第23話 神代語仮説
ノア=セリア特集号をひと通り追いかけた頃には、魔導灯の光が僅かに角度を変えていた。窓から差し込む陽が高くなり、閲覧卓の木目に落ちる影が細くなる。
ページを閉じて背表紙を撫で、アルドは一度深く息を吸った。インクと紙の匂いが肺の奥まで満ちていく。
「先生、次はどうします?」
向かいでエリシャが、栞を挟み終えた手を膝の上に揃え、期待混じりに尋ねてきた。その緑の瞳からは、「もっと読みたい」という気持ちがひしひしと伝わってくる。
「……ノア=セリアに関しては、ひとまず入口は押さえた。次は“古代語”そのものだな」
アルドは立ち上がりながら言った。
椅子の脚が絨毯を軽く擦る。
「三階の学術資料室に『古文書学・言語史』の棚があると言っていたはずだ。ついでに、詠唱に関する理論書にも当たりたい」
「はいっ」
エリシャも勢いよく立ち上がり、抱えていた本を整えてから棚に戻し始めた。その動きがどこか名残惜しげなのは、言うまでもない。
三階へ続く階段を上がると、空気はさらに静まり返っていた。二階よりも人影が少なく、ページを繰る音や羽ペンの擦れる音が、かえってよく響く。
入口の横に小さな銘板があり、『学術資料室/要閲覧許可』と刻まれていた。先ほど司書から渡された利用者証を差し出すと、そばに控えていた別の司書が軽く会釈をして通してくれた。
中に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは棚の上部に掲げられた札だった。
『魔導言語学』『詠唱理論』『古文書学』『世界構造論』──どれもこれも、面白そうなものばかりだ。
「……!」
隣からも、押し殺した悲鳴のような息が漏れていた。
エリシャのテンションが、目に見えて跳ね上がったのがわかる。肩がきゅっと上がり、視線が『魔導言語学』と『詠唱理論』の札の間を何度も往復している。
(まあ、気持ちはわかるがな)
アルドは内心で苦笑する。学院の専門棟ですら、ここまで露骨な分類札は付いていなかった。研究者気質の学生なら、一日中でも棚の前から動かないだろう。
「……はしゃぐなよ?」
「はしゃいでません。心の中だけです」
声を潜めて言い返してくるが、口元が緩んでいるので、説得力は皆無だ。
アルドはとりあえず『古文書学・言語史』と書かれた列へ向かった。重ねて貼られた小さな紙札に、『古代語』『封印術語彙』『地方古語』など、より細かい分類が書かれていた。
古代語、と記された一角の前で立ち止まり、背表紙をなぞっていく。
『古代魔導語辞典』
『古代封印呪文集成』
『古代語講義録』
『初学者のための古代語入門』
どれも、それらしい顔をして並んでいる。アルドは数冊を抜き出し、近くの細長い卓に積み上げた。
「先生、こっちに辞典系がまとまってますよっ」
少し離れた棚でエリシャが声を潜めて手招きしている。彼女の前の棚には、分厚い辞典がずらりと並んでいた。
「まずは辞典と概説書だな。体系がわからんことには始まらない」
アルドは『古代魔導語辞典』と『古代語講義録』を手に取り、ページを開いた。
『古代語:今は失われた魔導言語の一種。主に封印術や高度儀式魔法に用いられたとされるが、現存する文献が少なく、体系は未解明である……』
別の辞典では、
『古代語:現行の詠唱語以前に用いられていたと推定される古い言語。文法上の特徴として、命令形の多用と、魔力値を直接指定する語彙体系が挙げられる……』
講義録の序章では、
『本講では、古代語を“古い詠唱言語”としてではなく、“古い詠唱に付随した特殊な文法体系”として扱う。特に封印術においては、魔法陣に刻まれた文字列と詠唱との対応関係が重要であり……』
などといった調子で、似たり寄ったりの説明が続いていた。
(だが……この程度の知識なら、学院でも聞いたことがあるレベルだな)
アルドは心の中で溜息をついた。もちろん、体系立てた整理としては価値があるが、欲しいのはそこではない。
古くてよくわからない言語、封印術に使われていたなどということなら、既に知っている。問題は、その奥にある世界と直結している感覚の方だ。
「うーん……どれも、『失われてます』『よくわかってません』ばかりですね」
エリシャも同じ感想に辿り着いたらしく、眉を顰めて講義録をぱたんと閉じた。
「そう簡単に答えが出るなら、苦労しないさ」
アルドは肩を竦め、本棚に視線を戻した。その時、ふと、一冊だけ背表紙の色が違う本が目に入った。
他の新しい装丁とは違い、深い藍色の革に金の文字が沈んでいる。手に取ると、紙はやや黄味がかっており、ページの端が指先にざらりと引っ掛かった。
『魔導言語史概論──詠唱と世界構造』
タイトルからして、狙いど真ん中だ。
「先生、それ……」
「ああ。年代は少し古そうだが、悪くないかもしれん」
アルドは本を抱えて閲覧卓へ戻った。エリシャも興味津々といった顔で隣に座り込んだ。
