焼き直したパンに薄く切ったハムと野菜を挟んだものが二つ、それから殻付きのゆで卵が数個と、小さな瓶に入れられたスープだった。簡素だが、色合いは悪くない。
「充分だ。図書館でこれだけ食べられれば贅沢な方だろう」
アルドはパンを手に取り、かぶりついた。
外側が程よく固く、中はふんわりとしている。ハムの塩気と野菜のしゃきっとした歯応えが加わり、空腹が静かに満たされていく。
「どうですか?」
「悪くない。……いや、かなり美味いな」
正直にそう言うと、エリシャは少し照れたように頬を掻いた。
「女将さんがやってくれた部分が大きいですよ。私はパンに挟んだだけです」
「挟むという行為も、立派な技術だ」
「そんなの、誰でもできることじゃないですか」
「俺に弁当を勧めてくれるのは、お前だけだよ」
軽口で返すと、エリシャは何故か顔を赤らめ、照れた様子でパンの端っこを齧っていた。
「もうっ。先生はずるいんですよ……ッ」
そんなことをひとりでぶつくさ言っている。
怪訝に首を傾げていると、彼女が咳払いをした。
「これまでのことをまとめると……ノア=セリアは『言語情報を核とした封印構造』で、その文字列が古代語、もしくはその一派。で、一部の学者はその古代語の背後に〝神代語〟という創世言語を仮定している、というわけですね」
卵の殻を器用に剥きながら、エリシャが言う。
表向きの会話としては、十分に安全な内容だ。
「そうだな。紙の上では綺麗に整理されているが、現場で見ると、あそこまで整然とした封印構造はそうそうお目にかかれん」
守護獣の内部を走っていた光の線を思い出す。
言葉がそのまま回路になり、命令になり、存在そのものになっていた。
「古代語が神代語の残滓だとしたら……神様って、とんでもない術式を毎日使ってたんですね」
「術式かどうかすらわからんがな。ただ、そういう想像をするところから学問は始まる」
アルドはスープを一口飲んでから、周囲の人影に視線を巡らせた。中庭には、自分たち以外に年配の紳士が一人、遠くのベンチで新聞のようなものを読んでいるだけだ。距離も十分にある。
それを確認してから、アルドは声をさらに落とした。
「……エリシャ」
「はい?」
「さっきの本の内容、どう感じた?」
エリシャは少し考え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……凄く、先生っぽいなと思いました」
「どういう意味だ」
「だって、『詠唱は根源の言葉をなぞる行為でしかない』とか、『もっと根っこの言語があるんじゃないか』とか……先生がいつも考えていたこと、そのままじゃないですか」
さすがは弟子というべきか。まさしくその通りだった。
アルドが返答に詰まっていると、エリシャはふと周囲を見回し、さらに身を寄せてくる。肩と肩の間の距離が、僅かに縮まった。
「先生。古代語が神代語だとしたら……先生の無詠唱って、もしかして」
「シッ。ここではその単語を出すな。今は『古代語』だけ覚えておけ」
反射的に、アルドは彼女の言葉を遮った。声を大にしたわけではないが、人は表情を読む。慎重であって損はない。
「……すみません」
エリシャは口を結び、こくこくと頷いた。
けれど、その目は完全に『絶対繋がってるやつだ』という顔をしている。
(まあ、察しのいい弟子だ。そこは否定しても無駄か)
アルドは内心で肩を竦め、代わりに話題を少しずらした。
「少なくとも、古代語と封印術と神代語仮説——この三つを追えば、俺の無……じゃなくて。研究にも何かしらの手がかりが見つかる可能性は高そうだ」
「はい。……私も、ちゃんと追いつけるように頑張ります」
握りしめられた彼女の手が、膝の上で小さく震えているのが見えた。それが緊張なのか高揚なのかは、わからない。
ただ、アルドにも似たような震えが、胸の奥のどこかに残っている感覚があった。
パンを食べ終え、スープの瓶も空になった頃、中庭の陽は少し傾き始めていた。
「そろそろ戻るか。午後は『詠唱理論』の棚を攻めるぞ」
「了解です!」
エリシャは空になった包みを丁寧に畳み、鞄にしまった。
その動き一つにも、どこかこれから実験室に戻る研究助手のような気配が漂っていた。
(もし、俺の研究室にこの子がいてくれたら……もう少し、あそこでの生活も楽しいものだったかもな)
彼女を見ていると、ふとそんなことを考えてしまうのであった。
再び学術資料室に戻ると、午後の光が棚の上部を白く照らしていた。さっきよりも人影は増えたが、それでも静寂は保たれている。
今度向かったのは、『詠唱理論』と掲げられた棚だ。背表紙には『詠唱構造論』『高位詠唱の実践と理論』『魔法階層論序説』など、見覚えのあるタイトルや聞き覚えのないタイトルが混在している。
「この『詠唱と世界階層』って本、面白そうですよ」
「それは後回しにしよう。まずは『階層構造』とか『省略詠唱』といった単語がタイトルか目次に出てくるものからだ」
アルドは手早く本を抜き出し、目次をざっと流し読みしていく。
『第一章 基本詠唱と意識集中の関係』
『第二章 高位詠唱における多重構造』
『第三章 省略詠唱の危険性と限界』
どれも興味深いが、今探しているのは、もっと根っこの方を扱ったものだ。詠唱そのものの階層構造──そして、そこに神代語や無詠唱という単語が顔を覗かせていないか。
隣ではエリシャも、論文集のような装丁の本を一冊ずつめくっている。ページを繰る手の動きが次第に速くなっていった。
「先生、この論文集……」
エリシャの声が、不意にぴたりと止まった。
アルドがそちらを見ると、彼女はあるページで指を止め、目を見開いていた。
「どうした?」
「ここ、見てください」
差し出されたページには、小さな文字で章題がずらりと並んでいた。その中に、ひときわ目を引く一行がある。
『第三章 神代語・無詠唱・高位詠唱の仮説的階層構造について』
タイトルを読んだ瞬間、アルドの胸がどくりと鳴った。
探していた単語が、見事に一列に並んでいる。
エリシャは震える指でその一行をなぞりながら、抑えきれない声を漏らした。
「先生……これって」
「……俺の知らないところで、そこまで仮説を立てていた学者がいたとはな」
思わず、小さく笑いが込み上げる。自分が長年、ひとりでこね回していた問いに、遠いどこかで別の誰かもまた挑んでいた。その事実だけで、心のどこかが少し軽くなる。
「読みますか?」
「もちろんだ」
アルドたちは閲覧卓に戻ると、椅子を引き寄せ、論文集を二人の間に置いた。エリシャも身を乗り出して、中を覗き込む。指先が、該当章のページへと慎重に紙をめくっていった。
紙の向こうには、どんな階層図が描かれているのか。神代語と無詠唱と高位詠唱が、どんな関係で語られているのか。
ページが、静かな音を立てて開かれていった。