まずは巻末の索引ページを開き、指で項目を追っていく。『詠唱』『語源』『象徴』『封印術』『古代王国語』──と続き、その中に小さく『古代語』の文字があった。
「ありましたね。えっと……古代語は、と」
そこまで読んだ瞬間、エリシャの指がぴたりと止まった。
「先生、ここ! 『神代語仮説』って書いてあります!」
思わず声が弾み、周囲の視線が一斉にこちらを向いた。少し離れた棚の影から、先ほどの司書が「シーッ」と人差し指を口に当てて窘めてきた。
「……声を落とせ。資料室だぞ」
「す、すみません……!」
エリシャが縮こまり、耳まで赤くなる。
とはいえ、彼女の瞳の輝きは消えなかった。
(やはり、古い本の方が面白いことが書いてあるな)
アルドは自らの口角が上がったことをふと自覚しつつも、索引に記されたページ番号を辿って該当章を開いた。
『第三章 創世言語と魔導言語の起源』
見出しの下に、やや小さめの文字で『神代語仮説』と添えられている。
本文はびっしりと詰まっており、ところどころに古い写本から転記されたと思しき図版が挟まっていた。
アルドは視線の速度を少し落とし、行ごとに意味を噛みしめるように読み進めていく。
『一般に古代語と呼ばれる言語は、単に古い詠唱言語ではない。むしろ、それ以前に存在したとされる〝創世言語〟の残滓ではないか、という説がある。本書では便宜的に、この創世言語を〝神代語〟と呼称する』
ページの上部に、その一文があった。
創世言語と神代語。紙の上の文字が、じわじわと重みを帯びてくる感覚があった。
アルドは指先で行の端を押さえたまま、次へと視線を滑らせる。
『神代語とは、神話において神々が世界を創り、秩序を与えたとされる際に用いた言語である。そこにおいては、言葉そのものが現実を規定し、存在を与える力を持っていたと記される』
『我々人間の魔導師が用いる詠唱は、この神代語の〝模倣・翻訳行為〟に過ぎない、というのが神代語仮説の骨子である。すなわち、詠唱とは世界に語りかける言葉ではなく、既に刻まれた〝根源の言葉〟をなぞる行為に過ぎない、という見方である』
アルドは、静かにページをめくりながら眉をひそめた。
「言葉がそのまま現実を変える……〝ロゴス〟の概念か」
低く洩らした言葉に、隣のエリシャが首を傾げる。
「ロゴス?」
「神学者が好んで使う言葉だな。世界を形作る根源の声……そんなところだ」
学院生時代、神学の講義で何度も耳にした語だった。
世界は神の言葉によって創られ、その言葉が今もなお基礎構造として残り続けている──そんな、少し胡散臭くも惹かれる説の根幹にあった単語だ。
アルドは再び本文に目を落とす。
『神代語仮説を支持する学者たちは、いくつかの古代遺跡に残された文字列が、神話に記された〝創世の言葉〟と構造的な類似性を持つことを指摘する。しかし、現時点において神代語そのものの実在は証明されておらず、伝承と断片的な遺跡文字から推察されるのみである』
『したがって、神代語仮説はあくまでも仮説に過ぎない。しかし、古代語の一部が現行の詠唱語よりも高い効率で魔力に作用する例が報告されていることを鑑みれば、その背後に〝より根源的な言語体系〟の存在を想定することは、全くの荒唐無稽とは言い切れない』
筆致は慎重だが、その行間にはどこか高揚した響きがあった。紙の向こうで、この学者が机を叩きたくなる衝動を抑えながらペンを走らせている姿が目に浮かぶ。
(言葉が、そのまま現実を規定する……神々が用いた創世言語の残滓……)
遺跡の壁に浮かんだあの古代文字。守護獣の体内を駆け巡っていた光の文字列。そして、自分が初めて無詠唱魔法を発動したときに感じた、意味の波のようなもの。
似ている、と直感が告げていた。
詠唱文を意味構造として分解し、その奥にある何かに触れてしまった感覚。言葉を口にする前に、世界の方が頷いてくれる、あの得体の知れない一瞬。
(もし、この神代語とやらが実在し、その一部が古代語として封印術や魔法陣に刻まれているのだとしたら……?)
無詠唱魔法は、『言葉を省いた』のではなく、『より根源の言葉に直接触れているだけ』なのかもしれない。
そこまで考えたところで、思考が自分でも驚くほどの勢いで先走りそうになっていたことに気付いた。
アルドは慌てて、意識の手綱を引く。
(飛躍が過ぎる。まだ、遺跡一つと自分の感覚だけだ)
ページを閉じかけた手を止め、もう一度最後の段落を読み返した。
『繰り返しになるが、神代語の実在は証明されていない。本章で述べたのは、あくまでも一部学派における学術的仮説であり、現時点では決定的な証拠に欠ける。この仮説が真に価値を持つかどうかは、今後の遺跡調査と古代語解読の成果に委ねられている』
慎重な言葉で締められていた。だが、それでも。
アルドの胸には、静かなざわめきが残っていた。




